3 / ノイシュトバルトの森

 フォルセティはルーシェの手を引いて一目散に森を抜けた。ノイシュトバルトは涼しい顔でふたりを見送っただけで、特段追ってもこなかった。

 そこから森の端まではさほど遠くなく、天からの光が梢ごしではなく地面に直接落ちる場所に出るまで、ふたりはほとんど立ち止まらなかった。もっともルーシェは普段それほど走り続けることなどないから、そこにたどり着いたときにはぜえぜえと息を切らしてその場にしゃがみこんでしまったし、フォルセティも掛けるに十分な大きさの岩の上に腰を下ろしてがっくりとうなだれてしまった。

 このあたりは少し大きめの石が転がる中に、いくつか切り株も見える。日当たりは森の中よりいいはずなのに、足元にはまばらに草が生えているだけの、荒れた場所であった。


 少し落ち着いてきた頃、ルーシェはよろりと立ち上がり、後ろを振り返った。

 今抜けてきた森がある。「ノイシュトバルト」と名付けられ、言霊の竜が封ぜられた森が。

 その名は森であり、竜であり、同時に呪いでもある。ルーシェは来しかたに目を凝らしたが、もはや何も見ることはできなかった。外から見た森は、中にいて感じるよりもずっと暗い。闇が自分を拒絶しているようだ、と彼女は思った。

 ルーシェはため息をつくと、いつもの足取りでフォルセティに近づき、その隣に腰を下ろした。彼はまだうなだれている。息はもう落ち着いているから、顔を上げられないのはそれが理由ではないだろう。推測はできたが。

「血が上りすぎよ」

「ごめん」

 フォルセティは顔を上げないまま、蚊の鳴くような声で答えた。ルーシェは肩をすくめた。もう少し言葉をかけようかとも思ったが、うまい台詞も思いつかなかった。

 彼は適当で、大ざっぱで、細かいことは気にせず、いつもへらへらしていて、でもそれはきっと「手に負えない問題を上手に諦めていける」という意味では大人だということなのだろうな——これまでの道中で、ルーシェはなんとなくそう思っていた。しかしどうやらそういうわけでもないらしい。彼とて激昂することがあるのだ。それも、ルーシェには必ずしも理解や共感をしかねる理由で。


 冒涜だ、と彼は言った。見習いとはいえ聖職者の端くれである彼の目には、ノイシュトバルトの行為はルーシェの感じたふうとは違うように映ったのかもしれない。しかも利用されたのは、彼が名前を引き継いだ男である。

 しかしやはりルーシェには、あのフォルセティ=トロイエがノイシュトバルトの演技だとは思えなかった。彼の体を持ち、その知識と経験をすべて持ち、それに基づいた判断をするものがあるのなら、それはやはり彼そのものである、とルーシェは思う。いかにその背後にノイシュトバルトが控えており、その存在がフォルセティ=トロイエがそこに「在る」ための条件となっていても。

 一度、人間としての生を終えたという事実にこだわるのは、ノイシュトバルトをはじめとする竜の関わる場合、異なる秩序に己の秩序を持ち込むものでナンセンスだ。こう考えるようになったこと自体がノイシュトバルトの影響なのだろうかと思うと、自分の考え方にルーシェも必ずしも自信は持てなかったが——それでも今の彼女は、ノイシュトバルトを敵だとか、自分を都合よく利用しようとしているだけだとか、それほどまでに毛嫌いする気にはなれなかった。かといって好意を持っているわけでもない。

「認めている」というのが、しっくりくるような。ルーシェはフォルセティに目をやり、もう一度前を向くと足元を見つめた。


 フォルセティが大きく息を吐いたので、ルーシェはそちらを見た。彼もじわりと顔を上げルーシェを見た。必然的に視線がかち合うことになり、憔悴した彼を目の当たりにしたルーシェは少し慌てた。

「大丈夫?」

 ルーシェが尋ねると、フォルセティは「うん」と返したが、再び前を向き、両手で額を覆うようにして情けない声を出した。

「あー……」

 それは急にいつもの彼を思い出させるものだったので、ルーシェは内心ほっとしながら聞いた。

「何よ」

「言い訳してもいい? いや、させてほしい。お願いします」

 ルーシェは頷いた。フォルセティは気持ちを整えるように息をつくと顔を上げ、背筋を伸ばしてからもう一度息を吐いて口を開いた。

「俺さあ、ナイト・フォルセティ=トロイエの墓には、母さんについて毎月通ってたんだよ。あの人は身寄りがなかったから、そういう人が集めて弔われてるところがあって。通う人がいないから、サプレマが赴くことになってて」

「そうなの」

「うん、で、たまに父さんも来てさ。というか父さんはひとりでも行ってたと思う、たぶん俺や母さんより行ってる。俺は父さんとフォルセティ=トロイエの間の話はじいちゃんから少しだけ聞けたけど、だからこそ父さん本人が何も話そうとしないのがさ。軽々しく触れちゃいけないというか……あの人は確かに過去の人だけど、でもその人がいたから今の父さんがいて母さんがいて俺が生まれて、そういう歴史として絶対に、動かせないし、動いてほしくないとも思う。それだけの重みを持った人なんだよ」

