8 / 壁の向こうに

 退屈そうな顔で迎えにきたシルカに連れられ、ルーシェはなるべく平静を装って戻ったものの、自分にあてがわれた部屋の前まで来ると彼女はシルカを引き込み扉を閉めた。それからルーシェは、ぽかんとした顔のシルカをそこに置いたまま部屋の奥まで走っていき、窓辺に手をついて空を見上げた。

 オトはまだ戻っていないが、空には水竜が見える。少しだけほっとしてルーシェは振り返った。

「ねえ、ここ、ああいうのが普通なの?」

「ああいうの……」

 シルカは怪訝な顔で復唱しながら扉のほうを振り返り、ああ、と呟いて顔をルーシェのほうに戻した。

「あの部屋か。普通というか。常に備えているだけだろう。それが何か」

「常に? 罠を張って?」

「そんなに驚くことか?」

 ルーシェは深呼吸をするとシルカを見、それから部屋の中を見回した。

 この部屋の壁には装飾こそあれ、あの部屋のような仕掛けは、少なくともルーシェに気づける限りではなさそうだった。ルーシェはネコを見、ネコも部屋を見回して、ルーシェに視線を返すと小首を傾げてみせた。ルーシェはため息をついてシルカを手招きしながらベッドに腰掛けた。

 ルーシェの前でシルカは片足に重心を寄せて立った。ルーシェはそれを見上げるようにして、ただし声は潜めるようにして聞いた。

「この国の王は、どういう人なの」

「それは経歴とか功績とかのことか? それとも人格?」

「後者よ」

「あまり私を信用されても困るんだがな」

 シルカが眉を寄せるので、ルーシェは素直に「ごめん」と頭を下げた。

「でもあなたにしか聞けない」

「……とは言っても。私にもよくわからない。おまえが昨晩図書室で会ったのは、傘下に置いた国々から有力者の娘をめとり人質にする男でもある」

 シルカは窓の外に目をやった。ルーシェが振り向くと壁が見えるだけだったが、シルカは「そっちの先に後宮がある」と言い、見開いた目を向けてきたルーシェに肩をすくめた。

「母もそこにいる。ただあれは珍しい色の目をしただけの流浪の民で、ほかの女たちと違い差し出されたり召し上げられたりしたわけでもないし、身柄を押さえておいたところでなんの担保にもなりはしないから、おそらく竜の虫を使うのに長けた術者としての価値を見いだされただけだと思う。さっきの部屋のコードも母がかつてその母の遺した記録から編み上げたもの」

「エルジェシル……」

「よく知っているな」

 シルカは意外そうな顔で一度姿勢を正し、これまでとは逆の足に体重を預けて続けた。

「おまえの国にはこういう、人質を取るような仕組みはないんだったな」

「少なくとも私は聞いたことがないわ。お母さまにはお父さまだけだし、おじいさまにもおばあさまだけだった、と、思う」

「それが普通だと思って生きてきたものにこの国やその王のあり方は異様かもしれないが、私たちにとってはこれが普通だ。自分以外を常に疑い、だからこそ保証になるものを求める」

 保証、と繰り返したルーシェに、シルカは自分の左目を指さした。

「私の目は両方とも母から受け継いだ。しかしクレタは片目が父からのものだ。だから王の歓心を買えるものが少なくなった今、母にはクレタが必要になった。クレタの左目はタイガと同じだから」

「あなたたちのお父さまは、ガイエル王だということ……?」

「真実はどうあれ、少なくとも母にとってはそのほうが都合がいいからな。タイガにはほかに生きた娘がないから貴重な駒だ」

「でも息子は何人もいるのよね。シャゼリさんは三人目だって」

 シルカは大きなため息をつくと、床に座り込んであぐらをかいた。

「シャゼリが生まれたときには五人目だったはずだ。あいつの母親も併合された国から差し出された。それについてきた従者の筆頭がエルゼバ・オース、マルクトの父親だが、タイガの命を狙って獲り落とし、長男ともども処刑された」

「え? だったら……」

「二男は顔色ひとつ変えずに父と兄の首をはねたそうだ。おかげでシャゼリの一族はからくも共謀のとがを免れた。タイガはマルクトを気に入り、それでかつての主従があのざまだ。シャゼリは実質的に、継承権争いからもはじき出された。もっとも、だから死なずに済んでいるようなやつだが」

 ルーシェは言葉を失い、下を向くと膝の上で握りしめた拳を見つめた。この国はあまりにも、ルーシェの知る「国」とは形が違う。それでもこれが、この国の秩序だ。かつてルーシェが「受け入れるべき」とイシトに言った、文化の違い。それだけのこと。


 シルカはルーシェを見上げ、肩をすくめると床に手をついて立ち上がった。ルーシェはまだ顔を上げないが、シルカはため息をついてから窓の外を見た。オトが帰ってきている。シルカは手を伸ばすと、オトが入ってくるのを見届けてから窓を閉めた。

 ルーシェは膝の上に戻ってきたオトをなでた。外の空気の冷たさがわかった。ルーシェはオトを温めるように両手で包み、長く息を吐いてから意を決したようにシルカに聞いた。

「それでクレタは? 今何をしてるの? お母さまとは会えた? 話したいこと話せたの?」

 本当に聞きたいのはそんなことではなかったが、ここでそれを直接口に出すことの危険性がルーシェにはわからない。だから彼女は聞き方を選んだが、シルカの答えは簡潔だった。

「入国後すぐに捕らえられて、別れたきりだ」

「お母さまはなんて?」

「知らない、会っていないから。会ったところで話すこともないし……もういいか? あまり長居したくない」

 シルカは面倒そうにそう言い、親指で背後の扉を指した。ルーシェはシルカの顔を見、その表情に今まで感じたことのないものを見てとった。何か言うべきことがあるように思ったが、自分が口を出せることではないと考え直してルーシェは口をつぐみ、無言で頷いた。


