7 / 竜の娘

「彼女の出自は特殊でね」

 ノイシュトバルトは続けた。

「彼女は巡業中の風の民にこの大樹の根元で拾われ、エルジェシルという名で育てられた。『誰も汝を拒まぬ』という意味だ。しかし彼女の外見は仲間とは違ったし、風の民の血が入っているかもわからない。そのせいで彼女は仲間に馴染みきれなかったのだね。自分のゆりかごであるこの森と、その守り手である地竜が彼女のよりどころだった。巡業に出かける歳になるまで、彼女はいつもここにいた。地竜も彼女を気にかけて、彼女にだけは心を開き、茶化すようではあるが美しい関係をはぐくんでいたよ」

 ルーシェは耳を傾けた。ノイシュトバルトの語る、にしの話。


「僕はその頃、地竜と大樹の名の共有に一枚噛んでいたものだから、ここを訪れることがそれなりにあった。僕は旧律を操る風の民に興味があったので、彼女とも何度か話をした。彼女はまだ知識はほとんどなかったが、とても聡い子でね。僕の聞くことを答える代わりに自分に『ことば』を教えろとしつこくせがんできた。自分には友だちがないから、竜の虫を友だちにしたいのだと言って」

 ルーシェは少しだけ渋い顔をした。クレタから聞く、そしてネコから聞いた今のイヴァレット。それを育てた女性が、ノイシュトバルトの話す少女エルジェシルと結びつかない。

「まあ、僕としてもそういう人間がいることはありがたいことではあったんだ。この前話したように、言霊に価値を見いだすものが僕の生命線だから。それで僕は彼女に請われるまま知識を与えた。やがて彼女は巡業に出る歳になり、地竜から数匹の蔦虫を預かって、この森を離れた」

 その光景を想像すると、少し心の奥が温まってくるようだった。しかし今、ノイシュトバルトは彼女の娘であるイヴァレットと反目している。何があったのだろう。

「きみと同じ疑念を抱いた、とさっき言ったろう?」

 ノイシュトバルトはルーシェが声に出して聞くのを待たなかった。彼は脚を組み直し、先を続けた。


「彼女が巡業から戻ると、森は焼け焦げ、彼女の愛する地竜もすでに亡かった」

 そのときのエルジェシルを想像するとルーシェは胸が痛んだが、ノイシュトバルトはそんな様子を気にも留めなかった。

「彼女は僕を探し出し、問い詰めた。僕は今話したことをすべて彼女に伝えた」

「もしかしてあなたを封じたのは……」

 言いかけたルーシェを遮るようにノイシュトバルトは答えた。「結論はね」と。エルジェシルが彼をここに封じたのだ。しかし。

「彼女が僕を封じたのは、僕がこの森を殺す手伝いをしたと勘違いしたからではないよ。彼女はこの森を去る前、地竜とある約束をしていた。僕から学んだ『ことば』でだ。さて」

 伏せかけていた顔を上げたルーシェに、ノイシュトバルトは問うた。

「どういう約束か想像がつくかな」

「出かける前だったのよね」

「そうだよ。難しく考えなくていい」

 少し考えてからルーシェは答えた。

「帰ってくるまで待っていて、かしら……」

 ルーシェには自信がなかったが、ノイシュトバルトはあっさり頷いた。

「そう。それを彼女は地竜と約束したんだ。力ある言葉でなされた約束は相手を拘束する。彼女は、自分の放ったその約束——いや、この場合は呪いといったほうがいいか。それから逃れられなかったために地竜が焼け死んだのだと、そう解釈した」

「そんな……待っていてね、なんて特別な言葉じゃないのに」

 眉を顰めたルーシェに、ノイシュトバルトは同意するようにゆっくりと瞬きを返した。

「確かにそうだ。しかし彼女の言葉には力があった。彼女は自分の言葉を呪った」


 また会いたいという気持ちから出た「待っていて」、たったそれだけの言葉が、愛する相手を森に閉じ込め、逃げられないようにしたのだと考えたなら。エルジェシルはどれほど自分を責めただろうか。ルーシェは言葉を絞り出した。

「でも彼女のせいじゃないわ」

「そうだよ。僕もそう言った。でもそんなことは彼女本人にはなんの慰めにもならない。彼女は言葉の力を呪った。つまり僕をだ。彼女は愛する地竜が眠るこの死にゆく森と、僕の命運を重ねようとした。もっともこの世界では、摂理への挑戦や叛逆には大抵、死というペナルティが設定されている。きみたちが僕にコードで干渉するのも同様のルール違反だ。だから彼女はそれを逆手に取り、今きみが立っている場所で自らそのペナルティを実行して、この森と僕をノイシュトバルトの名で封じた。イヴァレットはその数ヶ月前に彼女が産み落とした子だ。名の意味は『竜の娘』」

