4 / 祖母と母と

 次の朝ルーシェはいつもより早く目を覚ましたが、そのときフォルセティはとっくにおらず、クレタもまた見当たらなかった。

 身支度を調えて外に出ると、家々からは朝食を準備している匂いがする。ここにたどり着く前過ごした風の民のキャンプでも覚えがあるものだ。少しだけその匂いを楽しんでから、ルーシェはストールを巻き直してアルファンネルの家に向かった。ここはかなり冷える。


 家にいなかったふたりは既にこちらに来ており、そこにはちゃっかりネコもいた。食卓の上には食事の支度ではなく、フォルセティが道中指示を受けて採取してきた土塊の包みが並べて置かれている。

 もっとも、その食卓についているのはネコだけで、フォルセティはアルファンネルの指示のまま、即席家庭菜園の役目に甘んじていた。どうやらアルファンネルは、ルーシェが土地のものを食べてはいけないと言われているのを聞いたようで、食材はフォルセティに用意させることにしたらしい。


「おはようございます。遅くなってすみません」

 ルーシェが台所に声をかけると、クレタとアルファンネルが顔を上げた。ルーシェはクレタからも「おはよう」と返ってきたのに心底ほっとして、これは? と聞きながら食卓の横を通り過ぎた。

「土、置きっぱなしだとご飯並べられないわよね。下ろしてもいい?」

「さっき話すのに使ったままなんだ。あとでもう一回ちゃんと調べるから、混ぜないようにしてくれれば移動させていいよ」

「わかった。じゃあ玄関の横に置いとく」

 フォルセティがトマトをもぎながら答えたのを視界の端に留めながら、ルーシェは包みを両手に持ち、玄関脇と食卓との数歩しかない距離を何往復かして、包みをすべてどけてしまうと食卓の上を拭いた。


 アルファンネルが準備したのは野菜と塩漬けの肉を煮込んだスープ、ほくほくの豆と根菜とを合わせて作った温かいサラダ、小鉢がいくつか、それからパンだ。パンについてだけはルーシェは「地のものだから」と食べることを許されなかったが、フォルセティは食べた。国にいるころ風の民が持参したものを口にして痛い目を見たはずなのに遠慮する様子もない。ルーシェは半ば呆れながら、自分の前に置かれたスープをスプーンですくった。頭から下ろしたオトが、視界の隅に見えた。

 ルーシェがスープを口に運ぶやいなや、アルファンネルは「どうだい?」と聞いてきた。

「こっちのような寒いところでは普通育たないものもあってね」

「美味しいです。すごく。ほっとする味がする、けど、野菜が懐かしいからとかじゃなくって……」

 ルーシェが言葉を思いつかないままスープの水面を見ていると、クレタが口を挟んだ。

「おばあちゃんの味だもんね」

「そう。そうね、たぶんそのせい」

「だけど、デュートは料理をするのかい?」

 アルファンネルが尋ね、ルーシェが少し考えてから「覚えがないです」と言うと、食卓は笑いに包まれた。


 昨日のクレタの様子を思い出す。謝らなければならないと思う。彼女が怒った理由がフォルセティの言ったとおりなら、この件の原因はルーシェにある。クレタは気を遣ってくれているようだが、ルーシェはそれに甘える気にはなれなかった。

 さっきフォルセティは、あの土の包みのことを「話すのに使った」と言った。ルーシェが来るまでに、フォルセティはクレタに、それからアルファンネルに、何を話したのだろう。ルーシェはスプーンを口に運びつつ、皿の中を見ているふりをしながら、食卓を囲む面々を上目遣いで窺った。さっきからクレタとフォルセティの間には会話がない。

 きっと自分のせいだなと思い、ルーシェは思わずため息をついた。アルファンネルが、どうした? と聞いてきて、ルーシェは慌てて頭を振った。

「なんでもないんです」

「ずいぶん遠慮するねえ」

「いえ、あの……」

 何か言おうとするも、アルファンネルとクレタが自分を見ている視線を真正面から受けてしまい、ルーシェは押し黙った。クレタがスプーンを置いて、息をついてから言った。

「昨日のことでしょ?」

「え、あ、うん。そう、ごめんね、私がちゃんと考えてなくて……その。迷惑をかけてしまって」

「それはもう大丈夫。正直、なんてことしたのってあのときは思ったけど。そのあとファランに話して、森の魔物のお伽噺なんかあの森が焼けて本当に魔物が住み着く前からとっくにあったよって聞いて。ごめん。私も知りもしないのに怒りすぎた。だいたい怒るべき人がいたとしても、それは私じゃなかったと思う」

