6 / 旧き名が呼ぶ

 クレタの花虫は蝶のような姿をしている。ひらめく翅が火の粉を散らし、美しかった。その花虫に導かれ、曇天の下をフォルセティと並んで歩きながら、ルーシェは「彼」の言葉を反芻した。

——僕らの秩序に死は存在しない。

 もし仮に問いを続けていたら、彼はなんと言っただろうか。


——僕は彼の記憶を持ち、彼の姿をしているけれど。

 でもあなたは彼ではない。

——彼自身ではない。

 彼のいるときにあなたは。

——僕は彼を包摂する。

 彼はあなたの一部だというの。

——僕と彼は同であり、同時に異だ。

 それでは答えにならないわ。

——彼を定義しても、僕を定義したことにはならない。

 その逆はどうなのかしら。

——僕を定義すれば、彼を定義しきることは

 できる? 本当に。


「ルーシェ」

 前から聞こえてきた明るい声でルーシェの考えは中断された。花虫が声の主の周りにぐるりと円を描くように飛び、その後ろに消えていった。

「クレタ」

「良かった。心配しかできなくて、本当にもどかしくて」

「ありがとう。ごめんね遅くなって」


 クレタたちはその日は、ルーシェたちが合流するのを待っていてくれたようだった。辺りは高い木などの目印になるものは何もない。道も一応踏み固められてはいるが、荒れ地に通った少し幅広の獣道といった程度のものなので、これ以上距離が離れるとルーシェたちが道を見失ってしまうのではと考えたのだ。

 ルーシェたちはクレタとドルジに礼をいい、それから新しい旅の仲間を紹介した。ネコは何もしゃべらず、ただクレタの足首に額をすりつけてからテントの隙間に消えていった。

 ドルジが奥に戻ると、クレタはネコの行き先を指さして聞いた。

「あのネコは? 拾ったの?」

「違うよ、母さんの竜だ」

 フォルセティの返事にクレタは、そうなの? と首を傾げながらふたりを火のそばへ連れていった。日が落ちて間もないのでまだ明るいが、このあとはあっという間に暗くなる。

 そこにふたりを腰掛けさせるとクレタもその隣に座り、どちらへともなく尋ねた。

「あのあとどうなったの?」

「逃げた」

 フォルセティの返事はそっけなかった。嘘は言っていないが、大事な部分は端折られている。でもそれにもなにか理由があるのかもしれないと思い、ルーシェも頷くにとどめた。

「追ってきたりは?」

 クレタが問い重ねるが、ルーシェは首を振って答えた。追ってはこなかった。これは予想だが、もし戻りたいと言ってもだめだっただろう。フォルセティはもちろんそう言うだろうし、森の主もきっとそうだ。ルーシェが振り返った森は、彼女を拒絶しているように見えた。


 夕食を済ませて、ルーシェはテントの中に入った。王城のベッドに比べればテントの中の寝心地は決して良くはないのだが、昨晩の野宿に比べれば風はしのげるし、周りで子どもが無防備な寝息を立てているのも彼女を安心させた。彼女はすぐに眠りに落ちた。

 その夢の中で、彼女はひとりで森の中にいた。

 見上げた木々の梢にはたくさんの葉が茂り、それらは青空と混じり合って天を青緑に染めていた。足元はみずみずしい苔に覆われ、根の張る地面の土が覗いている部分からは光を求めるように細い茎が伸びて、その先で薄紫の小さな花がほほえんでいた。

 それでもルーシェはここが、あのノイシュトバルトの森だと思った。何もかもが息を潜めている。

 木漏れ日を踏んで奥に向かった。目の前に大きな——いや、そんな表現では足りないだろう。巨木の、切り株があった。近寄ると切り口は彼女の顔に近い高さにあり、年輪を覗き込むことはできなかった。

 苔生こけむし、青緑の光に染まった、あまりに立派な大樹の骸。ルーシェがどんなに腕を伸ばしても到底抱きかかえられない、とてもとても太い幹。その根はもしかすると森の外まで張っているかもしれないと思わせるほど。

 畏敬の念すら抱かせるそれは、切り倒される前はどれほどの威容を誇っていたのだろう。そっと耳を寄せると、幹の中を水が通る音がした。死んでなお水の道になっている。ルーシェは顔を離した。

「どうだい」と声がし、ルーシェは顔を上げた。

 声の主は切り株に脚を組んで腰掛け、その膝の上で頬杖をついて見下ろしている。つい先ほどまで見えていた苔生した木の肌を、今は彼のマントの長い裾が隠していた。ちらと見えるその内側に果てしない夜空と星が瞬く。ノイシュトバルトか、それともフォルセティ=トロイエか。

「いい森ね」とルーシェが言うと、彼は笑みを返した。

「まだ名を持たなかった僕が初めて訪れたときは、だいたいこういう具合だった」


「名前が森を殺したのね。豊かな森だったのに」

 ルーシェは目を伏せた。それにノイシュトバルトはわずかに首を傾げ、答えた。

「殺したという言葉は不正確ではないかな。名前は森の持てるわずかな命を吸い取り、それを呪いに変えて積み上げ、僕を弱らせた」

 わずか、という言葉にルーシェは違和感を持った。この森は沈黙こそしているが生命力に溢れている。しかし彼女の怪訝な顔に気づいてもノイシュトバルトは説明を加えなかった。仕方なくルーシェはその部分には気づかなかったことにし、先を続けた。

