5 / 去りにし竜の祈り

 怪訝な顔をしたルーシェの前でフォルセティは大きな欠伸をした。向こうでアルファンネルが「早起きしすぎでないかい」と笑うので、フォルセティはそちらを振り返り、苦笑いをして再びルーシェのほうを向いた。


「……と、まあ。からくりがあったんだ」

「その前に、今朝あなたいつからここに?」

「わかんね。なんかちゃんと眠れなくて、結局日が昇る前から起きてて」

「まさかそんな時間から来てたの?」

 食卓に飛び上がったネコは、なかなか出番が来ないので退屈して丸まってしまっている。

「だってほかにすることなかったし。でももちろん起きてることは確認したよ。家の前まで来たら物音がしたから、大丈夫そうだと思って」

「だからってそんな早くからなんて、さすがに非常識よ」

「そりゃそうなんだけどさ。でも日が昇ったらまた昨日の続きがあるんだろ。だったらその前しかないじゃん。それでちゃんと、朝早くからすみませんつって」

 ルーシェはそれを聞いて、クレタの昨日の言葉を思い出した。そういえばそんなことを言っていたはずだ。だとすると——

 慌てて玄関のほうを振り向いたルーシェに、クレタが言った。

「大丈夫、再開してもたぶん、少なくとも最初のうちは外で話してるだけだから。昨日も外で人が集まってきてヒートアップしちゃったから、場所を変えて落ち着いて話そうってことでファランが招き入れたの。それに、私も似たようなものだったし」

 クレタが苦笑いしながらアルファンネルのほうを振り返ると、アルファンネルは始めたばかりの繕いものから顔を上げ、微笑んでみせた。

「そうだったの。じゃあいいのかな」

 ルーシェは向き直りながら、それじゃ、と続きを促した。

「からくりってなに?」


「まず土なんだけど」

 フォルセティは森を出る手前から道すがら集めてきた土塊の包みを順番に並べ、左から右へ指さした。

「一番左が森の土。一番右がここの土。その間は採取した順に並べてある。端的に言うと、清浄、っていうかまあ安全と言っていいのは森の土と、せいぜいその隣ふたつくらいだけで、あとは有毒。それも、ここの土が一番強く。これは俺が土を食って検証した」

「土を? 食べたの?」

「それが一番手っ取り早かったんだよ。解毒の方法も翠嵐からもらってたし」

 呆れた顔のルーシェに面倒臭そうに返しながら、フォルセティは「ここの土」を指さした。

「さっきも言ったけど、ここのが一番毒性が強いんだ。もうちょっと奥に禿げ山があったろ。あれが関係してるんじゃないかと思う。あの山のあたりを通って汚染された水が、ここら一体に広がっていってるんだとすれば、距離に比例した濃淡にも説明がつく。ここより山に寄ったところを調べてみれば確かめられる」

「土っていうより水なのね」

「そう。俺の見立てではね」

 ルーシェはフォルセティの説明を聞きながら、クレタのほうをちらりと見た。ここを祖国とするという提案を受けている彼女は、この話をどんな気持ちで聞いているのだろう。しかし顔の半分が大きな眼帯で隠れた彼女の表情は、一瞬見たくらいでは窺い知ることはできなかった。そのクレタが視線を食卓に落としたまま口を開いたので、ルーシェは思わず肩を跳ね上げた。

「私たちが行く先々で病気を運ぶって言われてきたのはそのせいなのね……」

「現地で食い物飲み物を売ったろ、ここで作った作物を使ったやつを。それが原因の体調不良だ。要するに中毒であって感染症じゃない。原因がわかればあとは対策をして、誤解を解くだけだ」

 クレタが顔を上げた。彼女は控えめに「ありがと」と言い、再び目を土塊に移した。フォルセティの言葉はクレタにとって、きっと小さいが消えない明かりになった。ルーシェはそう思い、しかし疑問をそのままにもできず、言った。

「あの、水を差すようで悪いんだけど」

「わかってるよ。それがこれから話す『からくり』の話だ」


 フォルセティは食卓の上の土の包みを、その並びを崩さないまま端に寄せ、天板の真ん中をトントンと人差し指で叩いた。ずっと丸まって話を聞いていたネコが伸びをしてようやく起き上がり、フォルセティの指した場所まで進むとそこに鎮座してアルファンネルを振り向いた。

「ばあちゃんそこでいいのか?」

「聞こえていますよ」

「じゃあ大丈夫だな」

 ネコは立ち上がり、「森の土」の前まで歩いていった。

「ここが森だ。オレがフォルセティに言われて空気を調べ始めたとこ」

「そんなお願いしてたの?」

 ルーシェがフォルセティに聞くと、彼は「俺じゃないほうだよ」と答えた。

「ネコは俺のことフィーって呼ぶんだよ……」

「だってオレからしたらおまえ、ずーっと、ケツの青いガキだもん」

「父さんと同じこと言うのやめろよ」

「ねえ。話、進めない?」

 クレタが肩をすくめて先を促し、フォルセティは気を取り直すようにため息をつくとネコに手を差し出して言った。

「続き」

 ネコはそれにおとなしく従った。

「オレ、しょっちゅうあいつに抱っこされてたじゃん。その高さと、地面の高さと、両方調べろって言われて。で、森を出たあともフィーが土をほじるたびに確認してた」

「調べる? 何を確認してたの?」

 ルーシェが首を傾げながら尋ねると、ネコはううん、と唸った。

「うまく説明できないんだけど。空気の重さとか、匂いとか、そういうやつ」

「私たちにはわからないような?」

「だと思うよ。現に森の中の空気はその匂いが濃かったし、ここに来るまでは段々薄らいでたけど」

 ネコは並べられた土の包みの前を足音もなく歩きながらそう言い、「ここの土」の前で立ち止まった。

「このあたりはまたちょっと濃い。だけどお姫様はなんにも気がつかなかったでしょ」

「全然。それってどういう匂いなの?」

 クレタが少し上を見て、目を閉じ静かに息を吸い込んだ。ということはこの話はまだクレタも聞いていないのだ。ルーシェは再びネコに目を移したが、答えたのはネコではなかった。

