4 / 虫のあるじ

 ルーシェとフォルセティを残し森を先に出たクレタたちは、その頃彼らの目的地、「シオン」と呼ばれる地域に差し掛かっていた。

 アドラやファルケといった大国とは比べものにならないが、それでも国を作ってよいと差し出された場所だから、それなりの広さがある。大陸から突き出た半島の先端を領有するに過ぎないユーレと比べれば、むしろ広いくらいだ。というよりユーレは特別小さな国である。

 そんなわけで、いずれ彼らの「国」となるかもしれない地の端で日の入りを迎えた一行は、その晩をそこで明かすことにし、テントを張り始めた。もうしばらくは明かりがあるが、この先まで進んでしまうとテントの支えにしやすい木々がまばらになってしまうのだ。

 彼らが得たのは、よく言えばひらけた、悪く言えば何もない土地である。とは言え地下を水脈が通り、耕せる土もあるから、暮らしていくのにさほどの不自由はない。これから土地を育てていくこともできるだろう。だからこそ、流浪の生活よりこちらを選ぶべきだと主張するものもあるのである。


 彼女ひとりのため特別に張られたテントの中で、シルカ(を装うクレタ)はもと来たほうに目をやった。もちろんそこにはテントの布があるだけだ。しかし彼女の片目は「見えないものを見ることができる目」だ。

 ルーシェたちはどうしているだろう。彼女は旧律の短い一文を口にしながら目を細め、ふたりの様子を探ろうとしたが、それは叶わなかった。竜の虫の目を借りるそのわざはもともとさほど鮮明な像を結ぶわけでもないが、今日は格段にもやがかかっている。それも、無理に触れようとすれば指先が凍てつくような漆黒の靄が。

「あの竜ね」

 ため息とともに漏らした彼女は、そばの別の虫を手招きした。ふだんは馬の背の上で一行を寒さから守っている、テラスと名付けた花虫だ。まだルーシェたちに見せたことはない。もっともフォルセティはかつてその音を聞いたことがあるはずだ。彼の母親、ユーレのサプレマがそう言っていた。

 竜の虫との契約のしかたは、シルカとクレタとがまだ母のもとにいるとき、母に教わった。テラスと契約したのはそのときだ。シルカも何か虫を決めていたようだが、今となってはそれがなんの虫だったか、名前がなんだったかも思い出せない。彼女はその虫をすぐに手放してしまったからだ。一方クレタはそのとき契約した虫を今でも連れている。虫の数は増え、今では三匹を数えるようになった。

 クレタは静かにテントの裾を上げテラスを外に出した。それはすぐに濃紫に白い星の粒が散る夜空の下、来た道をルーシェたちのほうに向かって飛んでいった。


 一方ルーシェとフォルセティは、森を出てすぐのところにいい加減な寝床を用意してから夕食の準備を始めていた。

 ルーシェは、あんな雰囲気の中で夕飯のことなど考えてもいなかったのだが、フォルセティはしっかり空腹を訴え、その場の土に何か種を埋めゴニョゴニョと呪文を唱えると(そんな行為が本当は必要ないことなどルーシェにだってわかっている)、収穫した豆と野菜に持ち歩いている香辛料だの調味料だのを入れて適当に温め、なんだかよくわからないスープのようなものを作り上げた。

 そうして膝の上に器を置き、並んで食事をしているうちに、先ほどまでのなんとなく気まずい空気もだいぶ薄れてきた。食事の力——というより日常の力と言うべきか——はすごい、とルーシェはつくづく感じた。おそらく、とうのフォルセティはもっと素直な理由からこの時間を持っただけで、そこまでは意図していなかっただろうけれども。


 赤いスープの中には数種類の豆のほかに、厚めの葉野菜を巻いたものが転がっている。少し酸っぱいが、火を通したそれはしっかりと体を温めてくれた。

 ルーシェは、知らないうちにずいぶん体が冷えていたのだなと感じ、空を見上げた。凍てつくというほどでもないが、星のひとつひとつからきんと冷え凛と締まった夜気が降りてくるような気がして、思わず背筋が伸びた。

