7 / 日の射し込む部屋

 町から帰って一度部屋に戻り、身なりを改めて整えたルーシェは、窓に映る自分の姿を見、その場で姿勢を正して「よし」と呟くと窓を押し開けた。オトは窓辺を飛び立つとすぐに見えなくなった。

 部屋を出るとシルカが待っていた。彼女の格好はさっきまでと変わらない。シルカはルーシェの足元を見、顔を上げると言った。

「そのネコはやめておけ」

 ルーシェはネコと顔を見合わせた。不安はあるが、そう言われては仕方ない。

「じゃあお部屋の前まで」

 答えたルーシェを尻目にネコは、シルカの足に体を擦りつけながら彼女を一周し、ルーシェのほうへ戻ってくると、歩き出したふたりの後ろをついていった。


 シルカに連れられて玄関ホールまで行き、少し待っているとフォルセティとシャゼリが来た。シャゼリの鎧は心なしかさっきより曇りが少なく、髪もきれいに整え直されているが、より顕著な変化は彼の表情だ。ものすごく緊張しているな、とルーシェは思った。彼女が他人事ひとごとでいられたのは、シャゼリの隣のフォルセティは全くいつもどおりだったからだ。彼は良く言えば肝が据わっている。

 しかし。ルーシェは隣のシルカを横目でちらちら見た。シルカはイヴァレットがこの国に連れてきた娘だ。そしてイヴァレットと王との関係は、とルーシェは思い、立ち入ってはいけないことに踏み込みかけたような気がして思わず目を泳がせた。シルカがフンと鼻を鳴らし、ルーシェは息を呑んだが、シルカのそれはルーシェに対してではなかった。

「肉親に会うだけなのにそんなにめかしこむ必要があるのか?」

 シルカはシャゼリにそう言い、ルーシェとフォルセティは揃ってシャゼリを凝視した。シャゼリは渋い顔をするだけで何も言わない。ルーシェたちが説明を求めてシルカを見ると、シルカはこともなげに答えた。

「こいつはタイガの息子だ。何人目のかは忘れた」

「残ってる中では三番目だ。それよりおまえはもうちょっとちゃんとしろ。陛下に敬意を払えよ」

「必要ない、私は会わないからな。所詮、めかけの連れ子だ」

 シルカはシャゼリを軽くあしらい、唖然としたルーシェの前で踵を返すと、そのまま振り向くこともなく王の待つ部屋までルーシェたちを先導した。


 そこにたどり着くまでの廊下から、城下に広がる町が見えた。昨晩図書室からは暗くてほとんどわからなかったが、確かにあの本の鳥瞰図によく似ている。

 これからこの町この国をほとんどひとりで作り上げた男と会うのだ。それが既に一度顔を合わせたあの男だとは言え——ルーシェは後ろでシャゼリの鎧が立てる規則的な音を聞きながら、だんだん自分も緊張してくるのを自覚した。

 観音開きの木製の扉の前でシルカは立ち止まり、後ろを振り向きながら脇に避けた。シャゼリが進み出て扉の前に立つ。彼は咳払いをしてから三回ノックをし、二歩後ろに下がると扉が内側から開かれるのを待った。

 目の前に広がった部屋は、正面の大きな窓から差し込んだ光で満ちている。壁の高い位置には部屋を取り巻くようにぐるりとレリーフが彫られ、昨晩の図書室のようだった。

 十五、六人くらいは軽くつけそうな、天板の厚い立派な長テーブルがある。その一番奥に窓を背にして男がひとり着座していた。彼は卓上で組んでいた手を解くと、緩やかに右手を挙げて手招きした。シャゼリは敬礼し、それから左に退いて、ルーシェたちに入室を促した。

 ルーシェはその場で一度深く頭を下げ、中に進み入った。続いたフォルセティは一瞬立ち止まったが、左右を見たあと彼女に従った。扉の脇にはマルクトが控えていた。後ろをついて入ったシャゼリは後ろを向いて少しかがみ、ネコに向かって追い払うように手を振った。ネコが不服げな顔で扉から離れ十分な距離が空いたので、シャゼリは扉を閉めマルクトとは反対側に立った。


