6 / 風と歌

 大きな声を張り上げていたのはルーシェが見たことのない男だった。ドルジより少し背が低く、がっしりともしていない。それでも彼の気勢は対面しているドルジに決して負けてはいなかった。周りにも数人いたが、皆ふたりから少し距離を置いて様子を見守っている。

 しかしルーシェたちの目を奪ったのはその言い合いではない。ふたりの男の向こうに、眼帯で左目を隠し、左耳の下で髪をひとまとめにした妙齢の女が、顎に手を当ててその様子を見ていた。シルカだ。

 ルーシェは思わず後ろを振り返り、クレタがいるのを確認した。クレタもまた眉を寄せ、その光景を見ていた。シルカはこちらに気がつくと、わずかに口角を上げた。それから彼女はこちらへ歩いてきた。言い合うふたりの男には、その間に手を差し伸ばしてそっと払いのけただけだ。ドルジたちはその手に気づくや口を閉じて一歩ずつ後ろに下がり、シルカはその間を、いずれにも目配せさえもせずにまっすぐ通り抜けた。

 ルーシェたち三人の前に立ち、シルカは首を傾げてみせた。

「私も入れてくれる?」

 その顔はルーシェに向けられていた。


 クレタはここにいる大多数に、自分がシルカとの一人二役を演じていたことを隠しているはずだ。シルカが戻ってきたときのために、その状況を用意していたのだから。だとすればいかに今ルーシェたちにとって、このシルカがここにいるべきではないものだとしても、そのことを周りに悟られるわけにはいかない。

 見えているはずの左目を敢えて隠して乗り込んできたシルカは、ルーシェたちがそのように振る舞わなければならないことを知っている。むしろきっとそれを狙って、こうして衆人の前にこの出で立ちで表れたのだ。

 ルーシェは唾を呑み、それから息を吐くと、なるべくわざとらしくならないよう気をつけながら、笑顔を作って言った。

「おはよう。いいわよ。おばあさまに朝食をご馳走になっていたの」

「そう。おいしかったでしょう?」

 シルカは目を細めて聞いた。ルーシェは答えに詰まった。シルカは知っているのだ——さっきルーシェたちが話していたことなど、とっくに。

 ルーシェが思わずフォルセティの方を振り返ろうとしたとき、クレタが後ろから勢いよく手を伸ばし、ルーシェの肩とシルカの手をつかんだ。

「中で座って話そ。ねえファラン、シルカの分もあるよね」

 クレタは中に声をかけながら、有無を言わせぬ勢いでふたりをアルファンネルの家に引き込んだ。ひとり残されてしまったフォルセティは外の人々を見回し、愛想笑いを浮かべた会釈をしながら中に入ると扉を閉めた。


 アルファンネルが台所に移動したので、シルカはそれまでアルファンネルが掛けていた窓際の椅子に深く腰を下ろすと脚を組み、眼帯を乱暴に引っ張って外した。

 クレタたちは食卓につき、シルカと距離を保ってしばらく睨み合っていたが、スープを温め直す匂いがし始めて、最初に沈黙に耐えられなくなったのはフォルセティだった。

「あのさあ、おまえ、俺に言うことあるだろ」

「なんだ? 『おはよう』か?」

「違うって。おまえ俺に何したか覚えてねえの? 詫びの一言くらいあるだろ。なんだよ、くっせえ芝居しやがって」

「そうか。それは悪かったな」

 シルカがあまりにあっさり返すので、フォルセティは半ば逆上気味に食卓に両手をついて立ち上がったが、アルファンネルが間髪入れずに台所から彼を呼んだので、彼は渋々そちらに移り、その場にはルーシェとネコとクレタだけが残された。

 食卓に両肘をついて頭を抱えるようにしていたクレタが、大きなため息をつくと顔を上げ、シルカのほうを見て言った。

「何しに来たの?」

「帰ってきただけだ。歓迎してもらえないのか?」

「もちろん歓迎したいよ。でもこれだってあの人の差し金なんでしょ? だったら無理よ」

 ルーシェはふたりを交互に見、それからネコを見て、最後に自分の手元に目を落とした。


 クレタが言っている「あの人」とは、ふたりの母イヴァレットのことだ。イシトに呪いをかけたというエルジェシルの、その娘。今はガイエル王の許にあるという。ネコの話では、ユーレの王宮に竜の虫を放ったとも。サプレマがわざわざネコをこちらに寄越したのも、イヴァレットが——ルーシェは慌てて顔を上げ、シルカを見た。

 シルカはそれに気がついたが、鷹揚に肘掛けに頬杖をついただけだった。ルーシェが目を逸らさないでいるので、シルカは顎をしゃくった。

「言いたいことがありそうだな。聞こうか」

 ルーシェは少し考え、目を閉じ息をつくと、いそいそと体の向きを変え、椅子には横から座るような形でシルカに正面から向き合った。

「本なら私が持ってる。私たち、その読解ができるかもと思ってここに来たけど、それは期待どおりにはいかなかった。だけど、それを書いた人からいろんな示唆をもらったわ」

「それならもう本は要らない?」

「わからない。でも意味を知りたいっていう気持ちは、もう前ほどは強くない。答えがなんとなくわかった気がするから」

 クレタがルーシェを見、ルーシェはそれに頷いて応えると再びシルカに目を移した。

「ガイエル王は風の民を使って、この地の毒を道具にすることにしたのね。この数十年でガイエルは急速に大きく、強くなった。私には詳しい経緯はわからないけど、ガイエルの急拡大とこの場所が風の民に与えられた時期は大体一致している。だから少なくとも、ガイエル王が風の民にこの地を与えたのはきっと、純粋な厚意からなんかじゃなかった」

