5 / 天衝く塔の夜

 晩に振る舞われた食事は素晴らしかった。

 煮込み料理はやや酸味のある、ユーレでは馴染みのない味だったが、体を芯から温めてくれた。海の見えない国であるのに魚も出てきた。ふたりとも見たことがない種類のものだ。ルーシェがテーブルの支度をしてくれた中年の女性に魚の名前を聞いてみたら、彼女は嫌な顔ひとつせず、魚以外の食材のことも丁寧に教えてくれた。とは言えもともと知らないものばかりだったので、ルーシェが覚えられたのはごく一部だったけれど。骨が多かったが柔らかく、身は少し独特な匂いがした。

 ご丁寧にネコにも専用の食事が提供された。ネコはあとで聞けば「ただの猫だと思われてる」などと文句をたれたが、その場では用意されたものを無言できれいにたいらげた。しばらく口の周りをなめ回していたので、ルーシェは相当おいしかったのだろうな、と思った。

 さすがに今回は久しぶりにフォルセティが毒見したが、なんの疑わしいところもなかった。


 昼間、ふたりが別々の部屋に通されたあと、シルカはルーシェに城内を簡単に案内してくれた——もちろん、客に見せても構わない範囲で。その最中、小走りで寄ってきた少年がシルカに紙片を手渡した。身なりはきちんとしていたが、ルーシェの胸くらいまでしか身長がなかった。まだ幼い顔をした彼からシルカが無言でその紙片を受け取ると、少年はルーシェにぺこんと音が鳴りそうな一礼をし、再び走っていってしまった。

 シルカは紙面に目を落としたままルーシェに内容を告げた。ルーシェはその要請に従い、シルカにフォルセティのところまで案内してもらうと、フォルセティとシャゼリとに席を外してもらい、自分の荷物を取り分けてから部屋に戻った。

 フォルセティに用意されていた部屋は、ルーシェの部屋に比べればかなり見劣りするものだった。ルーシェは王族であり、このふたりきりの公式使節では主役であることを考えれば扱いに違いがあることは別に不自然ではない。しかしこうも差が歴然としていると、ルーシェにもこの国でのプライアの立場はさすがに想像がついた。

 ガイエルまでまだ距離があるうちは、宿場では「巡礼中のプライア」というだけで可能な限り良い部屋が用意されていたように思う。フォルセティはそういった扱いに祝福で返礼をしており、それできちんと感謝とか敬意のバランスが取れていた。つまり、プライアが提供するところの「祝福」は、これまでは程度の差こそあれそれなりの価値あるものとして評価されていたのだが——

 ルーシェは、ノイシュトバルトがガイエル王を嫌っている理由がなんとなくわかった気がした。森を焼いたことはきっと、本質的な問題ではない。


 夕食を呼ばれた部屋で一緒にとり終え、ふたりは別々の部屋に戻った。浴室を案内され身を清めたあとはシルカも戻ってしまい、ルーシェはひとりになった。

 部屋の窓を細く開け少し待ったが冷えた風が吹き込むだけだったので、ルーシェはその日はクレタのことは諦め、ネコを連れて図書室に向かった。シルカに最初に教えてもらった城の施設だ。

 廊下の突き当たりにある木製の扉は、ほかの部屋の扉とあまり変わりなかったが、そこを開けたときルーシェの目の前に広がった光景は彼女の想像をはるかに超えていた。

 見上げる高さの、目の詰んだ木製の本棚が整然と並んでいる。本棚と本棚の間の通路はルーシェが片腕を横に目一杯伸ばしたくらい。踏み台と脚立がところどころに置かれていたが、そのいずれも本棚と同じような木製で、ひとりで動かすには重そうだった。板敷きの床は掃除が行き届いており、艶やかだ。顔を上に向けると、おそらく吹き抜けなのだろうなというくらいの高い天井を、黒くて立派な梁が前後左右に切り分けている。隅は明かりが届かないが、うっすらと見える陰影からは部屋を取り囲むように彫刻が施されているようだった。

