第7章

1 / 幾つかの土

 ルーシェの呼び掛けに応えるように、梢のざわめきが不意に消え、辺りが闇に包まれた。

 自分の手さえも見えないが、ネコが背毛を逆立てたのを、ルーシェは脚に当たったその柔らかい毛の感覚で知った。

「落ち着いて。大丈夫よ」

 ルーシェは目の前から視線を外さないまま、少し腰をかがめて下に手を伸ばし、ネコを撫でようとした。そのときだ、枯葉を踏むような音が聞こえたのは。思わず背筋を伸ばし周りを見回すと、闇はとばりを引き上げたように消えていき、目の前にはノイシュトバルトが立っていた。はしばみ色をした瞳の、人の姿のそれが。

「そうだぞ。興奮すんな」

 彼はそう言い、少し大股でゆっくりルーシェに近づくと、やおらしゃがんでネコの顎の下に手を伸ばした。

「よう。元気そうだな」

 ルーシェは思わず後ずさり、隣のフォルセティの顔を見た。彼はやや緊張した面持ちでネコと、その前の男を見ている。ネコはフォルセティ=トロイエを知っていると言った。だからネコの反応で、目の前の男が「彼」であるかどうかは——

 一目瞭然であった。

 

 

 木々の間を、ネコを抱きかかえたフォルセティ=トロイエとルーシェに前を歩かせ、フォルセティは渋い顔でついていった。ノイシュトバルトの気配は微塵も感じさせずに、フォルセティ=トロイエはルーシェの申出を受けた。

 そうして新たにフォルセティと結んだその竜は見目よい青年の姿のまま、肩に、後ろ向きに抱いたネコの顎を乗せさせている。ネコはらんらんと光る金の目をフォルセティに向けて、ときどき左右に首を振って周りを見、鼻をひくつかせた。そのたび和毛にこげが当たってくすぐったいようで、フォルセティ=トロイエは「うひゃひゃ」などと嘘のような笑い声を上げた。

 その彼が急に振り向き話を振ってきたので、フォルセティは思わず肩を跳ね上げた。

「えっ? はい」

「いや、だから、よくその気になったなって。嫌だったんでしょ」

「えっ。はい」

「ちょっと……」

 ルーシェは割って入ろうとしたが続かなかった。どうも同じ名前がふたりいると呼びにくい。その考えを読んだかのようにフォルセティ=トロイエは、「だからイシトでいいよって言ったんだよ」と答えながら立ち止まり、ネコを地面に下ろした。

「誰かがあいつのことをノイシュトバルトって口に出すたびにあいつは、っていうかあいつの存在感か。それが世の中で大きく重くなっていき、それがそのままあいつの力になるんだよ。だからあのあたりの連中は、あいつが出歩いててもその名前で呼ばなかったけど、最近は宮殿下みやでんかのお陰でずいぶん機嫌が良さそうだ」

「もしかして私、悪いことしたかしら」

「別に悪くはないよ。ただまあ俺は、いちいち律儀だなあとは思ってた。現陛下の小さい頃とそっくりだ。血は争えないね」

 ルーシェはなんとなくからかわれたような、でもさほど悪い気もしなくて、少しはにかみながら歩みを緩めた。それをフォルセティ=トロイエが気にもせずに進んでしまうので、ルーシェはついてきていたフォルセティと並んでから元の速さで歩き始めた。


 森の端が見えてきた。その向こうは今いる場所よりかなり明るい。フォルセティ=トロイエの姿を持ち、その中にその魂とノイシュトバルトとを同居させている「イシト」は、不意に足を止め背をかがめると、ネコが見守る中、足元の土塊つちくれをひとつかみ採って、はいこれ、と言いながらフォルセティに投げ渡した。

 急に投げられたそれを慌てて受け止めたフォルセティは、その土塊とイシトの顔をと見比べ、「これは?」と聞いた。

「持ってな。どこで採取したものかもわからなくならないように。俺が渡したのが怪しく感じるなら、それは捨ててこの場で自分で採り直して。たぶんあとで使うことになる」

「はあ」

 フォルセティは手の中の土を見つめ、一応イシトの言うとおり自分でも土をほじくり返し、それらをそれぞれ油紙で小さな包みにして採取地を記録した。


 イシトがそうして土の採取を命じたのは森を出てからもあり、結局十回近くに上った。彼はそれについて「あとで使う」という以上の説明はしなかったものの、フォルセティはなんとなく見当をつけていた。この土はサンプルだ。

 この、ネコがフォルセティ=トロイエ本人だと確認した男は——ということは「フォルセティ=トロイエ」は、証明させるつもりなのだ。サプレマが国境へ伴った地竜、すなわち風の民の持っていた食べ物の毒性を突き止めた竜の、その本来の主であるフォルセティに、風の民が根を張ろうとしている、今彼らが向かっている場所がいかなる土地であるかを。こんなにわかりやすいのだから、ルーシェもきっとその目的に気づいている。フォルセティは隣を歩くルーシェを一瞥した。