「そう。原因不明の病は民に不安を植え付ける。安定の損なわれた国に付け入るのは簡単だ。攻め込むのもな」

「その計画の期間がもうすぐ終わる。予定どおりにきたのなら、王はそろそろ締めくくりに入るでしょう。それを風の民に気づかれるのは、きっと都合が悪いわよね」

「そういうことだ。本を渡してくれないか? 私はそれを持ち帰るように言われている。宮殿下みやでんかにおかれては、もう用もないだろう」


 ルーシェは視線を落とした。シルカの答えは、クレタたちがガイエルにとってもはや用済みであることを意味している。あの本の書き込みを思い出す。タイガが鳥を、そのまま放すことはないだろう。ルーシェは顔を上げるのに少し勇気を要した。ルーシェと同じような確信に至ったであろうクレタはどんな顔をしているのだろうか。

 しかしクレタは平然としていた。ルーシェは改めて彼女を見、それから彼女が向いているシルカのほうを見た。クレタの口調は静かだった。

「タイガじゃないでしょ。本のこと知ってて、それを回収したいと思ってるのは」

「ご明察」

 ルーシェは口元を両手で覆い、下を向いてため息をついた。ならばシルカにそれを命じたのはイヴァレットだ。ルーシェが顔を上げると、こっちを見ているシルカと目が合った。

「先視は、どこまで先のことがわかるの?」

 ルーシェが尋ねると、シルカは少し首を傾げ、口元を引き上げた。

「宮殿下は、本当に未来予知などできると?」

「ルーシェでいいわよ。それで、どうなの?」

「多少竜の虫に好まれたところで、できることなど限られている。いくらか性能の良い間諜を使える程度の意味しかないものを、ここの連中はやたら神聖視して。それはこの目そのものについてくる能力などではなく、本人に多大な努力や犠牲を強いるものなのに、ここの連中はこの目に生まれたというだけで軽々しく荒唐無稽な期待を寄せ、その期待に応えるために本人が何をしているか真実も知ろうともしない。そのくせ『優れたもの』には『選ばれなかったもの』とか『凡庸を自称するもの』の期待を裏切ることは許されない。どうだった。『先視のシルカ』のふりは」

 シルカはクレタに視線を移した。クレタはため息をついた。

「まあ、わかる。言いたいことは」

「そう、だから先視は逃げるんだよ。ここの主も同じだ」

 シルカは楽しそうに、肘掛けを人差し指でトントンと叩いた。彼女の視線の先はルーシェとクレタとを通り越した向こうだ。ふたりが振り向くと、そこにはトレーを持ったアルファンネルが立っていた。

「あんたもお食べ」

 アルファンネルはシルカの挑戦的な目を軽くいなし、食卓にトレーを置きながら言った。シルカはため息をつくと立ち上がり、その言葉に従った。


 食卓を姉妹とルーシェ、そしてフォルセティが囲み、アルファンネルは繕い物に戻っている。

 さっきシルカが話した先視の話が、王家に生まれたルーシェの頭にずっとひっかかっていた。同じようなことはおそらく、あの国で唯一竜と結べる血を継いだフォルセティも感じている。むしろ彼のほうが上かもしれない。ルーシェの王位継承権は第二位で、前にはレヴィオがいる。しかしフォルセティのほかにサプレマ候補はいない。

 ある血筋に生まれたというだけで、社会はその子に当たり前のように決まりきった期待を押しつける。ルーシェは幸運なことに、それをさほど重荷には思わなかったけれど。

 ルーシェが一言断って立ち上がりアルファンネルの家を出、本を持って戻ってきたときには、シルカはもう食事を済ませていたが、空の器は置かれたままだった。もちろん三人が談笑していたような空気は全くない。ルーシェは肩をすくめ、「外もう落ち着いてたよ」と報告しながら改めて椅子を引いて座った。

 彼女はそれから本を自分の前に置き、向きを直してクレタの前まで押し滑らせた。

「あげる」

 クレタは一瞬ぽかんとした顔で本を見、顔を上げた。

「どうして私?」

「もう私は中身覚えてるし。それに私みたいな中途半端な立場で活用できるものじゃないって思ったから。これはたぶん、あなたたち風の民と、ガイエルとの間で決着をつける話だと思う。だから私が持っているよりクレタにあげる。それをどう使うかはクレタが決めて」

 クレタはフォルセティを見たが、彼も肩をすくめて首を傾げるばかりだった。クレタは再び本に目を落とし、大きく息を吸ってゆっくりと吐くと、本の小口に手を添え、それをシルカのほうに押しやった。


 今度はシルカがきょとんとした顔でそれを見、不敵な笑みを浮かべて顔を上げた。

「どういうつもりだ?」

 対するクレタは静かに眼帯を外し、それを手元に置いて、両目でまっすぐシルカを見た。

「あの人に直接、会って言いたいことがある。それを持っていっていい。代わりに私を、あの人のところまで手引きして」

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