 ユーレの王宮の図書室とは似ても似つかない。あそこは整理こそされているけれども、こんなに荘厳な雰囲気ではなかった。これが図書館でなく図書室なのならば、あれはよく言ってもせいぜい書斎だ。


 しんと冷えた本棚の間の通路の先には背の高い窓が見えた。窓の外は目下に町が広がっている。窓辺に作り付けられた机と壁とには一応明かりがあったが、本棚の間の通路まで十分に照らせる光量ではないので、このままでは本の背表紙はしっかりとは判読できない。ルーシェはきょろきょろと周りを見回し、扉の横に置かれていたランタンのひとつを手にとると静かに目の前の通路に進み入った。明かりをもたげてゆっくり振り、本棚を照らす。

 ランタンを一旦足元に置き、一番新しそうな本を手にとった。ページを開くとインクの匂いが漂った。紙面の手触りは、ルーシェの慣れ親しんだ(フォルセティ=トロイエのあの本と同じ)紙よりだいぶ硬くて、気をつけないと指を切りそうだ。流通している紙が違うのかもしれない——そんなところの地域差など、考えたこともなかった。

 本の内容は暗くてよく見えなかったが、各地の町の造りや建物についてのようだった。その内容はガイエルに限らない。明かりを求めてしゃがみ、序文を見れば、この著者はもともとユーレの隣国アドラの出身で、一線を退いたあとは気ままにあちこちを旅して回っているという。目次にはユーレの首都グライトの項目もあった。ルーシェは慌ててそのページを探し、記された文字を懐かしい思いで優しく撫でた。

 記載の内容は、ルーシェの知るグライトとほとんど差がなかった。それになんとなく満足感を覚えながら奥付のページを見ると、やはり出版からそれほど経っていない。著者本人の、手書きの署名があった。ルーシェはこれは献本なのかもしれないと思いながら再び目次に戻り、ガイエルの項目を探した。ルーシェはそれで初めてこの街の名を知った。ガイエルはあくまでいくつもの、かつてはそのそれぞれが国であった地域をまとめ上げた国そのものの名前である。今いる場所は首都だろうから、その名はハイロ。


 表紙に立ち戻る。暗い赤の地に銀色で記された、ランティス=トレンタ・アトロポスという立派な著者名に目を落とし、ルーシェは閉じた本を小脇に挟むと明かりを手に取って立ち上がり、窓際まで歩いていった。机に本を置いて、椅子を引く。ハイロのページを再び開きながら腰掛けた。もともと机に置かれていた明かりは少し心許なかったが、ランタンもあるので十分な光量が確保できた。

 ふたつ隣の机は椅子が引かれたままだ。本が数冊積んである。ルーシェから見えない通路に誰か、ほかにも利用者がいたらしい。ルーシェはその人には、もし顔を合わせることがあれば挨拶しようと思いながら、本に目を戻した。


 机に乗ったネコの尻尾の影がときどき本の上を行き来する。ルーシェは窓ガラスを伝って降りてくる冷気に手をこすり合わせて抗いながら、几帳面に書き込まれたハイロの鳥瞰図とその解説を見、顔を上げては窓の外に目を凝らした。必死で照らし合わせようとするも外はもう真っ暗だから、家々が灯す明かりがいくつも点のように見えるだけで建物の形はほとんどわからない。夕食のときはハイロの上をゆっくり旋回していた水竜も、この時間はどこかで休んでいるようだ。

 この部屋が城のどこにあるのか、どの方角を向いているかさえ自信がないとなると、いよいよ手がかりがない。ルーシェは町と紙面を見比べるのを諦め、ほかのページを開いた。著者の出身国アドラについてはふたつの都市が掲載されている。首都スペクトと、著者の故郷ナハティガル。残念ながらメーヴェはなかった。スペクトの記載はあっさりしたものだったが、その文字列が示す街はルーシェの想像できないものだった。「高層の建物が林立。最上階はときとして雲の上」。人間は、そんな建物を作れるのだろうか?

