2 / 呪詛と祝福
「王に」
ルーシェは眉を寄せたまま復唱し、一度視線を落としてから顔を上げた。
「私はそんなものになりたくはないし、第一、私はこの地のものではないし。だからそれは無理よ」
首を振ったルーシェに、そうかな、とノイシュトバルトは愉快そうに笑った。
「この地を統べるのは、この地のものでなければならない?」
「必ずしもそうではないでしょうね。ただ私は嫌。名前だけで選ばれた王なんか、薄っぺらで。それだけじゃきっと人々はついてこない。血筋だけで選ばれる王にさえそう思うもの」
いずれ自分が継ぐかもしれない、母の背を見て思ったことだ。その血を引いているということにどれだけの価値があるのか。期待に応えられるだけのものが自分の中にあるのか。最近とんとご無沙汰だった、しかし出国前はときどき考えていたそんなことを不意に思い出し、ルーシェは言い訳のように言った。
「善悪でも正誤でもなく、好き嫌いの問題よ」
ノイシュトバルトが目を細めた。ルーシェは今、慎重に言葉を選びながら話している。隙を見せれば揚げ足を取られ、即座に丸め込まれる。
ひるんだら負けだ。ルーシェは唾を呑み込んだ。フォルセティが訝しげな顔でルーシェを見た。蚊帳の外か内か、彼自身にもわからないのだ。ノイシュトバルトはそれに一瞥すらくれなかった。
「きみは王を、人を統べるものと考えてその結論に至った」
「そうよ。人には地を統べることはできない。人が統べることができるのは人だけで、だから王もそう」
「では地を統べるのは?」
「そんなものはないんじゃないかしら」
「きみは無神論者だったかな」
ノイシュトバルトは楽しそうにフォルセティを見た。聖職者である彼はなんとなく落ち着かない顔をしていたが、ルーシェは気にも留めずノイシュトバルトに答えた。
「たぶん違うと思う。信仰と呼べるかはわからないけれど、大地と水と、風の竜に毎日感謝は捧げるし、それを神と呼ぶこともあるもの。でも、私は彼らが、私たちのことを気に掛けているとは思わない。彼らがどういう存在であるかは、それぞれの想像や期待でしかない」
しばしの無言。ノイシュトバルトは目を細め、にやと笑った。
「なるほど。では彼は?」
ノイシュトバルトが顎で指したのはフォルセティだ。彼は慌てて表情を引き締め、ノイシュトバルトを睨んだが、ノイシュトバルトはルーシェに問うただけだった。
「彼は次のサプレマだろう。きみの言うところの神である竜と交わりを持ち、その
「力を道具として借り、使うことはできるでしょう。でもそれは神自身が応えたのとは違う。人の都合に合わせていいように働く神など概念としておかしいわ。たまさか人の祈りと神の
ルーシェはわずかに首を傾げた。これで返事はすべて。ノイシュトバルトの返答を促す仕草だ。それにノイシュトバルトは声を上げて笑った。朗らかですらあったが、それでもフォルセティ=トロイエではない。
「実におもしろい。きみとは長く楽しめそうだ」
「私は遠慮したいわ」
「そうだろうね」
ノイシュトバルトが腕を組み直す。彼はそのとき下を向いたので、ルーシェはようやく彼の視線から解放された。思わず安堵のため息をついた彼女は刹那、しまった、と思ったが、ノイシュトバルトは顔を上げなかった。そのまま言葉を拾いながら少しゆっくり話す。
「コード。あるいは旧律だったか。きみたちが『神』との交渉に使う言語につけた名称は」
「使えるほどの知識を持つのは、今はプライアと風の民くらいだよ」
フォルセティが答えた。ノイシュトバルトは顔を上げぬまま視線だけそちらに向け、またすぐに戻した。
「廃れてしまったものだね」
ノイシュトバルトの声にはこれまでとは違い、影が差しているように聞こえた。ルーシェは眉を寄せた。それに応えるように彼が顔を上げたので、ルーシェは思わず背筋を伸ばした。
「そうだな。仮にそれを『言霊』と呼ぶことにしよう。言霊は本来、誰にでも使える力だ。相手に語りかけ、その内面に影響を与え、小さな波紋がさざなみとなり大きな波になるように、本人も無自覚のうちに導いていく。しかし人間は懐疑的なんだね。特別なものでなくても、特別な道具がなくても使える力などというものを信用しない。あるいはその価値を見誤る。即物的でわかりやすい経済力や武力がもてはやされる時代には、その重要性は見失われる。そしてその時代が続けばいずれ訪れる、誰もに忘れ去られたそのときに、言霊の竜は死ぬんだよ」
ノイシュトバルトの口振りにこれまでのような尊大さはなかった。
「使い手が
ルーシェは唾を呑んだ。うまく言葉を選ぶことができなかった。
ノイシュトバルトは生前のフォルセティ=トロイエに呪詛を放った——かつてフォルセティ=トロイエの話を聞いて、少なくとも彼女はそう認識した。でも、それこそが彼にとっては『呪詛』なのだ。彼に対する認識が、彼を変質させる。たとえ彼自身はなんら変化していなかったとしても。
