8 / 標のゆくえ

 その日、ルーシェとフォルセティを連れた風の民はテントをたたみ、慣れた手つきで出立の準備を済ませた。

 そして太陽が一番高く昇る時間よりやや早い頃に昼食を取ると、一行はシルカの籠を背にした馬を列の中ほどに据え、彼らの「故郷」に向けて最後の行程を始めた。


 シルカの籠を中心に、花虫テラスの柔らかい熱が一行を包む。それは吹虫オトを連れたルーシェの周りにはこれまで届かなかったのが、途中で合流したネコがオトをうまく制御してくれるようになったので、ルーシェも恩恵に浴することができるようになったものだ。ルーシェはそれでようやく風の民が薄着でいられる理由を実感した。これまで心のどこかでは眉唾ものだと思っていたことが、実際体験してみると、疑っていたのが馬鹿らしくなるほどすとんと腹に落ちた。まるで誰かに温められた毛布を柔らかく身にまとったような。

 ネコは一行の最後尾、ルーシェとフォルセティの足元をトコトコ歩いていたが、やがて疲れてきたのか尻尾を上げて前のほうに走っていき、妊婦や子どもの乗った馬車に飛び込んでしまった。馬車と言っても主な用途は荷物運びだから乗り心地は良くない。幌がないので風はしのげないし、同乗者のせいで騒がしくもあるが、それでもネコは歩いてついていくよりまし、と判断したようだった。


 出立の前、クレタはルーシェに、明日の晩にはシオンに着くと言った。シオンには今回の旅に同行しなかった、クレタたちの部族の残りの民が待っている。

 フォルセティによれば、ドルジも身重の妻をシオンに残してきているらしい。ルーシェは周りを見回した。ここにはシオンに大切な人を残してきた人がたくさんいる。たとえ誰かに与えられた土地であり、しかも自分の生まれた場所ではなくても、少なくともそうした人たちにとってはシオンは「帰る」場所なのだろうな、とルーシェは思った。

 目的地が近づくにつれ、周りの皆の顔は明るくなっていっているように見えた。中にはシャルムジカのように普段と変わりなく見えるものもいたが、それでも耳をそばだてると、知り合いの誰それに今回の旅の土産を渡すのだとか、誰それのところには今回の旅の間に子どもが生まれているはずだとか、誰それの家の病人に今回入手した薬を届けるのだとか、着いたら何をするか、皆それぞれ到着を心待ちにしている様子がうかがえた。

 一方自分はどうか。ルーシェはため息をついた。


 アルファンネルに会うという当初の目的が、もうすぐ達成できそうなのだ。母の代わりに会うという役割も果たせそうだ。だというのに気分は晴れなかった。

 理由ははっきりしている。シルカのこともあるし、その母イヴァレットのこと、ガイエル王タイガのこと、それらに自分が——というよりは「フォルセティの青い本」が——何かしらの関係があり、狙われているということ、そして何より、ノイシュトバルトの、あるいはフォルセティ=トロイエのことが、あるからだ。


 自分は自分でも知らないうちに、様々な人や、人でないものの思惑にとらわれ、ときに障害となり、ときに一部となり、そしてときには駒となっている。ルーシェが望むと望まざると、それはことあるごとに彼女に突きつけられた。相手と自分との関係は、必ずしも自分で選べるものではない。

 ノイシュトバルトに関してだけは、彼女が自ら興味を持ち、飛び込んでいった面もあるけれども、彼の思惑に全面的に協力するのかといえば、やはりためらいはある。ノイシュトバルトが目的を果たすことがルーシェたちにとって良いことなのか、ルーシェには皆目見当がつかなかったからだ。

 そもそもルーシェにはコードや旧律といった力を秘めた言葉の知識がなかったし、それがこれまでどのような歴史をたどり、どのように使われてきたかについては、実はどちらかといえばマイナスのイメージが強かった。彼女が認識している限りでは、少なくともサプレマやプライアといった特定の立場のものが祭祀の手順として唱えるものを除けば「力を秘めた言葉」は常に呪詛として現れた。祝福として用いられるものがあるのも知っているが、それが形ある効果をもたらしていると感じたことはない。

