9 / 虫籠と虫、そして陸(おか)

 イヴァレットの庭で、りんと鈴のような音が鳴った。

 主は振り返ると耳元で虫のささやきを聞き、それからふたたび前を向き直った。


 彼女の向かいにはクレタが座っている。色違いの両目それぞれと同じ色の石をはめ込んだ繊細な細工の装飾が、美しく整えられた髪をまとめあげている。クレタは膝の上で両手を握り俯いていたが、イヴァレットの言葉で顔を上げた。

「最後の客が来た」

 クレタは耳をそばだてたが、イヴァレットの虫のささやきは彼女には聞こえない。


 シルカと一緒にハイロにたどり着いてすぐ、クレタは衛兵に捕らえられシルカとは別々にされた。その後の彼女の扱いはおそらく「極めて」丁重で、軟禁された部屋も彼女がかつてユーレで見たルーシェの部屋よりずっと豪華だったが、彼女にとっては居心地悪いことこの上なかった。

 そこで数日、気の休まらない日々を過ごしたあと、ようやく彼女は母と対面した。久々に見た母は彼女の記憶の中のそれよりずっと小さくやつれていた。それはクレタ側の成長によるものでもあったのだろうが、それでも、道中シルカから「ほとんど変わっていない」と聞いていた彼女は少なからぬ衝撃を受けた。

 普段から母を見ているシルカにとって、その移り変わりは緩やかで、わずかなものだったのかもしれない。だからシルカは嘘をついたつもりはないだろう。けれどもクレタには、十余年ぶりに見た母の変貌は大きかった。クレタが思わず「お母さん」と呟くと、イヴァレットは微笑んだ。

「おかえり」とイヴァレットは言った。それはクレタの決意を揺るがす力を——十分とはいえなくても——持つ言葉であった。


 それからクレタはイヴァレットに連れられ、彼女の部屋に移った。絢爛な後宮を抜けた端、花に囲まれた庭を通る渡り廊下の先に小さな離れがあり、そこがイヴァレットの部屋であった。ものの少ない、傍目には寒々しいが、旅慣れたクレタには落ち着く場所。ただその位置は、クレタに後宮における母の立場を嫌でも思い知らせた。

 庭には水盤や鏡を備えた四阿あずまや、水が幕のように流れ落ちる噴水、梢を茂らせた木々と色鮮やかな花々。この国の気候とは到底相容れない様相であったものの、花虫の加護を普段から受けているクレタにとってはその理由など言わずもがなだった。とはいえこれだけの規模となれば、使っている竜の虫の数もひとつふたつではあるまい。クレタには渡り廊下の前を歩く母の背が、昔のように大きく、誇らしく見えた。そう、ここに来る前、そしてここを去る前、三人で暮らしたあのころと同じ。


 道中、シルカとはたくさん話をした。ガイエル王タイガは国を強く、富ませようとしていること。そのために人を集め、国を広げていること。しかし資源という魅力のない土地をどれほど寄せ集めたところで竜を呼び寄せることは簡単ではないから、そうした「持たぬもの」が竜を抱えた国々に侵されることなく生き残るにはほかにない武器が必要であること。そしてタイガが選んだ武器が知識コードであること——それはタイガが述べたものということだったが、クレタはタイガがどういう場面でその話をしたのか、そしてどうしてシルカがそれを知っているのかを、シルカに確かめる気にはなれなかった。

 ただ、そういう思想を持つ男にとって、言霊の竜を呪い殺そうとした女を母に持ち、自身もその知識を受け継ぎ竜の虫を自在に操る竜の娘イヴァレットは、きっと唯一無二の価値を持つ人間だったのだろう。この武器は磨き上げ、余人を出し抜いてこそ真価を発揮するからだ。

 だからタイガはイヴァレットを、王族でも豪族でもない流浪の民のひとりに過ぎなかったその女を、後宮に迎え入れた。

 シルカは他人事のように「よほどうれしかったのだろうな」と言った。持って生まれたものではなく、自らの努力で身につけたものを、それとわかって評価され、尊重されたことが。

 先視なのだからそんなことは当然できるはずだという周囲からの勝手な期待に人知れぬ努力を重ねてきたイヴァレットにとって、それがどれほどの救いであったことか。クレタにはその気持ちがわかる気がした。でも彼女には、イヴァレットと同じく両の目が先視であるシルカに比べれば、自分の理解度などきっとままごと程度だという自覚もあった。

 こうしてクレタは、シルカを連れて帰ることが自分のわがままでしかないのではないかという不安を抱えながら、この国に戻ってきたのである。


 イヴァレットが立ち上がった。心細そうに顔を上げたクレタを見下ろしてから、イヴァレットは壁に掛けてあったストールを手に取り、クレタに投げ渡した。

「さあ、陛下にお目通りしておいで。おまえのこのあとのことを考えてくれている」

「でも。私は」

「クレアリット」

 愛する娘を呼ぶはずのイヴァレットの声は、氷の刃のようだった。クレタは思わず肩をびくつかせ、小さく「はい」と頷くと、受け取ったストールをきつく巻き、立ち上がった。


 そのころ「最後の客」は、寒風から指先を守るように腕組みをし、ひとり目抜き通りを歩いていた。通り沿いの店を眺めていたかと思えば不意に後ろを振り返る。その先にいたシャゼリは都度、ばつの悪そうな顔をして手を払った。こっちを向くな、という仕草。

 イシトが前を向くと、若い女性二人組と目が合った。ふたりは慌てて物陰に隠れた。イシトは立ち止まり、空を舞う水竜を眺めるふりをしてシャゼリを待ち、彼が追いついてしまうと斜め上を見たまま並んで歩き始めた。

