第3部、黒い蔦

第8章

1 / 水脈をたどって

 ドルジに告げたとおり、ふたりは集落を出るとまず奥の山脈を目指した。

 大地を隔てる壁のように横たわるそれは、まだ距離はあるのにかなりの存在感を放っている。少し埃っぽい風が吹き、ルーシェは咳払いをしてからストールをきつく巻き直した。アルファンネルがくれた、今まで使っていたものよりも更に厚手のものだ。彼女がずっと精を出していた繕い物のひとつ。


 フォルセティの見立てでは、あの山を通る水脈が毒を運んで土地を汚しているのだという。ルーシェは足元を見た。少し赤茶けた色が混じる砂地である。小指の高さほどもない草がところどころ張り付くように生えているが、場所によっては乾いた枝がちなものではあるけれども藪もあった。まったく乾燥しきっているわけでもないようだ。

 ということは、と思い、ルーシェは再び山のほうへ目をやった。空には雲ひとつない。砂で少し白けてはいるものの、空の青と山の岩肌とは強いコントラストをなしていた。

 フォルセティはこの道中も、何度か土を採取して懐にしまっている。彼の荷物は今までより軽く一回りは大きい。風の民に同行しているときは馬車で一緒くたに運んでもらえば良かったものを、今度はふたりで手分けして持たなければならないからだ。とはいえ完全なふたり旅となれば普通は必要だろう荷物量に比べれば、その分量は決して多くなかった。ドルジ曰く、この先をある程度進んでしまえば以後は各方面からガイエルに向かうものが立ち寄る宿場があるから、野宿をしなければならない回数はそんなにないはずだと。

 アルファンネルはルーシェに、ガイエルの通貨も持たせてくれた。使うことはないからと、手持ちの大半を出そうとした彼女をルーシェは慌てて止めたが、アルファンネルはほとんど聞き入れなかった。


 ほんの短い時間ではあったけれども、そしてもしかするともう二度と会うことはないかもしれないけれども、アルファンネルは確かにデュートとルーシェを愛してくれていた、と思う。きっとレヴィオのことだって例外ではない。

 ルーシェは絶対に落とさない場所にしまい込んだアルファンネルからの小遣いを荷物の上からさすり、呟いた。

「お金、なんか、使えないかも。手放せば手放すだけ遠くなっちゃう感じが……」

 数度目のサンプル採取のために腰をかがめていたフォルセティは、そのまま顔だけをルーシェに向けた。眉間に皺が寄っている。

「気持ちはわかるけど。必要なときは使おうよ」

「もちろんそうするわよ、そのために持たせてくれたんだし。でも大事にしようね」

「全部でどんだけ要るかもわかんないしな。無駄遣いはできないよな」

 ルーシェはふと、似たような話をずっと昔にしたことがあるような気がして立ち止まった。レヴィオと一緒に、アルファンネルのところに行ったときだろうか。

 そんな幼いときと同じことを今も言っている。ドルジに言われた「子ども」という言葉を思い出し、ルーシェはなんとなくおかしくなってひとり口角を上げると、そのまま先に行ってしまったフォルセティのところまで、ネコと一緒に小走りで追いついた。


 そのあとの道のりでは、ふたりが歩く道は「ただ踏み固められた地面」から、傍目にも整備されたとわかるようなものへと変化した。それが特に顕著になったのは、山脈を正面にして右からの大きな道が合流したあとだ。その道の向こうからは、馬に引かせた馬車もこちらに向かってきている。ルーシェたちは左に曲がり、そのしっかりした道に沿って進むことにした。

 はるか先のほうは砂で煙ってはいるものの、山の色は少しずつグラデーションを描くように緑へと移り変わっており、山肌の様子も違う。ルーシェはネコを抱き上げ、遠くに目をやりながら、隣を歩くフォルセティに言った。

「あの辺りまでいくと、もう問題はなさそうね」

「うん。別の系統の水が通ってるのかもしれないな」

 ルーシェはネコを抱きかかえたままその後ろ頭を撫で、空を見上げた。ふたりの真上を鳥が悠然と舞っている。いつかと同じ姿のオトだ。周囲を見張る目は多いに越したことはない。

