6 / 王の肖像

 次の朝、シルカが迎えにいくとルーシェは部屋にいなかった。シルカは部屋の中を見回し、窓辺に茶色い小鳥が入ってきているのを認めてから窓を閉めた。


 慌てる様子もなく彼女は図書室に向かい、案の定その窓辺でルーシェが本を開いたまま伏せているのを見つけた。シルカはルーシェの頬をぺちぺちと叩き、寝ぼけまなこのルーシェが顔を上げるのに首を傾げてみせた。

「そんなに面白い本があったか?」

「ああ……寝ちゃってたのね。おはよう」

 目をこすったルーシェの足元を、ネコが体を擦り付けるようにしてすり抜けていった。ルーシェは椅子の横に座ったネコを身をかがめて撫でると、背伸びをしてから立ち上がった。

「ごめん。せっかくお部屋も準備してくれたのに」

「かまわないが風邪を引くなよ。私の責任になる」

 シルカが机の上をちらちら見ながら言うので、ルーシェはページを閉じ表紙を見せた。

「これね。アドラの首都の、とっても高い建物をどう解体するかっていう本なの。今の技術じゃ作れるはずのない高層建築がいっぱいあるんですって」

「それがおまえとどう関係するんだ」

「関係は別にないんだけど。でも、アドラの人たちがこれまでそういう、自分たちの限界を超えるものをどこかから受け入れて当たり前に使ってきたってことに、私たちの国のこと少し重ねる部分があって。で、それをいつか自分たちだけでどうにかしなくちゃってなったときのために、アドラには、それぞれの知識や技術を総動員して実験を重ねたり、跡継ぎを育てたりして備えてる人たちがいるんですって。専門的でわからない記述もいっぱいあったけど、それでもわくわくしてね……」

 シルカは本を見下ろしているルーシェに目を細め、一瞬口を開こうとしたが、やめた。それから彼女は頭を振ると、後ろの扉を振り向かないまま親指で指し示しながら言った。

「没頭するのはいいが今晩からは寝るのはベッドにしろ。朝食がもうすぐ準備できる」

 ルーシェは頷くと、最初に借りた本とその大きな本との二冊をもとの場所に戻し、図書室をあとにした。


 朝食の用意された部屋に行くとフォルセティは既に席についていたが、腕組みをして船を漕いでいる。あっちはあっちで寝不足のようだ。ルーシェが向かいの椅子を引く音で彼は目を開き、顔を上げた。

「おはよ。寝不足って顔してんな」

「あなたもね。あまり眠れなかった?」

「いや、敢えての夜更かし。町に出てた」

 ルーシェは驚きの声を上げかけたが、目の前に横から温かいスープが差し出されたので、そちらに礼を述べるのを優先した。

 フォルセティに一口毒見をさせた上で、ルーシェは続きを問うた。

「シャゼリさんは許してくれたの?」

「一緒に行ったよ。俺が頼んでさ」

「よく応じてくれたわね」

「まあ、いろいろあんのよ、男どうし」

 なあ? といたずらっぽく笑いながらフォルセティは後ろを振り返った。壁際でシャゼリが渋い顔をしている。その隣でシルカが彼を一瞥し、涼しい顔で聞いた。

「オースの二男には黙っていたほうがいいのか?」

「問題になるようなことは何もしていない。客人の依頼に応えただけだ。別に目も離していないし」

「それで? 黙っていたほうがいいのか?」

「……黙っていてほしい」

 シャゼリが俯いてしまったのをルーシェは少し申し訳ない気持ちで見、気を取り直すようにパンに手を伸ばしながらシルカに聞いた。

「国王陛下にお会いするのはこのあとよね」

「いや。今朝急に、堅苦しいのはそうと言い出して。それでひとまず昼食を一緒にという誘いだから少し時間が空く」

「急に?」

 ルーシェはちぎったパンでスープの残りを拭いながら聞いた。フォルセティ=トロイエの本やイシトの話からルーシェが想像を膨らませていた冷徹、強権的で厳格なタイガの像はここに来るまでにも既に輪郭が曖昧になってきていたが、いよいよなんの像も結べなくなりそうだ。しかしシャゼリの次の言葉で、ルーシェの中で溶けかけていたタイガの姿は一瞬にして完璧に鮮明になった。

「昨晩図書室で陛下にお会いになったでしょう」

「あ、え。あの方」

「陛下は殿下と、まずは肩肘張らずに話せる場を設けたいと仰せです」

 ルーシェは口を閉じるのを忘れたままシャゼリを見ていたが、向かいのフォルセティはそのルーシェを見、それからシャゼリを振り返りながら言った。

「おまえ、俺相手とルーシェとで対応違い過ぎない?」

「悪いか?」

 仏頂面だったシルカが小さく吹き出したのを、ルーシェは聞き逃さなかった。


 部屋に戻ったルーシェは、昨日フォルセティから引き取った荷物を整理し直し、洗濯物をまとめてベッドのシーツでくるんだ。ルーシェがそれを持って部屋を出、扉の前でうろうろしていると、シルカが連れてきた中年の女性はルーシェから包みを受け取り戻っていった。