「どうやら僕はわりと目立つようだよ」

「話しかけるな。怪しまれる」

「ならばきみが先を歩きたまえ。僕はきみの目的地を知らない」

 シャゼリは舌打ちをし、毒づきながら少し歩みを速めてイシトの前に出た。

 目立つと言いながら、この謎の男は一切風体を隠そうとしない。首から下はほとんど夜闇の一色で覆われているにも拘わらず、氷河の青をも遙かに超える鮮やかな色の瞳はもちろん整った顔立ちもまた、さっきから衆人の視線を集めている。だからシャゼリには彼の言葉が自慢のようにも聞こえたのだが、今はそれどころではなかった。


 フォルセティの部屋に現れたとき彼は、剣の柄に手をかけたシャゼリを前にしても眉ひとつ動かさず、ただゆっくりと人差し指を口元に立てただけだった。それを見たフォルセティは頷き、あぐらをかいていたベッドから足を投げ下ろして勢いよく立ち上がった。

 靴は放り投げてしまっていたから、歩いてもフォルセティの足音はしない。そうしてシャゼリの横に並んだフォルセティはシャゼリの肩に手を置き、少し背伸びをするようにして耳打ちをした。

「あいつはコードを知ろうとするものを絶対に拒絶しない。好きなだけ教えてもらえ」

 シャゼリは困惑している。ひとまず手を剣の柄から離すと、彼はイシトを指さしてフォルセティに聞いた。

「誰だ? あれは。いつ来た?」

「心配すんな、俺の連れだよ。ただし名前は教えない。知らないほうが安全だから」

 な、と言いながらフォルセティは「連れ」に顔を向けた。イシトは立てていた指を口角を上げながら下ろし、その問いかけを肯認した。

「さっきの部屋のおかげでとっくに検知されているからね、僕はよほど歓迎されていないらしい。きみもこれは僕の勝手な行動だということにしておいたほうが都合がいいのだろう?」

「そ。だからとりあえず速やかにこの部屋から出てってくれ、ふたりで」

「俺も?」

 シャゼリが跳ね返るように聞くのにフォルセティはわざとらしいほどの笑顔で答え、じゃあな、と言って彼の背中を叩いた。


 その直後のことをシャゼリは鮮明に覚えている。急に耳元でぶんと羽音がし、扉の前に立っていた男がその場で乾いた音を立て手を合わせた。途端、足元に蜂がばらばらと落ちてきて、シャゼリは思わず後ずさりした。ゆっくり間合いを詰めるようにシャゼリの目の前まで歩いてきた男は、蜂の落ちている手前で立ち止まり、その一匹だけを踏み潰し、残りを見下ろしながらくうに人差し指で何かを書いた。

 男の短い言葉とともに指の軌跡が光を放つ。瞠目したシャゼリの前で蜂がもぞもぞと脚を動かし、飛び立とうとするところで男は手を薙ぎ払い、その先で握った。蜂の姿が消え、あとには無音ばかり。

 男が一歩下がったが、踏み潰したはずの蜂はいない。シャゼリが顔を上げると男は涼やかな笑みを浮かべ、行儀の悪い虫を退治した、と言った。「きみについていたものだ」とも。


 その男の、人にものを頼む態度とは思えない尊大な言い方には相応のいらつきを覚えつつも、シャゼリは男の言うまま彼を城の外に連れ出した。

 彼曰く、とにかく城内は「行儀の悪い虫」が多いらしい。いちいち仕留めて回るのは不可能ではないが骨だし、何よりタイガがいい顔をしないだろうという。そう言われては応じざるを得ないから、シャゼリは彼にフードを目深に被せ、自分は鎧を脱いで城の裏手から外に出た。その結果がこれである。

 タイガもまたこの男を嫌っているというのであれば、この男と一緒にいるところを見られるのはなるべく避けたい。そう思っていたのに、男はすいすいと人の多い通りに進んでしまった。だからシャゼリはやむなく無関係を装って少し後ろを歩いていたのだが、男――イシトの側はシャゼリのそんな、ただでさえ無駄な抵抗をすら完膚なきまでに無視してくる。

 シャゼリは大きなため息をついた。とにかくどこか落ち着いて話のできる、人目のないところを探すしかない。彼は後ろをイシトがついてくるのを肩越しにちらちら確認しながら、路地に入った。


 目的にした空き家はかつて、マルクトとその家族が暮らしていた建物だ。通りとは反対側の隣家との隙間に、日の当たる時間は短いが、かわいらしい庭を備えた、石造りの二階建て。城にほど近く、マルクトの母はいつもそこで寒さに強い花を育てて夫や息子を迎え、夫の主の寵児であるシャゼリのことも可愛がってくれた。

 マルクトがその兄と父とを斬ってから、彼の母は心を病み、今はここにはいない。だからこの建物は使うものも、寄りつくものもない。建物の隙間を蔦を払いながら進み、荒れ果てた中庭を踏みしだいて勝手口へ。数年間手入れをされていなかった扉は、シャゼリが思い切って蹴り抜くと簡単に鍵が壊れて開いてしまった。

 シャゼリはその場で立ち止まり、黙祷をした。室内では閉め切られた雨戸の隙間から入った細い光が、舞い上がった埃をきらきらと輝かせていた。


 顔を上げたシャゼリは深呼吸をすると勢いよく振り返り、数歩後ろで目を細めていたイシトに室内を指さしながら言った。

「ここならその、行儀の悪い虫とやらもいないだろ」

「うん。大丈夫そうだ」

 イシトは室内を覗き込んで左右を見ると、首を引っ込め、では、と続けた。

「ではまずあらかじめ、虫除けをしようか。ついてきたまえ」

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