 ナハティガルの記載は内容的としてはスペクトよりはかなり地味だったが、記述には慈しみがこもっていた。ずっと昔、ユーレの沿岸から引き上げられた古代の砲台が運ばれてきており、今でもナハティガルのシンボルなのだという。

 その砲台は「ニンバス」と名付けられている——急に親しみを覚えたこの著者の別の本を見てみたくなり、ルーシェは立ち上がった。振り向くと玄関側の壁に、誰かが通り過ぎていく影だけが見えた。足音がほとんどしないので、底の柔らかい靴を履いているのだろう。それが図書室という場所への、そしてそこで書に没頭する利用者への配慮であれば素晴らしいことだ。ルーシェは誰かもわからないその相手に勝手に敬意を表しながら、最初に本を抜き出した本棚までランタンを持って歩いていった。

 果たして、戻った本棚にあった同じ著者の本は一冊だけだった。しかも肩書きは著者ではなく、編者。難解そうなサブタイトルがついており、大型で分厚い。背伸びをして手を伸ばせば届くには届くが、無理に片手で引き出すと支えきれずに頭の上に落ちてきそうだった。ルーシェは近くを見回し脚立を見つけたが、持ち上げるのは無理な重さだったので、床を引きずるのも気が引け、やめた。

 あのくらいの高さなら、ちょっとした踏み台でも届くはずだ。ルーシェがほかの通路に踏み台を探しに行こうと振り返ると、そこに人の姿が見えた。


 きっとこれが先客だ。窓を背にして立っている。腰の高さに明かりを持っているから顔はよくわからないが、上背がそれなりにある上に身につけている衣類がゆったりしているせいで、かなり大きく見えた。この通路を通りたいのかもしれない。ルーシェは少し腰が引けたまま会釈をして後ずさった。

 その人物はゆっくりルーシェのほうへ歩みを進め、立ち止まると明かりを顔の高さまで持ち上げた。白髪交じりのごわついた髪を後頭部でひっつめた、六十近そうな男だった。顎の線に沿って口の周りにもグレーの髭を蓄えている。明かりの揺れがちらちらと温かく、目尻に皺の寄った彼の瞳に映っていた。

 男が少し猫背になりながら「こんばんは」と言うので、ルーシェも挨拶をした。それから男はルーシェに、何を探しているのか聞いた。ルーシェは本棚を振り返りながら答えた。

「『高層建築物解体の手法』です。高いところにあって、手が届かなくて」

「ああ。お取りしましょう」

 男の声は低くまろやかで、高い音や固い音なら反響して散らかってしまいそうなこの部屋にはとても似つかわしく思えた。ルーシェは彼が迷いなくその本に手を伸ばし、片手でひょいと抜き取るのを見守った。そのごつごつした大きな手は、どの本がどこにあるか完全に覚えているかのようだ。

 男はその本をルーシェに渡しながら、「興味がおありですか」と聞いた。

「興味、というか。同じ著者の本をさっき拝読して……それで気になって。こっちの本は、私なんかに読めるものかはわからないんですけど」

「読めるかどうかは読んだ本人が最後に決めるものですよ」

 男は目を細めて微笑み、「お楽しみください」と言葉を残すとルーシェに背を向けた。ルーシェは彼の姿が本棚の端に消えてしまうのを見送り、その場でその本を少しだけ開いた。

 思ったとおりの難解さに思わず唾を呑んだが、口絵には興味を持った。見たこともない高い塔が描かれている。雲の上に突き出た上部は無残に砕け、その上には破片の中で舞う竜二柱。白と黒のそれぞれが三双の翼を持っていた。

 絵の下には「人の手で為せ」との言葉があった。ルーシェは大きく息を吸うと覚悟を決め、胸の前で本を抱いて席に戻った。


 ふたつ隣の席は、本も椅子もしまわれていた。男はもういないようだった。

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