「俺が国で預かった解毒方法があるって言ったじゃん。あの森、どうやらそれと同じ条件が揃ってたみたいなんだよ」

「そうなの?」

「俺も全然気がつかなかった、っていうか今でさえ自分では確認してないんだけど。ネコがそう言うんだ」

 だろ、とフォルセティが話を振ると、ネコは得意げに目を閉じて顔を上げた。黒猫なので表情が全くわからなくなってしまうが、話し始めればどこに口があるかはわかる。

「匂うなって思ったらその匂いの元くらい確認するだろ。そんで翠嵐が言った解毒方法と照らし合わせたら、ああそういうことって」

「そういうこと……」

 ルーシェが呟くと、ネコは続けた。

「あの森の空気は、この土地の毒に対抗できるように調合されてるんだ。だからあの森や、森を通ってきた風が吹くエリアを通れば多少は解毒ができるけど、それも遠くなれば拡散して効果も薄れる。ただここだけは背後の山が壁になって、風の運んだ成分が溜まる。結果的にちょっと解毒の効果が強くなる。それを多く吸ってる人ほど毒の影響は出にくくなる。これが、風の民がここのものを食っても体調を崩さない理由だよ。みんなここなり、出掛けるときに通るあの森なりの空気のおかげで、症状が出にくくになってる」

 ルーシェとクレタは顔を見合わせた。あまりにできすぎた話だ。

「理屈は通るのかもしれないけど、そんなことあるかしら」

「あるよ。現にフィーはさっきあんなにパンばくばく食って、なんならその前に土まで食ってたけど、症状出てないじゃん。国にいるときはほんの一舐めで効果てきめんだったくせに」

 フォルセティが苦虫をかみつぶした顔で口を挟んだ。

「俺はあんまり参考にならないよ。でも、ルーシェもだからな」

「え?」

「ですよね」

 フォルセティはアルファンネルを振り返りながら言った。彼女は椅子からゆっくりと立ち上がり、ルーシェたちのいる食卓の前を通り過ぎて台所へ入っていった。

 それから彼女は白いマグカップに、朝の残りのスープを半分ほど入れて戻ってきた。ルーシェはカップを受け取り、その中を覗き込んで呟いた。

「これ、私もいただいたもの……」

 ルーシェが呟いて顔を上げると、アルファンネルは「この肉は地のものを食べて育った鶏だよ」と言った。

「万一のときにはちゃんと対応できるとフィーが言うからね。少し心配だったけれど」

「おばあさまも同じものを召し上がった……」

「そう。みんな食べた。でも、ルーシェ。あなたを含め、誰ひとり何も問題は起きなかった。それがうまく説明できるほかの理由が思いつかない。私は、だからその推測は少なくとも真実の一端は捉えているのだと思う」

 アルファンネルがフォルセティを見ると、彼は少し気恥ずかしそうにしながら言った。

「俺はあの人からかなりヒントをもらったので」

 アルファンネルは微笑んだ。


 ルーシェはテーブルにカップを置くと、放心したように大きなため息をつき、下を見た。

 つまり。あの森は今も、この場所を通る水の毒から、人々を守っている。あの、枯れた檻のような、死んだ森の主の呪いのような、そんなふうに自分が感じていたあの森が——ルーシェは顔を上げ、もう一度ため息をつくと両手で顔を覆った。

 そんなに都合のいいことが偶然起きるはずがない。今ある事実を推し量る材料はフォルセティ=トロイエがフォルセティに与えた。そしてその経緯を、少なくともそれを推測する基礎は、ルーシェがノイシュトバルトから以前、与えられている。

 あの森はかつてエルジェシルと地竜が互いに慈しみを育んだ場所だ。そこでエルジェシルが巡業から戻ってくるのを待っていた地竜は、あの場所をきっと、水の毒にさらされるエルジェシルのために調えた。

 地竜亡きあともその灰を養分に、彼の揃えた植物は再び萌え立った。そうしてあの森は今もエルジェシルを守るためにそこにある。彼女がそこを呪いながら死んでもなお、それでも彼女や、そしてきっとその娘——母と同じように、水の毒にさらされることになるイヴァレット、さらにはその娘であるクレタたちを守るために。

 当時と同じかはわからない。けれどもそれは確かに続いている。そう考えた途端、ルーシェはあの森の黒を、抱いた種の芽吹きを待つ大地の色だ、と思った。


 焼けた森の下で、役目を再び果たすためにじっと待ち、しかるべき時の訪れとともに光を求め天を目指すものたち。そのゆりかごは暗く音もない土の中、ただ無音の闇ノイシュトバルトだ。始まりにして終わり。そして新たな命を育む礎となる。広くて深く、暗くてやわらかく、そして何よりもあたたかい。地竜よりもずっと短い命のエルジェシルと、その子らをずっと守るための営みを、その黒い森ノイシュトバルトは今もなお続けている——ルーシェは顔を覆ったまま呟いた。

「あなたの森はとても、豊かよ」


 外で、大きな声が聞こえた。

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