8 / 預言の娘

 ルーシェが聞き直す間もなく、フォルセティはイシトを呼んだ。

 呼んだと言っても特別な儀式はない。フォルセティがしたことは、ただ咳払いをして玄関を見ただけだ。ルーシェがつられて同じほうを見ると、そこにはもうイシトが立っていた。

 まるでフォルセティ=トロイエのような一見屈託のない笑顔を浮かべ、イシトはつかつかとふたりのほうへ歩み寄った。そして彼は食卓の椅子を引くと横から腰掛け、にやにやしながら脚を組んで食卓に頬杖をつき、いくらか挑発的な目でフォルセティを見上げた。


 ルーシェはその様子を呆気にとられたまま眺めた。あの、人に使われることを絶対によしとはしないだろうイシトがあまりにすんなり出てきたので。ネコもフォルセティも当然のような顔はしているが、実際のところはイシト本人が勝手に出てきたのではないか——ルーシェはそんなことを思い、立ったまま眼下の彼に遠慮がちに目をやったが、目が合ったら怖い気がしてすぐに視線を戻した。

 そんなルーシェを気にも留めず、そしてルーシェの想像どおり、イシトはフォルセティをからかうように愉快そうに言った。

「竜と竜の虫の関係についての理解が甘いね」

 フォルセティはその斜め前の椅子を引き、どっかと音を立てて腰を下ろした。

「勉強不足は自分でもわかってるよ。だから教えてつってんじゃん」


 ルーシェは余った椅子を、食卓から少し離れたところまで静かに引いて、そこにそっと座り、ネコを呼んで膝に乗せた。

 イシトはそこからは食卓を挟んで向かいに見えるが、ルーシェから見えるのは横顔だ。その立ち居振る舞いや表情は、あの理詰めのノイシュトバルトに対峙したときの緊張感からはほど遠い、そう、フォルセティ=トロイエを彷彿とさせるものでさえあるけれども、それでも彼はもういない。

 そのはずなのだが——不意にイシトがルーシェを一瞥し、ルーシェは思わず背筋を伸ばした。

 彼の、作り物のような色をした目は、鋭利な氷にも底抜けの空にも、はたまた捕らえ得ぬ異国の蝶にも見える。しかしイシトは姿勢を正したルーシェを気にする様子もなく、相変わらず頬杖をついたままフォルセティに答え始めた。

「きみたちが呼ぶところの竜というのは、この世界に所与の条件、きみたちに馴染みのある言葉を選べば秩序とか、摂理か。その一部がおのおの特定の人格と結びつくことで具象化したものだ。そして竜の虫は個々の竜ではなくいしずえたる摂理自体に直接連なる端末であって、人格こそないが竜に似た性質を持つ。だから人格に根ざした主体性を持つ竜は、ある種の同胞はらからである竜の虫に自らの機能の一部を代行させることができるが、本来そこに干渉しえないきみたちが竜だの虫だのに接触するには、あらかじめ許可された範囲で、なおかつ適切な方式をむ必要がある。その方式というのが僕が管理者を務めている、きみたちがコードとか旧律とかと呼んでいるもの」

「うん。わからん」

 フォルセティが不機嫌にそう言っても、イシトは首を傾げてみせただけだった。

「僕は今、きみたちの世界の根幹について極めて端的に解説した」

「だめ。わからない説明じゃ価値がないだろ。だいたい質問への答えになってなくね」

 イシトはルーシェを見た。フォルセティが理解できないのが理解できない、という顔だ。しかし目を移した先のルーシェもまた眉を顰めているのを見、彼は、では、と言いながら脚を組み替えた。どうやら彼はルーシェを、彼の話に対する人間の理解を測る基準——というか線引き——にしているらしい。ルーシェが理解できさえすれば、彼はそれ以上かみくだいた説明はしないということだ。ルーシェは椅子をわずかに前にずらして言葉の続きを待った。少し荷が重いな、とは思いながら。

「ではもっと直截的な言い方をしようか。虫にできることはその虫が誰を主とし誰の命令を実行するのかによって変わる。基本は命令するものに許された権限を代行しているだけだからだ。そしてエルジェシルがあの森の地竜から預かった蔦虫は、主たる亡き地竜の極めて単純な命令を、イヴァレットに引き継がれた今も、主が還った地の摂理をリソースとして実行し続けている。彼らが寄り添うエルジェシルの血に、大地つちが害をなさぬよう。彼らの役割は、然るべき新たな主から命令の更新がなされるまで変わらない」