 ネコという新しい主を得、オトの能力は飛躍的に向上した。イシトが言うとおり、竜の虫は主の権限を代行する。たとえば方々に風を遣わして、夜通し周囲を監視したりとか、目当てのものを探すとか——オトが甲高い声で鳴いた。湧き水を見つけたのだ。ふたりは道を逸れ、オトの案内に従ってその場所を目指した。

 かなり山肌が近い場所まで来ている。このあたりもほとんど緑がない。フォルセティは斜めがけしていた荷物を下ろすと両膝をつき、荷物の中から薬包を取り出して、それをルーシェに預けてから水をひとすくい飲んだ。

「どう?」

 ルーシェが心配げに聞くが、フォルセティは眉間に皺を寄せ渋い顔で目を閉じたままだ。ようやく目を開けた彼は、口元を左手で拭うと地面に両手をつきながら答えた。

「ここもダメだ」

「やっぱり」

「今のところ、整備されてない水場は全部ダメ。というかたぶん、ダメなところはちゃんと外して整備してある。ガイエルにとっては既知の情報なんだろうな」

 ルーシェはため息をつき、行き先のほうを見やった。


 道沿いに整備されている水場や宿場は、ほぼすべてがガイエルの手による、またはその援助を受けているものだと聞いた。支配下に置いた国々とガイエル首都との交易路は、ガイエル側が手ほどきをして太くしていく。属国となった国の民にも自由通行という旨味が与えられるので、新たな生計の途が開かれる可能性もあるものの、それは副産物でしかない。宗主国が藩属の国々から物資を徴収するには道が必要なのだ。

 そういう道を堂々と歩いているのは、ルーシェたちがユーレの公式使節という肩書を持っているからだ。今はまだ見てくれこそこれまでと変わらない少年少女であるが、その許には今、ユーレから親書を携えた水竜が向かっている。ネコと同じくサプレマの竜だ。フォルセティが言うには、青や紫に輝く美しい鱗の、大蛇に似た姿の竜であるという。

 大地を見下ろし、光を振りまきながら、大空を悠然とわたる竜。それはメーヴェの食堂でタペストリーを見たルーシェと同じように、空を見上げたものを魅了することだろう。しかしそんな優雅な姿であろうと、道など無関係に最短ルートを飛んでくるのだから速さはルーシェたちとは比べものにならない。ガイエルの手前で合流する予定にしているそれと、相まみえるのは何日後になるだろう——ルーシェが半ば夢見心地で空を見上げると、フォルセティが彼女を呼び、ルーシェは慌てて彼の隣にしゃがんだ。

 フォルセティが書き足した土と水の記録を一緒に確認する。シオンを発った当初こそ山と集落くらいしかない簡易な図面だったが、ふたりが通ってきた道や調べた水場はもちろん、今では地下の水脈や鉱脈も描き足され、ちょっとした価値ある地図だ。少なくとも人間だけで作れる図面ではない。ネコやオトや、それから姿を見せない「首座の地竜」のおかげである。


 日が落ち始めたころにたどり着いた宿場は、思った以上に人で賑わっていた。

 石と木とでできた建物はそっけない印象ではあるが、風の民の集落よりずっと堅牢だ。見たことのない格好の集団が、荷車に何か大きな荷物を載せてふたりの前を横切っていった。

 行き交う人々はその大半が、革を切り抜いて作った何かの印に紐を通して身につけている。あれはきっと身分証だ。ルーシェは辺りを見回しているフォルセティを肘で小突いた。

「私たち、どういう説明したらいいのかしら」

「説明?」

「身分証明っていうか。なくても宿、泊まれるかな」

「それなら大丈夫だよ。たぶん」

 不安げなルーシェを尻目にフォルセティは今日の宿を見定め、「まあ見てな」と言うと暖簾をくぐった。ルーシェが慌てて後ろをついていくと、店内には数人の客が待っていたが、フォルセティはもうカウンターにいた中年の女性に手を合わせ、頭を下げている。ルーシェは、まさか拝み倒すつもりなのかとぎょっとしたが、見ていると相手もまた深々と頭を下げてきた。

