2 / 涸れ川の町
夕食前にひとりで戻ってきたシャゼリは、フォルセティの部屋の扉を閉めると興奮気味に大股でベッドまで近づいてきて、うつ伏せになっていたフォルセティを見下ろし言った。
「すごいな、あの男。良い意味と、悪い意味で」
「え? ああ、そう。良かったな」
顔を向けて面倒そうにそう言い、また布団に顔を埋めてしまったフォルセティにシャゼリは眉を寄せた。椅子を引いてきた彼はそれに腰掛けながら尋ねた。
「俺が留守の間に何かあったのか?」
シャゼリはフォルセティを監視する役目を負っている男である。その彼が言ってはいけない言葉にフォルセティはなんとも言えない気持ちになり、大きなため息をつくとベッドの上で起き上がった。彼は頭を掻きながらシャゼリのほうに向き直り、その場であぐらをかいた。
「おまえが出てったあと、マルクトが来た」
「え? なんのために」
「おまえが仕事してるか見にきたんだよ」
シャゼリは眉を顰めて口元を押さえると少し考え、やや上目遣いでフォルセティに聞いた。
「なんて答えた」
「ちょっと用があって離れてるって」
「ありがとう。ただ、あいつがそれだけの用で来るとは思えないが」
フォルセティは瞬きをし、目をすがめてシャゼリを見た。彼は目を逸らさない。フォルセティは長々と息を吐いてから答えた。
「王がシルカたちを娘と認めたとさ」
「そうか」
シャゼリが存外に晴れやかな声で答えたので、フォルセティは一瞬呆気にとられた。
「なんだよ。うれしそうだな」
「そうじゃないかと思ってたからな。あいつは女だし、ちゃんとした教育を受ける機会だって少なかったはずだけど、頭もいいし、卑屈になってもいい境遇なのに向上心があるし、しゃべりはつっけんどんだけど人を見て態度を変えるところがないから意外と人望もあるんだ」
「いきなり語るじゃん」
半笑いで茶々を入れたフォルセティに一瞬顔を赤らめたシャゼリは、とにかく、と続けた。
「とにかく俺なんかよりよっぽど陛下の血を引いてる感じがしてた。だから相応の扱いがされるべきだと思ってたんだ。良かった。認められたんだな」
「良かったのかな。本当に」
フォルセティが返した独り言のような言葉にシャゼリは眉を寄せた。
「どうしてだ?」
フォルセティはマルクトの申し出をそのまま話す気にはなれず、シャゼリの顔をしばらく見たあと、ため息をつきながら下を向いた。
「この国は男女の組み合わせを、国とか部族とか、そういう集団どうしの繋がりを強めたり確かめたりするために使うだろ」
「悪いことか?」
「それは考え方次第だと思うよ。でも王の娘となれば、その組み合わせの片割れとしてとか、それ以上に王の血を引く子を生む器としての価値を持ち始めるわけで……それが貴重であればあるほど周りの期待は大きくなって、自分が何をしたいのかどうなりたいのかってことを本人が選ぶ余地ってのは、減っていくじゃん」
シャゼリは怪訝そうな顔でフォルセティを見ていたが、ふいに目を細めると姿勢を正し、今までより少しだけ低い声で聞いた。
「承諾したのか?」
「するわけないだろ。クレタの意見を聞く気ゼロなんだぞあいつ」
フォルセティの口から出た名前でシャゼリは表情を緩めた。たっぷり時間を置いてから彼は言った。
「陛下も、お悩みなんだと思うんだ」
「は?」
フォルセティの返しはやや怒気をはらんでいたが、シャゼリは気分を害した様子もなく、頭を振って続けた。
「陛下には男子が数人いて。その中には正室のスティリア様との間の御子もある。皆俺よりずっと優秀で、もう既にそれぞれが要職にあるが、陛下の跡継ぎとして恥ずかしくないよう、これまでの陛下のご功績をつぶさに学び、陛下にもしものことがあったときにもすぐに陛下の治世を引き継げるよう常に研鑽を重ねておられる」
「おまえは?」
「俺はとっくに降りてる、というかもとより才能もなくて相手にもされてないし。ただそうした御子らにすら陛下は安心して後を任せられるとお思いではないらしく、未だに後継者の指名がないんだ」
「なんで?」
シャゼリはしばらく上を見、たぶん、と続けた。
「たぶん、陛下はかつてのご自身を手本にされることをお望みではないんじゃないかな」
「というと」
「陛下は小さな部族でのし上がり、周りの国々を様々な方法で取り込んで、一代で今のこの国を作り上げられた。併合した国を繋ぐ道を整備し、ハイロを経由すれば国内のどこにでも人と物とが移動できるようにした。ここを心臓に各地に血を通わせるようにして、そうしてこの国を育てていっている」
フォルセティは座っていた場所を少しずらして、自分の膝に頬杖をつき乗り出すようにしながらシャゼリの話の続きを待った。
「確かに人や物の数や量というのは、それ自体が力だ。だからほかに頼るものがないのなら、まずは体を大きくするように他国を併合し、国土を拡大していくというのは一定の時期までは理に適っている。だけどそれは永劫に通用する戦略ではないと思う」
「まあ、太りすぎると身動きとれなくなるからな」
「そうなんだ。だから陛下はそろそろこの国が、ただ拡大する時期から中身を拡充する時期に移ってきているとお考えなんじゃないかと」
フォルセティは背筋を伸ばしながらまじまじとシャゼリを見た。
「おまえ案外ちゃんとしてんのな……」