「だからイヴァレットが引き継いだ蔦虫を連れてガイエルに行ってしまったことで、この場所がもとの汚染状態に戻ったというのね。でもそれだと森の空気はどうなの? あれは地竜自身によるのでしょ。地竜はもうとっくに死んでいるのに」

 ルーシェは、フォルセティが説明を必死に腹に落とし込もうとしているのを待ちもせず口を挟んだ。イシトはわずかに眉を上げると、頬杖をついていた手を、肘はついたまま顎から離し、その人差し指で円を描きながら答えた。

「あれも同じで、地竜が設定したルーティーンが、止めるものもないのでそのまま書き換えも削除もされずに実行され続けているだけだ。一度設定されたサイクルが継続するかどうかに、命令したもののその後の存否は直接には関係がない。要するにただの惰性だ」

 ルーシェは、ほう、と大きな息をつくと下を向いた。そう言われてしまえばそうなのかもしれない、というか実際そうなのだろうが、真実はあまりに味気なかった。そこに込められた想いのようなものを期待していたのに、イシトの回答は事務的でさえあり、とりつく島もなかった。

 けれども、謎は解けた。そしてその前提として彼はより大きな謎を示してみせた。いや、謎というよりも——そのまま瞬きをしたルーシェをネコが見上げている。黒い小さな顔の中の大きな金色の目。ルーシェは顔を上げた。

「あなたの話、まるで、私たちが竜や虫というルールのある箱庭に置かれた駒で。そしてあなたはその、ルールを敷いた側の人だとでもいうみたい」

「そうだよ」


 イシトは涼しい顔でするりと答えたが、それはルーシェの背筋を下からなで上げたようにぞっとさせた。彼の言うことが真実ならば、ルーシェたちの世界はルーシェたちのあずかり知り得ぬ誰かの作り物ということになる。

 慄然とした顔で下を向いたルーシェに目をやり、フォルセティは大きなため息をつくとイシトを睨んだ。

「最近もう、そういうの流行はやらないんだよ」

「ならばきみが再興したまえ。宗教と哲学は元来不可分だ。大層な肩書を持つきみの血筋が数代に及ぶ怠慢により失ったものを挽回する絶好の機会だ」

「やめろやめろ、重い」

 フォルセティは振りほどくように両手を振りながら下を向き、顔を覆ってしまった。それをにやにやしながら見ていたイシトは、顔を上げるとルーシェを見、一変、毒気のない優しい顔で言った。

「相手のすべてを理解することは無理だよ。だろう?」

 フォルセティが顔を覆ったままこくこくと頷く。ルーシェはふたりを交互に見、肩をすくめた。


 イシトを目の敵のようにしていたフォルセティは、フォルセティ=トロイエがその最後の務めを果たすためにイシトに体を貸したのだと知ったあと、明らかに態度を変えている。本人は認めないだろうが、どちらかといえば友好的だ——ある種の甘えさえ感じるほどに。一方のイシトはと言えばこのとおりで、おそらく嘘もないのだろうがその言葉は大抵、非常に回りくどいか難解だ。ルーシェには彼が、フォルセティとのやりとりを面白がっているようにさえ思える。

 そして。ルーシェからすればイシトは、やはり人間とは混じり得ぬ存在である。彼はその垣根を越えるため、人間を理解する基準としてルーシェを参照しようとする。しかしそれはルーシェにとってかなりの緊張を強いるものだった。そういう役目は本来、竜の依り代たるプライアやサプレマに期待されているはずなのに——ルーシェはフォルセティを見た。人と竜との間に立つ、ただ「特別」という理由でルーシェの秩序から外れることを許されているものを。


 不意に先ほどのことが思い出された。「夢の中みたいなところで」。

 あのときのフォルセティの反応は、彼にとってそれが予想外であったことを示している。そして彼女はそこで知ったことをフォルセティに伝えた。彼女の口から語られて初めて、フォルセティはそのことを知った。


 ルーシェは下を向いたまま唾を呑み、口を真一文字に結んだ。これではまるで、イシトがフォルセティではなく、ルーシェこそを自らのかんなぎに選んだかのようではないか。

 彼はフォルセティを足がかりに、ルーシェの口を借りて、この世界に彼の言葉を放つようになった。そして彼の言葉は手始めに今、少なくともルーシェの世界をほとんど一瞬で作り物に変えてしまった。

 彼の言葉を思い出す——「僕の要求を言おう」。あのとき彼の言った「王」は、果たしてルーシェが解釈したような意味だったのだろうか?


 ルーシェの膝の上でネコが、後ろ足で器用に耳の後ろを搔き、欠伸をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る