 顔を上げた女性は鎖骨の下あたりに左手を当て、右手をカウンターの上に差し出した。フォルセティはその手のひらに開いた薬包を置き、その上に人差し指で円のような図形を描きながら何かの言葉をそらんじた。彼の声が止まると、指の軌跡が一瞬澄んだ高い音を立てて光を放ち、周りにいた他の客の目も集めた。女性は薬包をたたんで握りしめ、再び深々と頭を下げてから、奥に声を掛けると若い男性を呼んだ。その男性は他の客を尻目に、ふたりを部屋まで案内してくれた。


 階段を上り、カウンターを見下ろす吹き抜けを取り囲むように作られた廊下を進む。男性はその先の扉を開くと、中には入らず、ふたりに頭を下げて一階に戻った。

 案内された部屋には二面に窓がある。良い部屋を準備してくれたようだ。ルーシェは大きいほうの窓を開け放ち、オトを迎え入れてから荷物を下ろした。

 小さなテーブルの上には既に、フォルセティが道々作ってきた図面と拾ってきた土とを広げているから、荷物は置けない。ルーシェはベッドの上に敷き布を広げ、ほどいた荷物の中身を行儀良くてきぱきと並べながら、テーブルの上のものを見下ろしているフォルセティのほうを見ずに尋ねた。

「さっき何したの?」

「巡礼ですって言った。そしたら病人が出てるから今日は無理かもって」

「病人ってもしかして」

「かもなって思って。だから解毒薬を渡したんだ。ついでにそれっぽい祝福も。ぶっちゃけこの見た目で巡礼だって言えば、郊外ではかなりの確率でフリーパスだよ」

 ドルジの娘の弔いのとき、ドルジはこのあたりにはプライアはほとんど来ないと言ったが——かつてサプレマの在処として諸国の合意の下建国されたユーレでは竜の加護は当たり前で、そこでは逆に聖職者は、それが最高位のものであってさえ社会資本インフラのひとつにすぎない。すなわち、平穏で安全な暮らしに欠くべからざるものして、その恩恵に浴する国民には日々うすぼんやりとした感謝こそされているものの、必ずしも頻繁に強烈な存在感を印象づけるようなものではないのである。

 だからルーシェには「巡礼」が、竜の加護もプライアの常置もない国々でどのように扱われているのかは想像もつかなかった。なんなら今でもまだはっきりとはわからない。

 ルーシェは肩をすくめ、ベッドの上で敷き布の端を敷き込むようにして丸まっているネコを見た。ネコはこちらを見ようともしない。全然関心がないということだ。彼女はため息をつくとネコの隣に腰掛けた。


 オトを迎え入れた窓はガイエルの方角を向いている。日は落ちて、まだ完全に暗くなってはいないけれども、どんなに目を凝らしてもその国は見えない。

「クレタたちも同じ道を通ったのかしら」

「どうかな。シルカなら道沿いじゃなくて最短ルートで行ってそうな気がするけど」

「そうだったら、追いつくまでの時間差、広がっちゃうわね」

「急いで追ったところでどうせ先に城内には入ってるだろうし、簡単には会えないのは変わらないからあんまり気にする意味ないと思うよ」

 要するに焦っても無駄だというフォルセティの言葉は、だから安心というものでもなかったけれども、それでも少しだけルーシェのそわついた気持ちを落ち着けた。彼女は靴を脱ぐとベッドに足を上げ、抱いた膝に口元を埋めた。


 部屋の外で足音がする。きっと受付で待っていた客たちだ。ということはフォルセティの渡した薬が効いたということ。ならば今日はこのままここに泊まれるはずだ。

 ルーシェは長々としたため息をつくとベッドに背中を倒し、両手を広げて目を閉じた。

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