 そのまま後ろを振り向く。ノイシュトバルトの森が眠っている。暗くなってから見るそれは、竜の巨体が真っ黒な骨格を横たわらせているかのようにも見えた。

 オトはまだ森の中にいるのだろう。戻ってくるだろうか。

「ねえ」

 ルーシェはスプーンを置くと隣のフォルセティに話しかけた。

 なに、と返事をした彼は火にくべた鍋から早々と二杯目を迎えている。食べるのを止めそうにもない彼に肩をすくめ、ルーシェは別に、と頭を振った。

「なんだよ、気になるだろ」

「先に食べて。食べ終えたら話すから」

「食ったら寝るよ」

 ルーシェはため息をつき、器を横に置きながら言った。

「オトがついてきてないのよ。さっきノイシュトバルトと話したときに、そのまま置いてきちゃったみたい」

「え?」

 フォルセティの口許から豆がすべり落ちた。ルーシェは眉を寄せたが、彼は跳ねた汁を拭い、もう一度「え」と先を促した。

「だから、ついてきてないのよ。さっきノイシュトバルトから逃げたとき、たぶんそのまま。だからまだ森の中にいると思う」

「呼んでもだめなの?」

 呼ぶ、とルーシェが繰り返すと、フォルセティは急いで器の中身を掻き込み空にしてから横に置き、立ち上がった。

「オトはルーシェと契約した虫だろ、だから呼んだら来るはずなんだよ。ごくまれに他人の虫を奪い去る趣味の悪いやつもいるけど、そんなことができるのは本来の主以外は本当に一握りだ。さっきのアレがなんの竜なのかは俺にはわかんないけど、でも少なくともオトの主になるようなやつじゃない。だからたぶん、呼べば来るよ」

「どうすればいいの」

「だから呼ぶんだって。普通に」

 それらしい呪文のようなものを教えてくれるわけでもない。どうにも要領を得ないという顔でルーシェは息を吐くと、森のほうを振り返り呼び掛けた。

「オト、おいで」

 森は応えない。一呼吸置いて、すうと冷たい風が吹いてきただけだった。

「だめじゃない」

 ルーシェは口を尖らせた。やはり何か呪文なりなんなりが必要なのではないかと彼女は続けようとしたが、どうやらそうではないらしく、フォルセティは首を傾げてしまった。

「あれ? もしかしてほかの竜でもいたかな」

「どういうことよ」

「オトは吹虫だから主は風竜なんだ。だから風竜が近くにいたら、そっちに乗り換えちゃうことがあるんだよ。そっちがもともとの親玉だからね」

「でも、そんな近くに別の竜がいたら、あなたはわかるんでしょ?」

 まあな、とフォルセティは首の後ろを掻きながら答えた。

「だけど例えば俺たちのあとから来たやつがいて、さっきの森の中で俺たちに追いついたりしてれば気がつきようがないよ。俺も余裕なかったし……」

「あとから来るってなんなの?」

「なんで怒ってるんだよ。誰がどこに行きたいかなんか俺の知ったこっちゃない」

「怒ってるんじゃないわよ、心配してるの。森を出てから私たちここでグズグズしてたけど、あなたはその竜が私たちを追い抜いていったの見てないんでしょ?」

 フォルセティは首を傾げ、「そうだな」と呟いた。ルーシェはたたみかけるように続けた。

「でしょう。でも私、ノイシュトバルトが自由自在に操るあの森に他の竜の滞在を許すとは思えない。だとしたらその竜は今私たちの後ろにいて、でも私たちを追い抜きはしなくて。それって同じ方向に向かってたっていうより『追いかけてきた』っていうんじゃないの?」

「あ……」


 ほんとだやばい、とフォルセティは呟いて腰の後ろに手を回した。彼の得物の固定位置だ。しかしその目は森の端から離れない。ルーシェも彼の見るほうに目をやった。

 森がひそひそ話でもするかのようにざわめいた。梢の擦れるかすれた音が降ってくる。見上げた空から星が消える。遠くから集められた厚い雲が、渦を描きながら森に吸い込まれていくのが見える。

 森が膨らむ——ルーシェは目を見開いた。一番高い木の上で、空から落ちてきた星が弾けた。彼女は咄嗟に半身を引くと、ぎゅっと目をつぶった。


 フォルセティの声がした。気の抜けた声だ。

「なあんだ……」

 ルーシェはおそるおそる目を開いた。すっかり暗さを取り戻したそこには、これまでと変わりは何もなかった。不安げな顔で横を見たルーシェに、フォルセティは肩をすくめた。

「ルーシェの言うとおりだった」

「何が?」

「追いかけてきてたんだ」

 目を見開いたルーシェは今一度前を見たが何もいなかった。見上げても何もない。

 下だよ、と言われて彼女は足もとに目をやった。ばさばさと音がする。暗さにまぎれてしまってよくわからないが、鳥の羽ばたく音だ。

「オト?」

 音のするほうに声をかけると、羽ばたきの音が耳元に移った。そしていつもの場所に収まる。ルーシェは手を伸ばしてその頭を撫でた。あたたかい。

 しかし彼女に見えるのはオトだけだ。誰かが追いかけてきたというなら、それはどこにいるのだろう。上にはいなかった。空は今はもとのとおり雲のない星空で、足元はほぼ闇だ。

「私には見えないの?」

 ルーシェは少し落胆しながら、改めて周りを見回した。しかしフォルセティは返事をせず、足下に向かって「意地悪すんな」と声を落とした。途端に暗闇にふたつの金に光る目が浮かび上がった。黒猫だ。さっきまでしっかり閉じられていたのだろうが、今ははっきり見える。

 黒猫は、にやあん、と妙にねちっこく鳴くと、ルーシェに向かって片目とバチンとつぶってみせた。

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