「本題に戻ろうか」
その言葉でルーシェは我に返り、いつの間にか俯いていた顔を上げた。彼のその声はこれまでとは違い、とても柔らかかった。ルーシェは素直に頷いた。
「人間が最初に他者から与えられる『認識』は、名前だ。以後そのものはその名で識別されるようになる。そしてそれはそのものと一生を共にする。そのものの生き様に名は光を与え、一方その生き様は名に重みを与える。名は、その者の一生、あるいは命といってもいい。それと唯一、対等な重みを持つ言葉だ。どういうことかわかるかな」
「名前の持つ力は、とても強い……」
呟くように答えたルーシェに、ノイシュトバルトは「そう」と、満足げに答えた。
「名前を持たなかった僕が、名前に封ぜられたようにね。そしてその名自体も、僕という存在と結びつくことによって力を得た。森は衰えた。土も、水も。すべて『無音の闇』に還ろうとして」
「じゃあ、私の場合はどうなの?」
フォルセティがちらとルーシェを見た。ノイシュトバルトの手管にどうにかして水を差したかったからだが、ルーシェはそんなことに気づきもしなかった。あの日アルファンネルにその名を簡単に伝えてしまったレヴィオのように。
「私の名前は」
ルーシェが言いかけると、フォルセティが遮るように大きく息を吐いて答えた。
「シャルテッサは『金の原』だよ。実り多き肥沃の大地を約束する。『銀の海』、ウルヴェリオと対になって、完全な豊穣の世界を表す。名前は名前というだけで、強い力を持つ。強い力を持った言葉を土地に封ずることで、その土地はその名の力を得る。ルーシェを王に据えれば、この辺の大地は力を取り戻す。あいつの言っているのは、そういうことだ」
ルーシェは瞬きをした。ノイシュトバルトは澄ました顔をしている。
自分の名前の意味くらいは知っていた。しかしそれだけだ。言葉そのものの力など考えたこともなかった。「名前だけで選ばれた王なんか」。さっき自分はそう言った。今はその言葉が、浅はかだった気さえしている。
自分が「王」に据わるだけで。そう考え、ルーシェは周囲を見回した。
黒く、暗く、枯れた森だ。ノイシュトバルトの言うとおり自分が王となったら。この森は緑萌え命の息吹に溢れる場所になるのだろうか。これまでたどってきた陰気な曇り空の色の土地も、草が風にそよぐ美しい金の原になるのだろうか。そうなったらどんなにか素晴らしいことだろう。人ではなく、土地を統べる王に自分が——
口を開きかけたルーシェを、フォルセティが制止した。
「しっかりしろよ。あいつは自分にかけられた名前の呪いを弱めたいだけだ」
「あ……」
「ルーシェがここの『王』になれば、そりゃあ多少はあいつの言うような恩恵もあるだろうさ。でもあいつに、そんなことをしてなんの得がある? あいつはこの辺りの住民の代表でもなんでもないはずだ」
「そうだけど、でもここで暮らしているのよ」
「なぜ?」
咎めるような目で、フォルセティがルーシェを見た。
ルーシェははっとした。そうだ。彼がここにとどまるのは——あるいは、とどまらざるを得ないのは、なぜか。
ここが『金の原』になれば、そうして『無音の闇』を駆逐すれば、フォルセティ=トロイエに結びつけた鎖はついに引き千切られ、この森に封ぜられた名は力を完全に失うだろう。そのときこそ彼は真実、自由になるはずだ。そして彼は何をする? この時代では——この時代のままでは、言霊の竜にいずれ死が訪れると言った彼は。
「あいつはルーシェに『はい』と言わせなければならない。そうすればあいつはルーシェの名前の力を意のままに利用できるからだ。でも、その承諾がなければあいつは無力だ。あいつにとっては言葉の持つ力がすべてで、そしてあいつ自身はまだ『ノイシュトバルト』に縛られているから。よく考えろ」
ルーシェはフォルセティを見た。その顔は険しい。怒っている。初めてそんな顔を見た。その怒りはルーシェに宛てたものではない。彼は言葉を止めなかった。
「あいつは契約相手を持たない。でも実体がある。それは死者の体が、その灰が、土に還り安らかに眠ることを許さなかったからだ。俺の知る限りどんな竜だってしたこともない暴挙だ。『フォルセティ=トロイエ』は死んだ。あいつはその死を弄んだ。残っていた記憶を都合良くいじくりまわして、あたかもあいつとは違う人格が、あいつのことを知っているように見せかけ、自分に都合の良い情報をルーシェに仕込む目的で、死者の体も知識も思い出までも利用し冒涜した。全部ルーシェに近づくためだ!」
強い口調にルーシェがたじろいだ。梢がざわと鳴った。
ルーシェの腕をひっつかみ、フォルセティは走り出した。
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