「本当に至れり尽くせりなのね」

「王の客だからな。しかも竜の使いときている」

 シルカは涼しい顔で答え、上を見た。天井があるだけで空など見るべくもないが、おそらくそこにはまた水竜が舞っているのだろう。シルカは視線をルーシェに戻して聞いた。

「少し時間があるが、どうする?」

「私も町に出てみたいのだけど」

「だろうな。既にあっちのふたりも正門の脇で待ちわびている」

 ルーシェは急いで支度を済ませ、シルカに小走りでついていった。


 ハイロの街は扇状地にある。城があるのは扇の要に近い位置だ。急峻な山を背にした城は、吹き下ろしてくる冷たい風を一旦受け止め、その城壁に沿って左右に逃がす。このためハイロの町中まちなかは、その地理的条件にしては体感温度は低くなかったが、それでもユーレとは比べものにならない寒さだ。

 城門を出て目の前の通りは、道幅はしっかり整備されているが少し曲がっていた。シャゼリに聞けば、一年の一時期だけ水の流れる涸れ川を十年くらい前に整備し暗渠としたおり、それに沿って道を作ったために直線になり損ねたのだという。左右に居並ぶ建物は石造りであったり、木造であったり。ときどき三、四層を数える真新しくて立派なものもあるが、ほとんどが二階建てだ。ほぼ掘っ立て小屋のような粗末なものもあるものの、よく見ればそばには建材が積み重ねられ、建て替えが間近なのがわかった。

 今も育っている最中の町である。ルーシェが小さいころからほとんど変わらないグライトとは、違う種類の活気に満ちていた。

 見上げた空は灰色の雲に覆われているが、そんなに厚くはない。ときどき雲の切れ間から漏れる光を竜の鱗が反射している。道にはその珍しい姿を見ようと立ち止まる人も多く、見上げた建物の屋根には器用に画架を立て姿を描き留めようとしているものもあった。ルーシェはなんとなく面映ゆさを感じながら、ぐるりと通りを見回した。目が合った町人は、ルーシェが会釈をすると慌てて視線をそらした。ずっとこっちを見ていたのかもしれないな、とルーシェは思った。

「行くところ決めてある?」

 ルーシェが問うと、フォルセティは通りの左斜め前を指さした。

「昨日食った飯のさ。食材の種を仕入れにいきたい。夜行ってみたんだけど閉まってて」

「そういうお店は夜遅くまで開けてる理由、ないものね……」

 ルーシェは後ろのシャゼリを気にしながら呟いた。昨晩出かけた目的がそれだったとしても、閉店を確認してすぐに戻ったなら寝不足にはならないだろう。最初に会ったシャゼリはマルクトと比べてかなり堅物に見えたが、どこで何をし、どんな話をすれば一晩にして夜の街に一緒に繰り出すような仲になれるというのか。フォルセティの手練手管に改めて恐れ入りながら、ルーシェはゆっくり息を吐き、言った。

「おばあさまからいただいたお金、残りはあなたに預けるわ」

「え。ルーシェは要らないの?」

「欲しいものがあったら言うから。無駄遣いはしないで」

 ルーシェは腰に巻いたポーチから巾着袋を取り出すと、それをフォルセティに渡した。


 目的の店に入ると、壁一面を覆っている棚はふたりが言葉を失うほどの種類の商品を抱えていた。愛想の良い店主は、町のものとは身なりの違うふたりを見るや、手をもみながら近づいてきて矢継ぎ早に商品を勧めてきたが、そこはシャゼリとシルカが適宜睨みをきかせてくれたので、店主の言いかけた値段はほとんど半額以下に落ち、地元価格になった。

 温かい土地で育たない、すなわちユーレでは入手ができないものを中心に、フォルセティはその生育の過程を色々聞きながらひょいひょいと小袋を手のひらに積み上げていった。彼はときどき黙って眉間に皺を寄せ目を閉じていたが、ルーシェはそれを、彼がユーレに残してきた地竜と話をしているのだろうな、と思った。ちょうどシオンを離れる前、ルーシェたちの決断についてサプレマと相談をしていたネコがそんな顔をしていたから。

 そんなふうにして店を巡れば所持金はあっという間に減っていく。不意にルーシェは帰路のことを思い、不安を感じてフォルセティに耳打ちをしたが、彼は静かに空を指さした。水竜がいる。ルーシェが怪訝な顔をして見上げていると、フォルセティはルーシェの思っていたのとは違うことを言った。

「最悪、鱗をもらって、売ろう」

「乗せて帰ってもらうとかじゃないのね……」


 ルーシェが目をつけた温かそうなふわふわのケープは、フォルセティの手持ちが尽きていたのでシャゼリが渋い顔で支払いをしてくれた。ルーシェがシャゼリに引き続き店主にも深々と頭を下げると、店主は機嫌を良くしておまけをつけてくれた。

 水色が黄緑を経て黄色へと移り変わっていく美しい糸は、その店の看板商品なのだという。こんな鮮やかな色を定着させるにはちょっとした工夫が必要で、それが店の秘伝なのだとか。「ただちょっと派手過ぎるって言われてね」と店主は照れくさそうに言い、親指ほどの小さな糸束を生成りの袋に入れると、黒い糸で口を蝶結びにしてルーシェに渡した。


 店を出ると雲がにわかに晴れ、ハイロの街を光が覆った。これから戻る城のほうを振り返り、ルーシェは深呼吸をした。

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