9 / 小舟、潮路へ
ふたりはアルファンネルに明後日の早朝に発つと伝え、アルファンネルはそれを承諾した。彼女の提案で、明日の夕方はちょっとした宴が開かれることになった。
そういう話をまとめたあとにふたりが戻った頃には、クレタの家には当然もう主の姿はなかった。しかし家の中には留守にするからといって特段変わった様子もない。ルーシェは国を出る前に城に彼女を招いたときのことを思い出した。家を持たないと言ったクレタには、ここでさえ帰るべき場所ではない。彼女にとって故郷とはきっと、位置という基準では決められないものだ。
ふたりの後ろをついて入ってきたネコが、立ち止まったふたりの間をすり抜け、すたすたと部屋の真ん中を横切った。壁際には寝具やクッションが丸めて積み上げてある。ネコは軽い足取りで一番上まで飛び上がり、何度かその辺りを前足で均してからふたりを振り向くと姿勢よく座った。部屋を見渡す位置に鎮座した彼は、この部屋の主のようであった。
フォルセティはそれを一瞥だけし、ルーシェに食卓の奥の椅子を指さした。ルーシェがそちらに腰掛け、フォルセティも手前の椅子を引いたが、彼が前へ回り込む前にネコが口を開いたので、結局彼はそちらに答え、座るに至らなかった。
「本当にガイエルに行くのか?」
「行くよ。少なくともそっちに向かってはみる」
「フィーの仕事はお姫様のここまでの行き帰りの護衛だろ。余計なことしないほうがいいんじゃないのか?」
いつになく保守的な発言をするネコを尻目に、フォルセティはさっきの席に腰を下ろし、ルーシェの向かい側で、両手のひらを食卓の天板を押さえるように置きながら答えた。
「危なくない道を探るよ。無事に帰れば大丈夫だろ」
「そういう問題じゃないって」
「どうした、やけに慎重じゃん」
フォルセティは天板に置いた手の指をいっぱいに広げ、目を閉じながら静かな調子で尋ねたが、次のネコの言葉を聞くや思わず肩を跳ね上げた。
「オレじゃなくて、マスターが言ってるんだよ」
「げっ」
ルーシェはしばらくフォルセティとネコを見比べていたが、心当たりに行きついて小さく声を上げた。フォルセティは以前、ユーレにいる自分の竜が何をしているかは離れていてもわかると言った。ということは、だ。
「ネコちゃんはサプレマの竜だったわね」
「そうだよ。だからこっちのことは筒抜けだ。オレが来て以降のこと、全部」
「もしかして、サプレマはお母さまたちにも?」
「女王様のこと? いや、まだヴィダにしか話してなさそう」
「父さんも知ってるのかよ……」
フォルセティは頭を抱えて食卓に突っ伏した。
ネコは首を傾げたまましばらく黙って待っていたが、フォルセティが動かないので、長い息をつくとその場で丸まってしまった。ルーシェもおずおずとフォルセティを呼んでみるが、彼は顔を上げない。ルーシェもまた長いため息をつくと、食卓に肘をつき、両手で顔を覆ってしまった。
ここの人々をガイエルの手から守りたい。けれどもそんな大それたことは自分の手には余るとわかっている。だからせめてクレタを手助けに行きたくて、行こうとした。
片目とは言え先視である彼女は、おそらくガイエルでもそれなりに貴重だろうから、少なくとも直ちに危険にさらされることはないだろう。ただそれは彼女が抵抗しなければ、の話だ。クレタはシルカを連れて帰ろうとしている。でもイヴァレットやガイエル王はそれをよしとするとは思えない。シルカ本人でさえ、どう思っているのかわからないのだ。
だからといって、無理な芝居をしてまでシルカに帰る場所を準備し待ち続けていたクレタを、ただ見送るしかできなかったことはルーシェには不本意でならなかった。自分が役に立てるとは思っていない。それでもなお、じたばたすることさえ許されないのが悔しかった。
ルーシェが手を下ろす。まだフォルセティは食卓に突っ伏したままだったが、彼はその姿勢のままでもごもごとしゃべり、ネコは顔を上げた。
「なんだって?」
「言われたんだよ、俺、健闘を祈るって。わざわざ俺だけ残して言われたんだ。それが、あの人がやり残した大事な仕事を引き継いだ気がして、それがガイエルの仕掛けたこの件から王妃のいる風の民を守ることなんじゃないかって……だって国王の遺言も」
フォルセティは口ごもり、重そうに頭を上げるとネコを見た。
「だから俺はそれを引き受けたい」
「こじつけだろ。しかも身の丈にも合ってない」
ネコは目を細めながらぴしゃりと言ったが、フォルセティは引き下がらなかった。
「そうだよ。わかってるよそんなことは。でも父さんは俺にあの人の名前を引き継がせたんだろ。だからそっちだってちょっとはわかってほしいんだよ、心配してくれてんのは知ってる。だけど、この」
この、と繰り返しながらフォルセティは手のひらを見たが、結局言葉を選べないまま、その手でごしごしと顔をこすって言った。
「とにかく俺は行く。止められても行く」
ネコは呆れた顔で目を閉じた。しかし、ルーシェがその重苦しい静寂に耐えられなくなる直前、ネコは再び目を開き、フンと鼻を鳴らすと頭を振った。
「ヴィダが女王様に話しに行ってくれるってよ。感謝しろよな」
「え」
ルーシェとフォルセティの声が揃い、ふたりは顔を見合わせた。ネコは大げさなため息をつくと、積み上がったクッションの上から飛び降りた。