 対してフォルセティのほうは賑やかなものであった。

 戻るなりシャゼリに部屋に押し込まれたフォルセティは、シャゼリが後ろ手に扉を閉め、こちらを凝視しながらにじり寄ってくるのに戸惑いを超えた危険を感じた。奥の壁まで後ずさり、手探りをしたが、もちろん身を守る道具は何もない。

 やむなく覚悟を決めたフォルセティは鼻を擦ると、その場で仁王立ちになった。

「どれのことだ? 謝って済むなら謝る。謝って済まなくても許せ」

「なんのことだ? そんなに選ぶほど謝ることがあるのか?」

 その場で立ち止まり、当惑しながら答えたシャゼリにフォルセティは、は? と気の抜けた声を上げ肩を落とした。ため息をつくと頭を振り、ベッドに腰掛ける。

「じゃあなんなんだよ。怖い顔で迫ってくんな」

 靴を放り投げて足を上げ、あぐらをかきながら睨んできたフォルセティにシャゼリは不服げな表情で首を傾げると、椅子を引いてきてフォルセティの前に腰掛けながら言った。

「おまえはあの部屋の文字が読めるんだな」

「そりゃ読めるよ多少は」

「あの部屋は王の財産だ」

「でしょうネ。王城だもん」

 シャゼリは頭を振った。

「そういう意味じゃない。あの文字、あの知識は、この国では王だけが持つ宝だ」

 フォルセティは眉を顰め、「だけ?」と聞いたがシャゼリは頷いた。フォルセティはその意味について首をひねって少し考えてから情けない声を上げた。

「いやいやいや、でもさ。でもよ? 俺はこの国とは全然関係ないぞ」

「だからだ。おまえの国ではその知識を授けることは自由なんだろう? 俺はあれを学びたい。教えてくれ」

「はあ? ていうかおまえ、それ大丈夫なの?」

「禁じる法はない。だが誰も知ろうともしない。だから教えられない。でもさすがに陛下に教えを請うわけにはいかない」


 フォルセティは呆れた顔を返しながらも必死に考えを巡らせた。

 この国ではどうやら、コードの知識は余人に許されぬ王の御業みわざとでも扱われているらしい。ハイロに近づくにつれ「祝福」が素直に喜ばれるものではなくなったのも、きっとそのせいだ。

 ユーレでも、その知識は誰も知ろうとしない。ただその理由は、竜と結ぶものがあり、それが生活に必要な竜の恩恵を受け続けている限り、その他の民は不足を感じることはないから。必要を感じられないから、求められもしない。だから各地のプライアはそれをほぼ廃れるがままにし、プライアたちの知の集積地としてのサプレマもまたほとんど保存のためだけにそれを伝えてきた。しかしこの国にはプライアがおらず、竜もいない。そのためにコードにはきっと、竜よりできることの少ない虫を操るものであっても十分な価値がある。なのに誰も学び、広めようとしない。それはおそらくその知識は王の権威を裏付ける要素の重大なひとつであり、その独占性を侵すことは、ひいては王を敵に回すことになるから。


 フォルセティは腕組みをして下を向いた。あの部屋で、イシトはタイガのコードの使い方を嫌っているのだと思った。しかしどうやら違いそうだ。使用者の裾野の広さが生命線だと語るイシトにとって、普及の土壌があるにも拘わらず、王がそれ振るうことで触れ得ざるべき宝のように扱われることは面白くないだろう。もちろんフォルセティにとっても不愉快であった。自分も持つ知識を、知らないうちに勝手に私物化されたかのようで。

 しかし逆に。あれがさまざまな人に広く普及すれば、いずれ熟達したものも出てくるはずだ。道具は使い手を選べない——そこまで考えてフォルセティはゆるりと顔を上げた。

 目の前のこの、タイガと同じ色の目をした男は、自分のしようとしていることを彼の王がどう思うのか十分に考えているのだろうか。フォルセティはそんな懸念を持ったが、シャゼリは正面から真剣な顔でこちらを見てきた。フォルセティはその目に正面から挑んだ。

「禁じられてないのに誰もしない理由はもちろん考えたよな?」

「怖いんだと思う。それはわかる、陛下はあまりに偉大だ。でもさっきだって陛下はおまえに『我々』と、そして『民』と言っただろ。なら独占は陛下の本意ではないはずだ。俺は自分の生まれたこの国を誇りに思っている。だからそれを守る力を学び取りたい。陛下もなさったように」

 フォルセティには、シャゼリの解釈は細い糸にすがるような、あまりに純朴で都合のよい、そして危ういものに聞こえた——が。彼は自分の覚えた不快感をちくりと思い出し、結論を出した。


 フォルセティは眉を寄せたまま大きく息を吸うと、それをゆっくり吐いてからシャゼリをひたと見、言った。

「頼りにされたのは光栄だよ。でも俺には無事に帰国することが最優先だ。だから俺は、おまえの主に表だってケンカ売りかねないなら、そんな真似はしたくない。俺だって怖い」

 シャゼリは視線を落としたが、「で」と続けたフォルセティがにんまり笑っているのに気がついた。

「で、そこに都合良く、おまえの主のことを全く怖がってなくて、たぶん世界一コードに詳しく、なおかつ教えたがりの狭量なやつが現れたりするわけ」

「狭量という評価は不本意だね……」

 突然の第三者の声に、とっさに振り向きながら立ち上がったシャゼリの視線の先には、扉を背にしたイシトが立っていた。

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