 カトラリーがセットされた席が、主のほかにふたつある。タイガから向かって左前の、手を伸ばしても届かないくらいには隙間を空けた場所に並んで。ルーシェはタイガに近いほうの席まで進むと、そこで改めて深くお辞儀をした。

「昨晩はありがとうございました。陛下とは存じ上げずご挨拶もないまま、大変失礼いたしました。ルーシェ=セレニタ・シュナベルと申します。このたびはこのような場にお呼びくださり……」

 そこまで言ってルーシェは不意に言葉を呑み込んだ。いかにも形ばかりの挨拶の前に昨晩のことを述べてしまったから、次は別の感謝の言葉を探さなければならない。ルーシェが口ごもったのに気づいたフォルセティが、隣から言葉を引き継いだ——が、ルーシェが気にしていた言葉の重なりなど彼には全く関係がなかった。彼がストレートに「ありがとうございました」と言うのを聞き、ルーシェは脱力した。


 席がこんな形で用意されているということは、フォルセティもまた単なる従者ではなく客人として迎えられているということだ。彼もまたタイガに名乗り、頭を下げた。タイガは腰掛けたまま頷くと、ふたりに椅子を勧めた。

「寝不足の若いお客人を、いきなり堅苦しい場に引きずり出すのもどうかと思ってね。座って。楽にしてください」

 昨晩図書室で聞いたあの声そのままでそう言い、タイガは目を細めながら、ふたりが椅子を引いて腰掛けるのを見つめた。ルーシェは所作のひとつずつを観察されているのを感じたが、これは慣れたこと。でもフォルセティは緊張しているかもしれないと思い、ルーシェは顔はそのまま目線だけ彼に移した。ところが彼はルーシェの心配などどこ吹く風で、部屋の中を感嘆のまなざしで見回している。ルーシェは彼の行動があまりに不遠慮なので心配になりタイガの顔色を窺ったが、王は気分を害した様子は全くなく、むしろ楽しげであった。

「きみには珍しくもないのではないかね」

 タイガがフォルセティに言うので、ルーシェはフォルセティに顔を向けた。フォルセティは無礼にも視線を窓の上あたりに向けたまま答えた。

「いえ、こういう使い方は初めて見ました。上手く装飾にまぎれ込ませてありますが、結構手の込んだやつですね……」

「内容もわかるのかな」

「たぶん。少し時間をもらえますか」

「もちろん」

 フォルセティは眉間に皺を寄せて目を細め、向かいの壁の扉側から窓側まで、改めてなぞるように目を凝らした。その顔の動きをルーシェとシャゼリが追っている。マルクトは正面を見たままだ。タイガは肘をつくと手を組み、その上に顎を乗せてルーシェを見た。

「彼がこの場所の意味を理解するまで少し時間がかかるようだから、その間に殿下には昨日の本のことを聞かせてもらいましょうか。どうでしたか。読めましたか」

 ルーシェは視線を戻すと頷いて、昨晩読みながら寝てしまった『高層建築物解体の手法』のことを思い出しながら言葉を探した。

「人の育成のことを興味深く読みました。与えられたものを使うのならば、我々は使い手としてそれを正しく理解する義務があり、利便性だけを都合よく享受することはできないこと、その理解が自分の代だけで成し遂げられないならば次に伝えて探究を途切れさせないことが重要であること。そうして知識を継承していくことは今の世を自らの手で維持さらに発展させるのに不可欠であって絶対に軽視されるべきではないこと」

 ルーシェはそこまでほとんど一気に言ってしまうと息を大きく吸い、ひたとタイガを見て続けた。

「だから陛下は情報を集積し保管し、引き継いでいくためにあの図書室を作ったのだろうと感じました。もしかして、あそこにあった本はもともと陛下ご自身の個人的な蔵書なのではありませんか」

「うん。誰かが自分の命を削って一冊の本を作り上げたなら、それをものの数日で取り込んでしまえる読書は、何の犠牲もなくして自分を大きく、強くする最高の鍛錬です。それに気づいたあと私はとにかく、読むことに没頭してしまってね。気がついたらあれだけの数を抱えていた。すべてが私の師です」