「どうせ言うこと聞かねーんだろうから友だちの手伝いまでなら許すって。ただし」
ネコはそこでいったん言葉を切り、少し黙ってから続けた。
「まだいける気がするってタイミングで引き返せ、選択肢が複数あるときは速さより確実性を採れ、あと助けは余裕があるうちに呼べってよ」
「助け?」
両親が思いがけなく彼の決断を受け入れたことへの驚きよりも、その両親が挙げたのであろう注意が並べられるのに辟易した顔で、フォルセティが聞き返した。
「いるだろおまえの竜がさあ。あいつ、走ってこなきゃだったオレと違って、おまえの近くになら一瞬で来られるのに、用が終わったあと戻るのが面倒くせえつって絶対来たがらなかったんだよ。最悪」
ネコは不機嫌そうにそう言うと、ピンと尻尾を立てて食卓の下を通り過ぎ、表に出ていってしまった。
当然、ユーレでも一大事たるべき内容である。
ヴィダはネコを通じて伝えたとおり、直ちにデュートに謁見を請うた。ネコが逐一報告してきたフォルセティ=トロイエのことは、彼の胸に必ずしもささやかならぬ波を立てている。
そうした普段とは違う彼の状態を見越したように、女王はフォーマルな場を用意することはせず、そのとき自分のいた私室に、そのまま彼を招き入れた。
——とは言え、国王である。ヴィダは膝をついて頭を下げ、窓際の椅子に掛けたままのデュートにこれまでの成り行きと息子(と王女)の決断を報告したが、デュートはゆっくりと瞬きをしただけだった。ヴィダが引責を口にしようとするのを遮るようなタイミングで、彼女は口を開いた。
「ふたりに任務を与えましょう。今まではお忍びみたいなものだったけど、公認の肩書きを与えておけば少しは扱いを慎重にしてもらえるでしょ。少なくともあの国に今、我々との関係を敢えて悪くしたい理由はないと思うわ」
「公式訪問の建前をとらせると」
「あの国のことは、ほとんどわからないけれどね。でも、
するすると出てきた提案にヴィダが一瞬目を泳がせたのをデュートは見逃さず、噛んで含めるような調子で続けた。
「娘のことを心配してないわけじゃないのよ。でも私たちだけ騒いだって本人たちが戻ろうとしない限り、すぐに連れ帰れるわけでもないし。こちらはこちらでできることをするしかない。当然あなたもサプレマも、最善を尽くすでしょう?」
デュートは腰掛けたまま、上半身をやおら乗り出すようにして膝の上で頬杖をついた。
「子どもが自分に似るのって嬉しいような不安なような。複雑よね? コンベルサティオ卿」
ようやく少しだけ表情を緩めたヴィダを前に、デュートはその姿勢のままくつくつと笑い、訪問者が部屋を辞してしまうのを待ってから侍女を呼んだ。
翌日、日が落ちた頃にはシオンの炎は初日よりずっと大きく仕立てられて、その周りに出てきた人もルーシェが知る限りはこれまでで一番多かった。
ルーシェとフォルセティはその朝、アルファンネルに、ふたりが国(と親)の許しを得てガイエルに向かうことを報告している。アルファンネルはそれにはゆっくりと頷いただけだった。
フォルセティは遠慮なく、またルーシェも遠慮がちながら、シオンの民が用意してくれた食事を楽しみ、少し落ち着いてからこれまでの礼を述べた。それからフォルセティはドルジと、先日言い合いをしていた男とを呼び、少しの躊躇のあと、ふたりにこの土地の土のこと、それから風のことを話した。
ルーシェの心配をよそに、ふたりとも受け止めは静かだった。ドルジはフォルセティに分析の礼をいい、フォルセティが渡した解毒の方法を書いた紙片を大事そうに折って、一旦懐にしまいかけたが結局、一緒にいた男に渡した。
「ここをどうするかは、俺たちが考えないといけないことだからな」
ドルジは少し悲しそうな目で笑った。ルーシェは彼が第二子を死産で失ったばかりであることを改めて思い出し、彼の家のほうを見やった。当然ながら、彼の妻はこの場にはいない。軒先にはまだあの黒い布がかかっている。フォルセティは神妙な顔で頷いて言った。
「俺たちはもう少し山のほうまで寄って、そっちを調べた上でガイエルに行きます。土のことに関してはたぶんあまり良い報告はできませんけど、何か役に立ちそうなことがあればお伝えします」
「ありがたいけど、それはおまえらが気にしなくていいことだよ。とにかくクレタに、今度こそちゃんとシルカを連れて帰ってこいって言ってくれ。それまでは俺もおとなしく待ってるからよ」
「え」
ルーシェが思わず声を上げたのでフォルセティはそちらを振り向いたが、彼もすぐに思い至って慌ててドルジに目を戻した。ドルジは大げさに目を見開いた。
「なんだ。知らなかったのか? 俺たちみんな、クレタがシルカのふりしてたのなんかわかってたよ。ばれないわけがないだろ」
「みんな? みんな気づいていて、みんなで知らないふりを?」
ルーシェが身を乗り出すように聞くと、ドルジは豪快に笑った。
「そうだよ、大人の優しさってやつだ。でも大人にはできないこともあってな」
そう言って彼はルーシェとフォルセティの頭をそれぞれ撫でた。
「頼むぞ。子どもたち」
広場に焚かれた火で温められた彼の手は、ごつごつしていたが温かかった。
予定どおりにその次の朝、ルーシェとフォルセティはネコとオトを連れ、集落を後にした。
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