3 / ガイエル、竜なき国

 ふたりの前に音もなく降りてきた竜は鎌首をもたげ、ゆっくりと周りを見渡した。その姿勢でも竜の目は、ルーシェの頭より高いところにある。青い鱗がちらちらと日の光を反射し、砂ばかりの地面に複雑な模様を描いた。

 ルーシェは思わず感嘆の声を漏らしてその青い竜を見つめた。しかしフォルセティはそんなルーシェを気にも留めず、慌てた様子できょろきょろしながら竜のそばまで寄っていった。

 町と外とを隔てる壁がほど近い。ガイエルに向かっていた人々はもちろん、あんな見せつけるようなことをしたのだから中からも人が出てくるだろう。フォルセティは少し急かすように竜に聞いた。

「俺たちこれからどうすんの」

「あなたがたは間もなく招き入れられるでしょうね。そのときのおりはそちらの『ネコ』が担います。私はしばらくこの姿で、王城上空にでもおりましょう」

「ついてきてくんないのな」

「必要になればそうします。今はまだこうしているほうが諸々の都合がよいので」


 ネコは澄ました顔で座っている。ルーシェはそのやりとりを、なんとなく腑に落ちるものを感じながら見ていた。イシトとのやりとりを見ていて思ったのと同じだ。やはりフォルセティは竜をおそらく、無意識にであれ、ある種の保護者のように認識している。

 ルーシェは足元のネコを見下ろした。ネコはその視線に気づいたように顔を上げ、ぎゅっと目をつぶると鋭い歯をむき出してみせた。これもまた竜だが——まあ、これにもそれなりに甘えているのだろう、フォルセティは。ルーシェは息を吐くと一歩踏み出し、水竜に問いかけた。

「お伺いしたいことがあります」

「どうぞ。あまり時間がなさそうですから端的に」

「さきほど空からご覧になった市中の様子をお聞かせ願えませんか。私たちはそれを十分観察する時間を与えてもらえるかどうか、わからないので」

 すいと目を細めた水竜の瞳は、吸い込まれるような深い藍色だ。ルーシェは唾を呑み込んだ。水竜は少し首を傾げるようにしてネコを見、それから頭をもとの場所に戻した。

「市内や城内の位置関係は今時間を割いて伝えるまでもないでしょう。あえてひとつお伝えするとすれば、ガイエルの民はおそらく、竜をあがめる土壌を、少なくとも殿下のよく知る文化ほどには持っていません。検知範囲内に竜はおりません。また、視認できた限りでは見知ったような宗教施設もございませんでした」

「それで……。得心いたしました」

 そういう場所でも希有さや圧倒的な美しさは、それ自体が畏れを呼び起こし、ときとして強力な武器になる。頷いたルーシェの隣ではフォルセティが表情を引き締めた。彼が提供する「祝福」への見る目が段々と、ありがたいものから珍しいだけのものに移り変わってきたこの旅程で薄々感じていたことではあるが、この壁の中では彼の肩書も知識も、おそらくこれまでのような形では役に立たない。

 水竜は頷くように首を振ってから、金彩で贅沢に鱗模様の施された青色の筒を取り出し、それをルーシェのほうに放った。慌てて受け取ったそれは、フォルセティが腰に携帯しているあの伸縮式の棒と大差ない大きさのものだが、思ったよりも軽かった。蓋を外して中を覗いたルーシェに水竜は言った。

「お母上たちからの預かりものです。存分にご活用ください」

 ルーシェが顔を上げて礼を述べると、水竜は一度フォルセティを見、無言で舞い上がった。巻き上げられた砂や小石から目を背けたルーシェたちに、軽兵装の男たちが五、六人、小走りで向かってくるところが見えた。


 壁の内まで連行されると、そこには馬車が待っていた。中を隠してしまうような箱形の立派なものとは違ったが、腰掛ける部分は革張りで、簡易な屋根も設けられている。一応は客扱いをしてもらえるようだ——招かれざるそれである可能性は、あるが。ルーシェは少しだけほっとしながら、衛兵らの指示に従い馬車に乗り込んだ。後ろをフォルセティがきょろきょろしながら続いたが、とくに咎められる様子もない。最後にネコが飛び込んだ。

 二人掛けの席が向かい合っている。進行方向を向くように腰掛けたルーシェたちの向かいには、席の真ん中に四十代半ばくらいの衛兵が座った。恰幅のよい髭面の男だ。黙りこくっているので、ルーシェは彼との距離感をはかりかねたものの、じっと見ているとその目はずっとネコの尻尾を追っている。顔は上げたままなのに、目だけ。ルーシェが意を決して口を開こうとしたのとほぼ同時にフォルセティが声を上げた。

「これから僕ら、どこに連れていかれるんでしょうか」

 男ははっとした顔でフォルセティを見、それからルーシェを見て、体をねじって振り返りながら進行方向の先を指さした。

「あちらです。王が竜の使いを歓待せよと仰せですので」

 そう言いながら男は少し上に目を移した。あの水竜は言葉どおり城のほうへ向かっている。悠然と光を散らしながら舞うさまは、まるでルーシェたちの馬車を誘うがごとくだ。男は手を下ろしながらふたりに視線を戻し、人懐こく微笑んだ。

「数年前の赤い竜は身がすくみましたが、今度はいやはや、美しいものですな」

「赤い竜」

 フォルセティが前のめりに聞き返すと男は頷いた。

「なんの用だったか知りませんが二ヶ月くらい逗留していましたよ。私はあなたがたよりまだ若いときから我が王に仕えておりますが、我が国が竜を迎えたのは私の知る限り、それと今回だけです」