 満足げに答えたタイガの青い目は穏やかで、ルーシェはここに来るまでに抱いていた暴君の姿は幻想でしかなかったのだと改めて感じた。この王は周辺諸国をいくつも統合してこの国を作り上げた名うての侵略者だ。しかしその方法はおそらく、必ずしもルーシェが想像していた粗野なものばかりではなかったのだろう。

 この王ならもしかしたら、クレタのことを正直に話せば理解を示してはくれないか——ルーシェは意を決して口を開こうとしたが、その瞬間隣のフォルセティが椅子を引いた音がしたので、出かかった言葉はふたたび呑み込まれた。


「わかったの?」

 ルーシェが尋ねるがフォルセティは答えず、テーブルに手をついた中腰姿勢のまま扉の上の一点を見つめ、たっぷり時間をかけた瞬きをしてからゆっくりと立ち上がった。彼はそれからタイガのほうを振り返った。タイガは少し上目遣いでフォルセティを見返し、静かに言った。

「我々は得たものを使い捨てはしない。それを理解し、身につけ、用いる民だ」

「ノイシュトバルトがあなたを嫌っている理由がよくわかりました」

「そうか。まあ、そうだろうな。あれは教えたがりのくせに狭量だから」

 フォルセティが彼を睨みながらゆっくり着座すると、タイガは目を細め、不安げな顔をしているルーシェに向かってにっこり笑った。

「安心しなさい、貴国のプライアは少なくとも無能ではなさそうだ。さあ、昼食にしようか」


 ルーシェは結局、フォルセティが解読したその部屋の「意味」を聞くことはできないまま、昼食会を終えた。

 食事中、タイガはルーシェにユーレのことをいろいろに質問したが、ルーシェが言いよどめばすぐに撤回した。一方でルーシェの質問には彼はすべて答えた。それが、ルーシェがこわごわ聞いた軍備に関するものであっても——ルーシェは一瞥した先のマルクトが少し眉を顰めているのにも気づいたが、それは得られた答えに対するものではないだろう、それこそ答え合わせになってしまうので。

 タイガはフォルセティにも何度か話を振ったが、フォルセティは曖昧な答えを返すだけで、タイガも無理をして続けようとはしなかった。


 城の主が先に退席するのを見届け、ルーシェは立ち上がりながら部屋を見回してフォルセティに聞いた。

「ねえ。この部屋の意味って?」

 タイガへのあの反応だ。フォルセティにとってそれが歓迎すべきものではなかったことはルーシェも理解しているが、それ以上のことはわからない。

 フォルセティはまだ腰掛けたままだ。不快感も露わな顔で腕組みをしていた彼はルーシェを見上げ、それから扉のほうを睨んだ。マルクトは既に部屋をあとにしており、扉は開いている。残ったシャゼリがふたりのほうを見ていたが、廊下にはネコが座って待っていた。

 フォルセティはその場からシャゼリに問うた。

「おまえ知ってんの?」

「まあ、だいたいは」

 ああ、そう、とフォルセティは気のない返事をし、立ち上がった。すたすたと扉のほうへ歩いていく彼を小走りで追いかけルーシェも廊下に出ると、フォルセティはその場から部屋の中を指さした。

「例えばあの、向かって左側の隅から始まってるのは囲んだエリア内の竜の虫が受けてる指示を全解除するコード。続いて、同じ範囲の竜の虫に対する指示権限を新たに設定するコード。それ以外もいくつかあって拾い切れてる自信がないけど、いずれにせよそういう全部にかかってるのがこの扉の真上、入ってきたときには絶対見えない位置にあった、遅延発動のコード」

「遅延発動?」

「うん。書き物による補助はあっても、コード発動の要件はあくまで音のほうなんだ。それが、内容が複雑であったり広範囲に渡ったり、はたまた強力であったりすればその分読み上げにも時間がかかるから、その場でやろうとすると術者の隙が多くなるし中断のリスクも高まる。だから事前に、瞬時に発動させたいものを読み上げておいて下準備を済ませ、発動の鍵になる言葉は別に決めてから相手を誘い込むわけ。要するにここは、招いた相手を丸腰にする罠だ」


 息を呑んだルーシェの後ろで、シャゼリがきしんだ音とともに扉を閉めた。

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