「もしかしてイヴァレットはエルジェシルと地竜の……」

「まさか。人と竜の間に子はできないよ。しかしその名は今きみが持ったのと同じ疑いを仲間に抱かせた。おまけに彼女は運悪く、抜群に優れた先視に育ってしまった。それで彼女は腫れ物のように扱われ、孤立し、亡き母親を憎んだ。タイガは母の愛した地竜のかたきだ。まるであてつけのように彼女はタイガと手を組んだ」


 ルーシェは返す言葉を選べなかったが、ノイシュトバルトが求めるのはありきたりな同意や慰めではないだろうと思い、おずおずと質問を続けた。

「もし仮に、森に私の名がついたらどうなるの」

「この間の話の続きかい」

 ノイシュトバルトは目を細め、口角を上げた。ルーシェが彼の顔色を窺いながら頷くと、彼は続けた。

「あのとき言ったように、地竜の援けを得て『無音の闇』にそぐわない本質をたたえた森になれば、そのときこの森の本質は名を蝕み、名は力をなくす。そして新しい名がつけられるようになり、あとは『金の原』の言葉どおり」

「あなたのほうはどうなるの?」

 ルーシェは尋ねた。森と一緒に封じられた彼からも、その名は消えるのだろうか。ノイシュトバルトは眉を上げた。

「僕自身がそれを自らの名とすることをよしとしている、その意味を考えてみたまえ。仮に誰か僕が主と認めるものが現れれば、それが僕に新たな名を授けることを許す日もくるかもしれないが——そんなことは起きえないからね」

 ノイシュトバルトは機嫌が良かった。これならばと意を決し、ルーシェは最も聞きたかったことに立ち入った。

「あなたはエルジェシルに封じられたあとに、森から自由になるためにフォルセティ=トロイエに呪いを放ったのね」

「彼はそう言っていた?」

「そのままの言葉ではないけれど……」

 ノイシュトバルトはくつくつと笑った。

「エルジェシルが裏を突くようなやり方をしたものだから、対応のために僕も人の命がひとつ必要になった。だから彼の死により僕がエルジェシルの設定した制限、いや、正しくは平均化処理だ。そういう鬱陶しい関係を解除できたのは確かで、この意味で僕が恩恵を被り、一方で彼がありきたりな死を迎えなかったのも事実だ。ただそれが呪いであるかどうかは受け取り手次第なのだよ、ルーシェ。エルジェシルが呪いと見なした地竜との再会の約束を、彼女を愛した地竜自身はそう思っただろうか」

「あ……」

 思わず声を漏らしたルーシェにノイシュトバルトは、穏やかだが影のある笑みを浮かべた。

「エルジェシルによれば、僕は人を惑わすのだそうだ」

 そう言い残し、彼は姿を消した。

 

 

 ルーシェの母デュートは「彼」の名前が、デュートの両親——先王イスタエフとその妃アルファンネルによってつけられたと言っていた。アルファンネルは風の民。有能な占い師。彼女が選んだ名は、同じ名を持つ彼と「彼」の間に、どういう繋がりを作ったのだろう。

 朝、目を覚ましたルーシェは一番に、フォルセティに名前の意味を聞いた。彼は寝ぼけ眼のまま「外の言葉」と答えた。コードや旧律、ルーシェたちが普段使っている言葉、そのいずれともルーツを同じくしないそれは、古い歴史から掘り起こされた物語に登場する名なのだという。

 その名はかつてこの森と竜との間に楔を打ち込み、今また死せる騎士を目覚めさせた。


 ルーシェは朝食にも行かず、誰もいない薄暗いテントの中で指を折りながら考えた。

 ノイシュトバルトはルーシェに「実り豊かな大地」を示した。フォルセティはそれを、彼が森の呪縛を断ち切るためにぶらさげた餌だと解釈したが、ノイシュトバルトの語るところを信じるならば、彼はもう既にエルジェシルの「呪い」を断ち切っている。だとすれば彼がルーシェの名を求めた目的はその先だ。森の再生も目的ではなく手段。彼が森を出ず、ルーシェたちを待ち、誘い込んだのも彼の意思。

 沈黙の森の主はそうして長い時間をかけ、舞台を整えてきた。彼の目的を達成するために揃えた「手駒」を配すべき舞台を。ならば彼が望むのは単に自由になることなどではない。


 彼の目的はきっと、言祝ことほぎの王としての復権だ。ルーシェは深く息を吐くと立ち上がった。

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