「それで、やがて森が力を失ってくると、名前も呪いに変えるべき力の源を失った。そしてあなたはその一方で、名前の力を自分のものにした。そうじゃない?」

 ルーシェが尋ねると、ノイシュトバルトは組んでいた脚を解いて片膝を上げ、目を細めた。

「名前は、いきものの持つ命の形を変え、あるいは結びつけるための道具のようなものだよ」

 彼は立てた片膝の上に再び頬杖をついた。その仕草はノイシュトバルトというよりフォルセティ=トロイエを思わせる。

 以前ノイシュトバルトは、自分がフォルセティ=トロイエの上位にいるような言い方をしていた。「僕を定義すれば、彼を定義しきることができる」と。しかし本当にそうなのだろうか。彼とフォルセティ=トロイエとは、いびつで不均衡で複雑で未整理の、そういう「ひとつ」の存在なのではないだろうか?

 ルーシェが黙っていると、ノイシュトバルトは膝を下ろし、脚をもとのとおりに組み直して、その上で両手指を組んだ。骨と筋の目立つやせ気味の手だ。彼も口を開かない。少し首を傾げ、ルーシェが何か言うのを待っている。ルーシェはこの数日間をなぞるように思い出し、聞いた。

「あなたは確か、ガイエル王を良く思ってなかったわよね。どうしてなの」

 それにノイシュトバルトは一瞥をくれると「あれを」と顎をしゃくり後ろを示した。この株に気を取られて気がつかなかったが、どうやらここは森の端のほうであるらしい。少し先は開けて、明るかった。

「ここも前はもっと奥まであったんだ。今僕が掛けている、この株が森のぬしでね。それは立派な地竜がここを守っていた」

「あなた以外にも竜がいたの?」

「そうだよ。彼はここに人間が子を捨てにくるので、かなりの人嫌いだったけどね。彼はこの大樹を足がかりに現界していた。きみたちの言い方だと、契約」

「え? 木と?」

 目を丸くしたルーシェに、ノイシュトバルトは眉を上げた。

「そんな芸当ができるのは人間だけだと思っていた? おこがましいね」

 ルーシェはむっとした顔をしたが、ノイシュトバルトは意にも介さず続けた。

「何を足がかりにするかはきみたちが思っているよりずっと自由だよ。竜の側はどういう形で現界し、そして何をしたいかによって相手を選ぶ。人間は器用だが短命なのが難点でね。その点この木は優秀だった。彼は森の主だが動くことができない。だからこの森を守るために彼の手足となる竜を必要としていて、その地竜と利害が一致したんだ。さて——このクラスの大樹になると、それを敬う人間が名前を付けていることがままある。大樹は地竜に、この森を守ることの担保として、己の名を共有するよう言った。地竜はそれを呑んだ」

 ルーシェはその名を問うたが、ノイシュトバルトは答えず続けた。

「とにかくそれによって、その地竜はこの木と運命を共にすることが定められたわけだ。そしてタイガはこれに目をつけた。彼は森を焼いた。大樹は怒り狂った。地竜に森を守れと叫んだ。しかし地竜にはどうしようもない。彼も炎を鎮めることはできないからね。結局、延焼を食い止めるため、人間は森の木を切った。その中にはこの大樹も含まれていた。さきの条件によりきみたちの秩序に捕らわれていた地竜も、大樹と共に死んだ」

 ルーシェは言葉もなかった。彼女が黙りこくっていると、ノイシュトバルトは周りを見回し、それから再びルーシェに目を落とした。

「森は半分くらいが焼失し、主と守り手を同時に失った。焼失を免れた部分もかなり煙と熱にやられてね。その結果どうなったかはきみが見たとおりだ」

「そうだったの」

 ルーシェは目を伏せた。檻のように感じられたあの森の木々が今は墓標のように感じる。

「そうしてこの森は主を失い、守り手を失い、名をも失った。『地に満つる喜び』というその名と、森の本質とが乖離してしまったからだ」

「あなたが封じられたのは、そのあとね」

 ノイシュトバルトが目を細めた。ルーシェは「今の話に、あなたとクレタのお母さんのことは出てこなかったわ」と続け、話の先を促した。渋るだろうかとも思ったが、ノイシュトバルトの返事は淀みなかった。

「僕がここに居着くようになったのは、森が焼かれたあとだからね」

「でも、居着く前からここのことは知っていたのでしょう。魅力も感じていた」

「そのとおり。だが僕はその地竜に敬意を払っていた。だから彼の庭を荒らすようなことはしていない」

「だけどあなたは結局この森にいる」

「僕が仕組んだことだとでも?」


 ルーシェはしまった、と思った。気分を害したかもしれない。あちらがその気になれば到底敵う相手ではない。しかしノイシュトバルトは不敵な笑みを浮かべただけだった。

「残念ながら違うよ。僕が魅力を感じたのは単なる土地ではなくて、そこに育っていた豊かな森の誘引力だ。それを焼け焦げさせてまでここを縄張りにしようなんて本末転倒だろ」

 内心安堵のため息をつきながら、ルーシェは問いを重ねた。

「……では、クレタのお母さんはどういう関係があるの」

「イヴァレットではないよ。その母親だ。彼女はさっきのきみと同じ疑念を抱いた」

 ルーシェは息を呑んだ。きっとここからノイシュトバルトは、誰も知らない話をする。

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