2 / 羽の旅
集落に入ったが、人の姿はほとんどなかった。こんなふうに広場に火が焚かれていれば、夜更けでもない限り、その周りには多かれ少なかれ誰かしら出ているのが自然な気がする。少なくともルーシェたちが同行していた頃はそうだったはずだ。
クレタの話である程度覚悟はしていたものの、ルーシェは異様な雰囲気に心細くなり、隣にいたフォルセティを見た。彼もまた神妙な顔をしていたが、その視線はある家に注がれていた。
軒先に両手のひらを並べたくらいの、黒い布がかかっている。ルーシェは、きっとあそこがドルジの家なのだ、と思った。その答え合わせをするように扉を開けてドルジが出てきた。数日ぶりでしかないのに、とてもやつれて見えた。
ルーシェがかける言葉を選べないでいるうちに、ドルジのほうから話しかけてきた。しかしその相手はルーシェではなくフォルセティだった。
「間に合ってよかった。俺の娘の送りの祈りを頼むよ、もうすぐ焼くんだ」
「俺でいいんですか」
「当たり前だろ。このあたりにはもともとプライアなんか
フォルセティは、わかりました、と答えてからルーシェのほうを見た。
「どうする? 来る?」
「行っても良ければ。私も祈らせてもらいたい」
フォルセティがドルジを見ると、彼は頷いた。ルーシェはその場に残るというネコにオトを預け、フォルセティに続いてドルジの背を追った。
赤ん坊は、部屋の中央に置かれた籠に寝かされていた。部屋の薄暗い隅のほうでは三つか四つくらいの子どもが老女に抱かれ、そのそばの寝台では女性が背を起こし、俯いている。ルーシェは、きっとドルジの妻と、その母と、それから先に生まれた子なのだろうなと思い、誰へともなく深々と頭を下げて、赤ん坊の籠のそばに膝をついた。
籠の中の赤ん坊には上から、顔まで覆うように柔らかく布がかけられていた。布の端から右足がはみ出ていた。土踏まずもない真っ白な足には、小さな指と、薄い貝殻のような爪も揃っている。ルーシェは胸がつまって何も言うことができず、籠を挟んで向かい側のフォルセティの様子を窺った。
フォルセティは目を伏せ淡々と、自分の衣装の飾り紐から色石をひとつ外した。それから彼は赤ん坊を覆っていた布を少し持ち上げ、外した色石を手に握らせてふたたび布を戻すと、自分の両手のひらをかごの縁で上に向けて重ね、一息置いてから祈りの言葉を唱えはじめた。
ルーシェたちが普段使うのとは全く違う、ルーシェには意味も理解できない不思議な言葉だ。ゆっくりとしたそれは、いつものフォルセティの声よりは少し低く落ち着いたもので、音階を伴い歌のようにも聞こえる。ルーシェが、きっとこれも「コード」なのだろうなと思いながら目を伏せて聞いていると、視界の上端に薄緑の小さな光がいくつも浮かんだ。
メーヴェの食堂にあったタペストリーに描かれていた竜の虫に似ている。ルーシェは思わずそれらを目で追った。光はフォルセティの声の調子に呼応するように明滅しながら赤ん坊の上を離れ、その場にいるものの間を見物でもするかのようにふわふわ飛んで、最後はフォルセティが上向きに重ねていた手のひらに集まると、歌の終わりに合わせて動きを止めた。
周りにいた家族から息が漏れるのが聞こえる。膝をついていたルーシェが再び籠の中に視線を落とそうとすると、フォルセティはここでようやくルーシェにもわかる言葉を使った。
「風とともに、再び空に遊び、いつか舞い降りて、必ず我らの
フォルセティは重ねたままだった手を包むようにして光を閉じ込めた。彼はそれを口元に寄せ、ふ、と息を吹きかけて空へ散らした。
いつの間にかそばまで来ていたドルジと老女が深々と頭を下げた。フォルセティは立ち上がり、会釈を返した。ルーシェも慌てて立ち上がったが、少し膝が痺れていたので、うまく頭が下げられないままになってしまった。
「悪いな。渡して礼になりそうなもんが見当たらないんだ」
ドルジが申し訳なさそうに言うと、フォルセティは、いや、と答えた。
「ドルジさんはじめ皆さんには、俺たち道中お世話になるばっかりだったので。こんなことで残念ですけど役に立てたのなら、少しでも恩返しになりますかね」
「十分すぎるくらいだよ。ありがとな」
ほかの家族もフォルセティに頭を下げた。ルーシェも改めて辞儀をして、ふたりはドルジの家を出た。
踏み出した外はもう完全に暗くなっており、空にはたくさんの星が見えた。数人、火の周りに人も出ている。ルーシェはなんとなくほっとしながら腰をかがめ、ネコからオトを預かると、いつもの場所にそれを乗せてから隣のフォルセティを見た。少し遠くで揺れる炎が彼の顔を照らしている。何か考えごとをしていて、だからこそ無表情な、あまりルーシェが見たくはない顔。無言が重苦しくて、ルーシェは口を開いた。