「なんとなくわかる気はするわ」

 自分だってもし仮に、祖父イスタエフとの愛を選んで風の民と決別した祖母が、そのままユーレにとどまり死去したと聞かされていたとしたら。それならやっぱりあとから「風の民に戻って生きていました」などとは言われたくないだろう。自分の中の祖母や、それに関わった祖父、その娘であるルーシェの母が汚れてしまう気がするからだ。

 しかし、だからと言って。本人が現れたらそれを否定することができるだろうか。ルーシェは口を開きかけた——が。

「あいつはフォルセティ=トロイエを名乗った?」

「ええ。ノイシュトバルトと入れ替わったときに」

「俺はそれが許せなかったんだよ。俺にとってそれだけの重みを持つ人を、ルーシェに近づくためだけにかたるというのが」

 ルーシェはちくと違和感を覚え、少し首を傾げて考えてから答えた。

「騙ってたわけじゃないと思うわよ」

「どうして。確かめようがないだろ? 生前に会ったわけでもないんだから姿形や顔だってわからないんだし、なにより遺体は火葬されたから、もうナイト・フォルセティ=トロイエの体はこの世には存在しない。いるはずがないんだ」


 あ、とルーシェは声を上げた。

 そうだ。フォルセティ=トロイエの外見などルーシェが知るわけがないのだ。彼女が彼をフォルセティ=トロイエだと思ったのは、ノイシュトバルトに初めて会った日の前の晩に夢を見たからだ。しかしその夢に出てきた外見が、真実フォルセティ=トロイエと一致しているかなど、どこにも保証はないではないか。

 それでも。何がひっかかるのだろうとルーシェは一生懸命考え、ようやく思い出した。

「青い本」

「は?」

「あの人は、あの本の落書きはもともと青いインクで書いたと言っていた。今は褪色して全然違う色になってるけど」

「そんなのインクの変色についての知識があれば誰でも言えるだろ」

「じゃあ、あなたにはその知識があったの?」

「ないけど? でも俺は関係ないでしょ?」

 少しむくれて答えたフォルセティに、ルーシェは頭を振った。

「そうよ、そうなんだけど。でもそこまで疑う理由も私にはわからないの。確かに、自分の中のその人を汚される感じがして嫌だっていう気持ちは理解できる気はする。でもその人が、もしかしたら自分の意思じゃなく、まだ死ぬことを……いえ、正確には『消えること』と言うべきね。それを許されていないとしたら? 彼が、そうね例えば、亡霊ならば?」

 フォルセティは口を尖らせて答えた。

「体があったら亡霊じゃないじゃん」

「竜はプライアと結ぶことで器たる体を得るのでしょ」

「それはぁ、そうですけどぉ……」

「確かに信じられないことよ、私にだってどうしてってところはわからないけど。でも、全く同じ知識と記憶を継承する何かが存在し続けているときに、その人なりものなりは、死んだ、消えた、二度とない。今いるのは別のものだと言いきってもいいのかしら」

 ルーシェはそこまでは言葉を選び、最後はまっすぐフォルセティの顔を見て言った。

「違うと確定できるまでは、私は信じたいの。嘘つきと決まるまでは正直者と思いたいのよ」

「ルーシェは人がすぎるよ」

 ため息混じりに頬杖をついたフォルセティに、そうかしら、と彼女は肩をすくめた。


 自分の言いたかったことがどこまで伝わっているのか、ルーシェにはわからない。ともあれ、フォルセティにはルーシェの考えを強硬に否定する気はもうないようだったから、彼女はそれ以上言い募ることは、やめた。

 しばしの沈黙のあと、さて、とフォルセティが立ち上がりながら聞いた。

「どうする?」

 ルーシェは何をかと聞こうとしたが、彼の見ているほうに目をやれば答えはわかった。

 シルカたちの姿は確認することができない。ルーシェたちが森にいた時間は体感よりもずっと長かったようだ。これからシルカたちに追いつこうとしても途中で日が暮れきってしまうだろう。ここは森の切れ目だ。シルカたちもなぞったであろうわだちの跡を目でたどっていくと遠くには木立が見えたが、そこまでは荒涼とした平地で、身を隠す場所はなさそうだった。

 今日中に追いつくのが無理なのなら、日が残っているうちに夜明かしの準備をしたほうが安全だ。ルーシェを見下ろしたフォルセティは、彼女が降参するかのように両手のひらを見せてきたのに肩をすくめ、彼女に背を向けると森のほうへ歩いていった。


 たぶんそれは、ちょうどいい茂みを探すためだったのだが——ルーシェはため息をついた。

 どうにも居心地が悪い。ふたりでいることには最近はわりと慣れたが、今日はついさっき、普段と違う彼の様子にうろたえてしまったので。

 そういえば。はたと思い出し、ルーシェは立ち上がると周囲を見回した。

 いない。彼女は眉を顰め、森の奥に目を凝らした。しかしそこに姿を認めることはできなかった。ひとりで探しにいくわけにもいかないが、フォルセティは森の中に戻ることに同意はしないだろう。

 森を走り抜けたときに置いてきてしまったのだろうか。ルーシェは目を伏せた。

「オト」

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