「そう? そうかな。だったら良かったんだけど」

 すっきりしない返事を続けるルーシェに、アルファンネルが笑いながら言った。

「この子はどうも血の気が多くてね。私も驚くことがある」

「だから、もう、ごめんって。ところでさ」

 クレタは恥ずかしそうに言い、話を変えた。

「エリトデルオーマ」

「イシトだ」

 フォルセティが訂正し、クレタは、ああそう、と答えた。

「あれって結局、なんの竜なの?」

 クレタは自分の膝の上で丸くなっているネコを撫でた。

「ネコちゃんは、風の竜だもんねえ」

 ルーシェは、クレタとフォルセティの間にも会話があったことにほっとしながら話に加わった。

「本人は、言霊の竜だって言ってた、ような気がする。コードや旧律を使う人が自分の生命線だ、みたいなことを」

 そこまで話して、ルーシェはこの話を続けるとイヴァレットに繋がることを思い出し口をつぐんだ。クレタが首を傾げ、ルーシェは内心びくびくしたが、クレタがひっかかっていたのはルーシェが危惧したことではなかった。

「言霊の竜、何ができるのか今ひとつ想像できないな。口がうまいっていうこと?」

「私もよくわからないんだけど。でも確かに丸め込むのは上手かも」

 フォルセティが三枚目のパンを頬張りながらルーシェたちを一瞥し、言った。

「本人に聞けばいいじゃん」

「え、やだ」

 クレタが即答し、フォルセティは眉を寄せた。

「なんで」

「だってあいつなんか偉そうだし。顔がいいせいで余計、無性に腹立つ」

 アルファンネルが苦笑を浮かべている。ルーシェはそれを見、口元を拭いてから尋ねた。

「おばあさま。ナイト・フォルセティ=トロイエ、どんな人だったんです?」

 アルファンネルは一瞬眉を上げてから、そうだね、と言った。

「私や陛下に対するのと、それ以外の人に対するのとでは、全然違っただろうから……」

 ルーシェは昨晩アルファンネルに彼が見せたうやうやしい態度を思い出し、ああ、と相槌を打った。

「確かに、私と話してるときは全然あんなじゃなかったです。自分が忠誠を誓ったのは陛下であって宮殿下じゃない、って言って」

「変わらないね。あの子はデュートからプロポーズされたときも大真面目にそう言って断ったんだよ」

「え? お母さまがプロポーズを……?」

「あ、いけない。これは秘密だったかもしれない、デュートがまだ五つか六つかのころのことなんだけど。本人に、私から聞いたとは言わないようにね」

 ルーシェは思わず笑みをこぼし、頷いた。確かに母は自分の初恋の人がフォルセティ=トロイエだとは言っていたけれど——まさかプロポーズまでしていたとは。クレタも笑いをこらえていた。

「大丈夫です。今たぶん母は父と、とても幸せなので。父、堅物で、そのくせかなり直情的だし、フォルセティ=トロイエとはおそらくタイプが全然違うんですけど」

「良かった。本当に」

 アルファンネルはそう言い、食卓の上で手を組んだ。

 彼女は三十年前のクーデターに乗じてユーレを出て以来、デュートに会っていない。だから彼女の中のデュートはそのときのまま止まっている。そのことを不意に思い出し、ルーシェは彼女の言葉を噛みしめた。ルーシェの言葉を聞いての「良かった」という、ただそれだけの短い返事に、彼女が何十年も積み上げてきた後悔や心配をふいにするほどの安堵が表れているような気がして嬉しかった。


 食事が済んで、食卓を片付ける。それからフォルセティはふたたび、ルーシェがどけた土の包みを食卓の上に持ってきた。

 アルファンネルは部屋の隅のソファに移り、孫とその友人たちが食卓を囲んでいるのを、ネコを撫でながら見守った。


「お腹の調子とか、もろもろ。異常とかない?」

 クレタがフォルセティに聞くと、彼はグローブを外して手のひらを見た。国にいるころに症状が出た部位だ。

「ない。まだなだけの可能性もあるにはあるけど、たぶん出ない」

「だけど、近くの土地に比べてもこのあたりの土は特に汚れているんでしょ」

「うん。森の中の土は大丈夫だったけど、そのあとは。しかもここに近づくにつれて濃くなってるから、もしかしたらこの辺が汚染源で、森が蔓延をせき止めてるのかも」

 ルーシェはふたりの間で交わされる会話に思わず声を上げた。

「ここの土に毒性があるっていうこと?」

「そうなのよ」

 クレタの返事は淡々としている。風の民が持ち込んだ食べ物へのユーレの対応や、ドルジが言っていたという死産の多さのことがルーシェの頭をよぎった。もちろん、地のものを食べないよう指示されていたこともだ。薄々可能性を感じてはいたが、否定されたかった。なぜなら、もしそうだとすればここで暮らす人々は——ルーシェは眉を顰め、問い重ねた。

「だけど。ここの人たちがみんな揃って体調崩したりしてるわけではないでしょ? 単に土の成分が違うだけで別に有害なわけじゃない、ってことは?」

 ルーシェは助けを求めるようにフォルセティを見たが、その期待は裏切られた。彼はネコを呼び、それが食卓に飛び上がるのを待って、答えた。

「それがな、土だけじゃなかったんだよ。からくりがあったんだ」

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