「ちゃんと勉強してるのね」
「そりゃな。つってもまだ全然、経験豊かとは言えないけど」
「だけど、できればあんまり経験したくないわよね」
フォルセティは、うん、と呟いて下を向き、大きなため息をつくと仕切り直すように顔を上げた。
「じゃあ、どうしようか。行く?」
「行っていいのかしら。ドルジさんがこっちにいたってことは、もう落ち着いてるのかもしれないけど……おばあさま、疲れてるかもしれないし。明日のほうがいいんじゃないかな」
「明日でもいいけど、その場合でも今日俺たちがどこで寝るか考えないとだし。そしたら頼れるところなんかそんなにないし、結局同じじゃね」
それもそうね、とルーシェは答えて周りを見渡した。
アルファンネルの居場所がどこか、わからない。きょろきょろしていると後ろからクレタが近づいてきた。彼女はルーシェの肩に手を置くと、振り返ったルーシェに笑顔を返し、軽い足取りでふたりの向かい側に回り込んだ。
「ドルジの子、送ってくれたのね。ありがとう」
「ううん、私は本当にその場にいただけで」
「それでいいのよ。待ってる人が多いほど、はやく戻ってくるって言われているから」
「そうなのね」
ルーシェは再びドルジの家のほうを見、それから前を向き直るとクレタにアルファンネルの居場所を尋ねた。クレタは後ろを向くと、火の周りを囲んでいる簡素な建物のうちのひとつを指し示した。
「あの、扉に菱形を組み合わせた模様の織物がかかっているのがファランの家よ。あなたたちが来ることは私たちが戻ってすぐ伝えたから、きっと待ってると思う。さっきまでちょっと騒がしかったけど、続きは日が昇ってからだってなって解散したから、今は大丈夫。行くでしょ?」
「行っていいかしら」
「もちろんよ。……私が言うのも変だけど」
クレタは、さあさあ、と言いながらふたりを後ろから押して、アルファンネルの家に連れていった。
アルファンネルの家の中は壁に幾重にも布が貼り留められて、布張りの箱の中のようになっていた。床もほとんどが絨毯で埋まっており、壁材や床材がそのまま見えるところはほとんどない。四角い形をしているけれども、それでもテントの中にいるような錯覚に陥りそうになる、不思議な部屋だった。
アルファンネルは明かりを据えた正方形の食卓を前に、椅子に深く腰掛けていたが、クレタが「連れてきたよ」と言いながら扉を開くと顔を上げてそちらを見た。クレタが部屋の中に進み入り、少し横に退いたので、あとをついて入ったルーシェはほとんど正面にアルファンネルを捉えることになった。
明かりに照らされたアルファンネルは、色味のない髪を美しく編んでまとめている。やや日焼けした顔には深い皺も刻まれていたが、こちらを見る両目は力強い。シルカと同じ色をしていた。何年も前、最初に会ったときには全く気がつかなかったのに。きっとあのときあの場所の、暗さと明かりの色のせいだ。ルーシェは思わず息を呑んだが、深呼吸をし、静かに言った。
「シャルテッサ=セレニタ・シュナベルです。デュート=クライン・シュナベルと、ジェノバ・シュバイカーの娘。お目にかかるのは二度目だと思います。母の
「後ろは?」
アルファンネルが目を細めて尋ねたので、フォルセティも一歩横にずれて挨拶をした。しかし彼女は更に尋ねた。
「まだいるね?」
クレタがルーシェを見る。ルーシェはフォルセティと顔を見合わせ、ふたりして後ろを振り返った。そこにはネコを抱きかかえたイシトがいた。
フォルセティが慌てて何か言おうとしたが、イシトはそれを制するようにフォルセティの顔の前に手をやり、抱えていたネコを下ろすと、やや大股で、しかしゆっくりまっすぐにアルファンネルのそばまで近づいた。彼はそこで片膝をつき
「お久しゅうございます」
アルファンネルは驚いた様子もなく、椅子に掛けたまま、慈しみをたたえた顔で「本当に」と言った。イシトは緩やかに顔を上げた。
「陛下に最後にご用命賜りました妃殿下へのご遺言を、お伝えしにまいりました」
「あなたは、本当に……」
大きく息を吸い、そして吐いてから絞り出されたアルファンネルの声は震え、続きは聞こえなかった。顔を見合わせるルーシェたちの前でイシトは立ち上がり、後ろを振り向くと、フォルセティを残して人払いをした。
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