「いや、俺は王位にはかすりもしないから外をほっつき歩いてて、それで町中を見てて思っただけだ。町に流入する人も物資も増えてきて、道路とか、揚水設備とかを整備し直したり、質の良いものに更新するペースも上がってきている。で、あの男によると、最近できた設備にはそれぞれ竜の虫とやらが紐付けられていて、許可のないものが触れるとただちに城に知らせにいくようになっているらしい。言われて初めて知った」
「それで
そうなんだ、とシャゼリは屈託のない笑顔で言った。
「とにかく陛下は、これからはこれまでのやり方をそのまま続けるんじゃだめだとお考えなんだと思う。だから今新たな道筋をつけようとされているけど、御子らはどうしても陛下の全盛期を一番猛々しく民を率いていたころに求め、その姿その強さこそが王の権威と考え手本としておられるような……そんな感じがする」
「おまえにとっては?」
「陛下の全盛期か? 今だ。というかあの方は常に前に進んでおられるから」
「その、おまえの心酔している王が、王の系譜を自分の望みどおりに組み立てるために、娘の意向も聞かずに子をもうけさせようとしていることについては?」
シャゼリは口ごもり、しばらく下を向いていたが、やがて顔を上げて言った。
「そんな御子がお生まれあそばしたとして。それでもご年齢を考えればいかに陛下のご希望と言えど、既に成人しているほかの後継者候補が即座に排斥されることにはならないだろ。だから御子をその競争に一番遅く参戦させる以上、万が一陛下が見届けきれなかったとしても自ら身を守れるような、例えばおまえが俺に見せたような。そういう力を持たせるのは陛下ができる最大の、愛情のこもった贈り物じゃないのか?」
「それは確かにそういう面も否定はしないよ。でもクレタは? そのために利用されるだけの器は?」
シャゼリは口を引き結び、ため息をついてから言葉を発しようとしたが、フォルセティはそれを許さなかった。
「クレタがそうなら、シルカだって例外じゃない」
シャゼリの目が泳いでいる。フォルセティは大きなため息をつくと、足を投げ出すように床に下ろして立ち上がった。
「そろそろ夕飯だろ。行こうぜ」
ルーシェは夕食の部屋に向かう道すがら、案内の女性の自己紹介を受けた。最初「エメルとお呼びください」と言った女性は、頭の高い位置で長い髪を結んでいる。すらりとした体格で、ルーシェよりは五つくらい年上に見えた。エメルはルーシェににっこり笑った。
「陛下はシルキアーテ様とクレアリット様を王女とお認めになりました。いかに相手がルーシェ様であっても、当国も王女には側仕えをさせるわけにはまいりません。そこで城仕えの女武官ではルーシェ様に最も年齢の近い
ルーシェは足元のネコと顔を見合わせ、改めてエメルに問うた。
「それでは、近いうちにふたりと会うことはできないでしょうか。私、クレタがここに来る前は、彼女と一緒に旅を……大事な友だちなんです」
「私にはお答えいたしかねますが、陛下にご要望はお伝えいたしましょうね」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ルーシェが頭を下げた前で部屋の扉が開かれた。中ではもうフォルセティがテーブルについており、その後ろにシャゼリがいるのも今朝と同じだが、シャゼリの隣にシルカはいない。エメルは食事が終わるころにまた来ると言って、その場を離れてしまった。
朝はいなかったマルクトがそこにいるのを少しだけ気にしながら、ルーシェは引いてもらった椅子に腰掛けフォルセティと向かい合った。
「ごめんね。待たせた?」
「いや、いいよ。腹減ってなかったし……」
「本当? 珍しいわね」
俯き気味にしていたフォルセティは顔を上げ苦笑したが、ルーシェはその憔悴した顔に言い知れぬ不安を感じた。
「もしかして体調悪い?」
「悪くないよ」
「そう? じゃあいいけど……」
ルーシェは、彼女からは向かいに見えるシャゼリもまた浮かない顔をしているのを見、今思い出したように話題を切り替えた。
「クレタたち、王女だったんですってね」
フォルセティが一瞬鋭い目でルーシェを見、ルーシェはそれが彼を悩ます理由なのだと思った。ただそれが、どういう意味でなのかはわからなかったが——彼女はシャゼリの隣のマルクトを一瞥した。マルクトは表情を変えない。少し目を伏せて、興味なさげに立っているだけだ。ルーシェは続けた。
「シルカにも会えなくなっちゃった」
「そうだろうな」
フォルセティが顔を動かさないまま視線だけマルクトのほうを気にする様子を見せたので、ルーシェは自分の推測が正しいのだと確信した。そしてその中身は、マルクトが——シルカに聞いた、あのマルクトが——関わっているのだと思うと、これはきっと以前ルーシェが疑いフォルセティが笑い飛ばしたような、そんな青臭くてかわいらしい話ではない。ルーシェは首元にひんやりしたものを突きつけられたような恐怖を覚えた。
でも、マルクトのいるここでそれを明らかにさせることは絶対に控えるべきだ。そしてルーシェがフォルセティと話せる場は限られている。ならばルーシェは、ここでフォルセティが、そして自分も弱気になっているところを、マルクトに見せるわけにはいかないと思った。
ルーシェは並べられた料理を前に深呼吸をすると正面のフォルセティをひたと見、彼が視線を上げて目が合うのを待ってから大きく口角を引き上げた。
「以前あなたの家で見た、食前の祈り。あれを私にやらせて」
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