 そしてルーシェには、それこそがノイシュトバルトにかけられた呪いなのかもしれない、とも思えた。


 彼や、彼を在るものとして認識させる「言葉」は今、ほぼ常に呪いとしての文脈で語られる。だから人々はそれを少なくとも表面上は忌み嫌う。そうして彼は触れ得ざるものになり、やがては社会や人々の記憶の奥底に封じられる。

 あるいは、と、ルーシェは足を止めた。本当は祝福も意味を成しているけれども、誰もそのことに気がついていないのか——そんな可能性も、あるのではないか。与えられた幸福は「あたりまえのもの」、与えられた不幸は「呪詛のせい」、そんなふうに捉えてられることによって、祝福には何ら力がないのだと思い違いをされているのではないか。

 足を止めたルーシェに、数歩先で立ち止まったフォルセティが訝しげな目を向けた。

「どうした」

「ううん、なんでも……」

 ルーシェは後ろを振り向いて瞬きをし、すぐに前に向き直るとフォルセティの横に並び、再び歩きはじめた。

 フォルセティが先を促す。ルーシェはそれには応えずに前を見たまま、ユーレを出たあとのことをひとつずつ数えるように思い出し、最初に寄った町の景色を思い浮かべた。ルーシェとフォルセティが最初にクレタたちと別れた場所だ。そこでフォルセティは彼の両親の知り合いだという家に行き、そこで何か話を聞いたはずだ。サプレマが、その家の息子に——ルーシェは小さく声を上げ、横を向いた。

「そういえば。メーヴェに寄ったときだけど」

「うん? あのときがどうした」

「私たちが寄った家の人に、以前サプレマが祝福を与えたっていう話があったでしょう。あの人のおじいさんがサプレマにお願いしたとかって」

「あったね」

「もしその祝福がなかったなら、あの人はどうなっていたのかしら」

 一瞬ぽかんとした顔をしたフォルセティは、そんなこと知るかよ、と肩をすくめた。ルーシェも「そうよね」と返すほかなかった。


 祝福がなかったなら不幸になっていたであろうとか、そんなことは誰にも知るよしもない。これではやはり、祝福の言葉に力があることを証明することはできない。しかし逆に、呪詛がなかったなら幸福になっていたであろうとか、そんなことも誰にも知るよしもないはずだ。なのに。

 フォルセティ=トロイエは、ノイシュトバルトが彼に放ったものを呪いと呼んだ。そしてフォルセティもたぶん、なんの疑いもなく、同じように考えている。そしてその彼はさきの反応を見るに、祝福の効果を少なくとも確実視はしていない。コードへの造詣が深いはずの彼ですらこうなのである。ルーシェに至っては、祝福など意味がないものとさえ思っていた。

 こんなふうに多くの人々が、呪詛にだけ力を認めるのはなぜだろう。降りかかる不幸の責任を他所に求めれば、自分は無関係でいられるからだろうか。そしてそれらの人々が、祝福に力を認めないのはなぜだろう。幸福は自らの力で得たものだと信じていたいからだろうか。そのように祝福には力がないと考えたほうが、いい気分でいられるからだろうか。