 町全体が緩やかな斜面に作られており、城までも上り坂が続いている。しかし城自体は坂の延長より更に一段上がった高台になっていて、入城直前は勾配が今よりずっときつそうだ。距離を考えればしばらくはこのまま馬車に揺られることになるだろう。ルーシェとフォルセティは男に色々な質問をした。男はいくつかの質問には言いよどんだが、それは言ってはならないとか、言うなと言われているという感じではなかった。単に知らないのだ。

 町の中心部にさしかかり、建物や人通りがごった返してきたころには、フォルセティと男はすっかり食べ物の話に夢中になっていた。お互い少し身を乗り出すようにして話し込んでいるのを尻目に、ルーシェは町の風景に目を凝らした。

 水竜が言ったとおり、確かに宗教施設は見当たらない。と言ってもユーレにもほとんどないのだが——それはあの国にとって竜は、というかその加護は、当然に存在し、また失われることもないものと認識されているからだ。だからあの国の人々は、竜に祈るということをあまりしない。かつてルーシェがイシトに語ったように、あの国の人々は基本的に竜を「応えるもの」とは考えていない。尽きることなき水の流れに感謝は欠かさない。しかし、れたときの竜への怒りも祈りも、あの国の人々は知らない。涸れない理由があると信じているから、必要ないのだ。その「理由」こそが竜の依り代、プライアの頂き。サプレマである。

 あの国における竜は自らの秩序と意思に従い、人間の都合いのりとは全く無関係に、ただそこに在り、自ら為すもの。人々が願うとすればせいぜい、サプレマと竜との絆が切れぬこと。しかしそれは人に対する期待であって、神に対する祈りとは本質的に異なる。

 ルーシェは不意に、竜を「人格を持った摂理」と呼んだイシトにとってはそれが好ましい解釈だったのだろうなと思いながら、水竜から預かった丸筒を鞄の上から握りしめた。


 結局ひとりのプライアも見かけることなく、馬車は城のふもとにたどり着いた。最も外側の門は大きな落とし格子で、その先はしばらく急な坂道が続く。町が、そしてその中でさらに城が、幾重もの壁に守られている。それはルーシェに、この国がこの場所で生き抜いてきた歴史そのものを思わせた。

 やがて城の姿が間近になると、坂道は緩やかになり、それらしい城門も見えてきた。重たい金属製の門は前後で二重になっており、手前が閉じてからでなければ次の扉を開かない決まりのようで、馬車から下りたふたりは奥の扉の前で少し待たされた。隙間風がびょうと鳴り、ルーシェは思わず身をすくめてストールを巻き直した。

 第二の扉が開かれると、そこには開けた石敷きの広場が広がっていた。前方左右を守る勇ましい獣の彫像は、後ろ足だけで立ち上がりルーシェたちを睥睨へいげいしている。その左側の像の陰からふたりの男が出てきて、ルーシェたちの前に立ちはだかった。フォルセティが仲良くなった髭面の衛兵は、自分よりもずっと若そうな彼らにへこへこと頭を下げるとその場を立ち去った。

 ふたりの男はいずれもフォルセティより背が高く、いかにも軍人然としていた。軽装であったさっきの衛兵たちと違い鎧を身につけている。それでも完全武装状態よりは省略されているのだろうが、とにかく、赤毛をうなじでひとつにまとめているほうの男はフォルセティに向かってずいと右手のひらを差し出してきた。

「武器護身具のたぐいは預かることになっている」

「えっ」

 フォルセティが思わず後ずさると、もうひとりの男が赤毛の男を小突いてその手をひっこめさせた。

不躾ぶしつけにすまない。念のため預からせてもらいたいんだよ。むろん貴殿らがここを離れるときには返却する」

 そちらの男はフォルセティによく似た茶色の髪を、左耳のそばだけ一筋結っているほかはかなり短くしてある。赤毛の男より少し年上のようだが、それでも三十手前といったところだ。彼は柔らかな笑みを浮かべて言った。

「我々はきみたちの警護を命じられたものだ。申し訳ないがこれも仕事で。協力してもらえないだろうか」

「協力はいいんですけど、武器といっても」

 フォルセティは口ごもった。彼が振り回したあの棒は彼がサプレマたる母親から預かってきたもので、国での扱いは建前上は祭具である。しかし男は目を細めて答えた。

「建前がなんであれ、そのような機能を有している限り我々は武器として扱うんだよ。たとえきみがまだそれを本来の性能を発揮した形で使うことができず、ただ野蛮に振り回すだけだったとしてもだ」

 ユーレと縁がないと思っていたこの国は、あの祭具のことを知っている。フォルセティはとっさに男を睨みつけたが、ルーシェが不安げな顔で彼を見ると、彼は自分を落ち着けるように大きなため息をついて腰の後ろに手をまわし、それを男に渡した。それから懐をまさぐり少し大きめのナイフを。さらに太腿のあたりや足元からも何か出てきた。唖然とするルーシェの前でフォルセティがそれらをすべて預けてしまうと、男はそれをそのまま隣に渡し、手を空にしてから改めてフォルセティに握手を求めた。

「協力に感謝する。私はマルクト・オース、隣の赤毛はシャゼリ。きみたちがここに滞在する間は我々が側仕えをするから、いつでも呼んでくれ。とはいえ男だけだと困ることもあるだろうから、姫君には別に世話係を用意した。さっそく案内させよう」


 マルクトが振り向き手で合図をした。柱の陰から現れたのは、シルカだった。

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