 もうすぐ日が暮れ始める。森を出てからしばらくは、遠くに乾いて白茶けた山脈を望むだけの退屈な荒れ地が続いていたが、今は前方に簡単な作りの建物たちがうっすら見えてきていた。あれが目的地だ。

 間もなくアルファンネルに会える。ルーシェはいささか緊張し、フォルセティが自分を見たのに気がつかなかった。


 ルーシェたちが歩みを進めるにつれ、落ちかけの日に照らされた建物の形がはっきりしてきて、その町の中で火が焚かれているのもわかるようになってきた。ルーシェはフォルセティを引っ張ってイシトの前に回り込み、「先に行くから」と言った。

「みんなにあなたのこと説明してくるから。だからあなたはここで少し待ってて」

 ルーシェは後ろの町を振り返った。まだ誰も出てきていないが、もし何も知らない風の民の前に突然彼が現れたらどう思うか——彼らはノイシュトバルトを竜の姿でしか認識していないはずだから、さしたる混乱はないかもしれないけれども。それでも結束の固い風の民が集まるあの場所に彼らの知らない人物を連れて入る以上、その素性を隠したままというわけにはいかないだろう。フォルセティ=トロイエに体を明け渡したまま今は鳴りを潜めているノイシュトバルトがいつ表に出てくるかもわからないとなれば尚更、事前に説明は必要だ。わかってしまったときに言い訳しても、信用を取り戻すには遅すぎる。

 しかしイシトはこともなげに「姿が見えなきゃ解決でしょ」と言って、その場から煙のように消えてしまった。ルーシェが慌てて周りを見回していると、フォルセティは首を振った。

「こういう感じのやつが多いんだよ、竜って。たぶん連中、ルーシェが思ってるほど超然ともしてなければ理知的でもない。すげえ自分勝手だし適当」

「でも今のって竜がっていうかフォルセティ=トロイエの性格な気がする」

「そうかな……ああ、うん、でも今回に限ってはそんな気もするな……」

「別に限らなくても。ネコちゃんみたいな子もいるし。私、別に、竜に対してこうあるべきだとかこんなものだとか、そういう決まった印象ないわよ」

 足元のネコが顔を上げた。

「言っとくけど、オレの名前、ネコじゃないからね」

「え、そうなの? ごめんなさい」

「別にいいよ。そのうち教えてあげる」

 ネコが尻尾を立てて歩きだす。その先のほうから、クレタが手を振りながら走ってきた。


 ふたり(と一匹)に合流したクレタは、これまで見慣れていたのとは違う格好をしていた。大きな模様の入った布でできた、頭から被る形の素朴な服に腰のあたりで幅広の紐を巻いている。体の線はかなり隠れてしまっていたが、目立つ顔立ちにはもちろん変わりがない。右目は「クレタ」であるように、大きな眼帯で隠されていたが、その眼帯も見慣れたものより装飾の省かれたかなりシンプルなものだった。

 ルーシェはクレタと並んで歩きながら、森に戻った目的を伝えた。クレタが驚いた顔で振り向いたので、フォルセティは肩をすくめてみせた。「そのとおりだ」という仕草だ。クレタは再びルーシェのほうを見ると、しみじみと「驚いた」と言った。

「その、フォルセティ=トロイエを。ファランに会わせるために連れてきた?」

「うん、そう。本のことも聞きたくて」

「わかった。でも会わせるのは少し待てないかな? 今ちょっとばたついてて」

「何かあったの?」

 クレタはため息をついた。

「ドルジの奥さんがね。私たちが帰ってきた直後に産気づいて。でも、死産だったのよ。それで」

「気の毒に……あの、私の用事、全然急がないから。できることあったら、言って」

「ああ、あのね。死産自体は、なんの慰めにもならないんだけど、そんなに珍しいことじゃないの。ただドルジがね、巡業中のお産に比べて、この場所にとどまって産む人の死産率が高くないかって言い出して。それで、ここにとどまることにもともと反対だった人たちも勢いづいてしまって。そしたらこっちに残ってた、私たちの帰りを迎えるために色々準備してくれてた人たちも怒っちゃって。ファランがなだめてるの。どっちも冷静になりなさいって」

 ルーシェは眉を寄せ、立ち止まると眼前を見渡した。


 歩みを止めなかったクレタが先に入っていく。その町はルーシェが、祖母に会えると待ちわびた終着点であったはずだ。なのに。

 奥にそびえる山脈が、急に閉塞感をかき立てた。その岩肌に浮き出た赤黒い鉱脈は、海に囲まれ開けた土地で生まれ育ったルーシェに言いようもない不安を覚えさせた。思わず唾を呑み込んだルーシェの腰のあたりを、フォルセティが後ろから手のひらで叩いた。

「行くぞ」

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