 ならばそもそも祝福などなくてもいいはずだ。なのに人々はそれを求める。無意味なものであれとの希望を持ちながら、自らが認めるものに対し、それを与えるよう求めるのだ。


「……矛盾してるわ」

 ルーシェがぽつりと言うと、フォルセティは眉を寄せた。

「さっきからなんの話だよ」

「ノイシュトバルトと話をしたの」

「いつ?」

 昨晩、とルーシェが答えると、フォルセティは呆れた顔で無言のまま、ルーシェを責めるように指さした。ルーシェはその指を手で押さえ、下に向けさせながら言った。

「別にひとりで出かけたりしてないわよ。ごくごく平和的に話をしただけ。と、私は思ってるけど、夢の中の話だから、もしかしたら私の頭が勝手に考えたことかも」

「つまり、会って話した気になってるけど実際は話してないっていうこと?」

「そうかもしれない」

 フォルセティは大きなため息をついた。

「なんか、あいつと会ってからこっち、おまえ変だぞ」

「そうかしら」

「そうだよ。現実と想像の世界がごっちゃになってるっていうか。見えないもので判断しようとしてるっていうか、その……あ、やべ」

 不意にフォルセティは自分がルーシェを「おまえ」と呼んだことに気がつき言葉を切った。しかしルーシェは気にも留めず続けた。

「寄る辺を失っている感じは、自分でもしてるの。何が正しくて、何が望ましくて、何があるべき姿なのか、よくわからなくなってる」

 フォルセティは内心ほっとしながら答えた。

「だろ、難しいこと考えすぎなんだよ」

「そうね。道を見失ってる気がするわ。でもそれが必ずしも悪いことと思えなくて不思議な感じ。そんな人にサプレマだったらどういう助言をするの?」

「いきなりなんだよ」

 眉を顰めたフォルセティに、ルーシェは肩をすくめた。

「あなたもいずれはサプレマになるんでしょう。このくらいのこと答えられないと、だめよ」

 いずれは、と困り顔で繰り返したフォルセティは、ため息をつくと腕を組んで首を傾げた。

「俺、そんな相談したことないからなあ。母さんなら、そうだな……」

 フォルセティはしばらく考えこんで、「想像できない」と言いながらルーシェを見た。ルーシェはため息をついた。

「じゃあ、コンベルサティオ卿ならなんて言うの?」

「父さん? 好きにやれって言うと思う」

「本当? 意外といい加減ね」

「そうじゃなくって。俺、信頼されてるんだよ」

 ああ、そう、とルーシェは気のない返事をした。フォルセティは不服げに口を尖らせた。

「せっかく答えてやったのに、なんだよその雑な返しは」

「だってあなたの言ってることが雑なんだもの」

「別に雑じゃないじゃん。うちの両親はあれでも俺をまともに育てた自信があるから、俺の判断に任せてくれるんだろ」

 ルーシェは瞬きをした。なにかとても単純な答えが、腑に落ちた気がした。

「……なんか、わかったかも」

「何が?」

「わからないけど。私、もう少し自分を信じてみることにするわ」

「ああ、そう……」


 呆れ顔で前を向いてしまったフォルセティを尻目に、ルーシェは再び後ろを振り向いた。

 今朝方の夢は、たぶん夢ではなかったのだろう。いや、夢は夢だが、あのノイシュトバルトはルーシェが作り出した幻影などではない。彼の語ったイヴァレットの母、エルジェシルの話も、あの森を守っていた地竜の話も、きっとすべて本当だ。彼は嘘を語らない。言葉の力を——その恐ろしさも、誰よりも知っているから。

 彼自身は善でも悪でもない。正でも誤でもない。そして真でも偽でもない。人々がこれまで弄してきた言葉には功も罪もあるけれど、それは彼自身の負うべき責任ではない。彼そのものは普遍で、中立で、そして無辜むこだ。ならばあの森の迷宮に封じられなければならない理由も、彼にはないはずだ。

 ルーシェは彼を解き放ってやりたいと思った。自らを責めきれなかったエルジェシルが、彼女を含むあらゆる人々が、これまで言葉の——呪いのせいにした様々な不幸を、彼が背負わされたものを、重くのしかかる数多の悲嘆や絶望のすべてをあの森に埋め捨てて、彼を自由にしてやれたらと思った。

 ルーシェはちらとフォルセティを見た。


「なんだよ、さっきから」

 一行からやや遅れ気味になっているルーシェの隣を並んで歩きながら、フォルセティは眉間に皺を寄せた。それに彼女は別に、と頭を振って尋ねた。

「あなたの地竜はノイシュトバルトの森を蘇らせることはできるの?」

「さあ。普段から自分は首座の竜だって威張り散らしてるから、できないとは言わない気がするけど。なんで?」

 ここで、ノイシュトバルトを解き放つなどと言えば彼がどんな顔をするかは目に見えている。では、例えばこんなアプローチはどうだろう。ルーシェは息を吸って、ゆっくりと吐いてから立ち止まり、フォルセティに言った。

「私、おばあさまに、フォルセティ=トロイエを名乗るあの人と話をしてほしいの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る