第6章

1 / 言霊の主

 驚いて聞き返したドルジにシルカは、ふたりを置いて先に行くと繰り返した。

 ドルジはこの部族を代表し、女王デュートからルーシェを預かっている。いかに道中の安全を保障できないことを念押ししたとはいえ、さすがに置き去りにはできない。彼は反対したが、シルカはともかくルーシェ本人もが譲ろうとしないので、最終的には折れるしかなかった。彼はフォルセティの背中を叩いてから、手を挙げ一行に指示をした。

 前方からゆっくりと進みだす。シルカの籠を乗せた馬にその動きが伝わる前に彼女は戻らなければならない。シルカは、涼しい目で一行を見下ろしているノイシュトバルト——今年は「エリトデルオーマ」を睨みつけてから、身につけていた飾り紐を一本引き抜いてルーシェの腕に巻いた。

「幸運を」

「うん。皆も気をつけて、またすぐ追いつくから」

「この先は一本道だから、できるだけゆっくり進んでおくね」

「ありがと。必ず行くわ」

 シルカはルーシェの手を取り祈るように両手で握った。それから彼女は踵を返し、前足を踏み出そうとしている馬のあぶみに足をかけると、ひらりと籠に乗り込んだ。


「さて」

 風の民の最後尾が木々の陰に隠れて見えなくなってしまうのを確認してから、ルーシェは腕を組み、ノイシュトバルトを見上げた。

「用を聞きましょうか」

 竜は肩ならしをするように少し首をひねった。大きな翼がばさばさと音を立てた。口を開く。尖った歯が並んでいるのが見える。その見てくれは優雅とはほど遠い。声はどこから出ているのだろう。その口から人間と同じ声が聞こえるのはルーシェには違和感があったし、竜もルーシェのその違和感には勘づいているはずだ。だが彼はそれを無視した。

「きみたちに協力してほしいことがあったものでね」

 ノイシュトバルトはそう言いながら視線をずらした。その先にいたフォルセティは怪訝な顔をした。竜は目を細めた。人のように表情豊かとはいえないものの、やや口端を上げたように見える。

「そう、きみもだ。改めて、初めましての挨拶をしなければならないね。僕はノイシュトバルト」

 竜は会釈をするように首を曲げた。フォルセティは思わずつられて会釈を返したが、はっと我に返り、ルーシェの前に進み出た。

「さっきも言ったとおり、俺はあんたがルーシェに害をなすかだけ確かめられればいいんだ。俺たちに何か要求するなら先に、それだけ答えてくれないか」

「きみのようなわかりやすい人間は好きだよ。そうだね、害をなすつもりはない。ただ、きみたちの動きによってはきみたち自身が害を招くことはあり得る」

「それは、そういう行動を要求しようとしてる、と取っても?」

「結論を急ぐと逆に遠回りになることもあるんだよ。フォルセティ」

 竜は静かにそう言い、長い尾をゆっくり大きく振ると左の翼を繕い始めた。


 彼の翼は三双あるが、それは虫の翅のように透けた薄いもの、鳥のように羽根に飾られたもの、コウモリのような膜の張ったものとすべて異なる。見上げた頭の二本の角はそれぞれ透き通った鉱石と鹿のような角であり、長い首には鱗のほかに柔らかそうな毛も生えている。鱗と鱗の間にはぽろぽろと金属のような粒が見えた。足は猛禽に似ているが、尾には魚のひれ。改めて見ても異様な姿であった。あらゆる動物と同じで、しかしどの動物とも違う。

 同であり、同時に異だ——あのときも彼はそう言った。ルーシェはフォルセティの頭越しに見えるノイシュトバルトの角の先から、ゆっくり数えるように視線を下ろしていった。それに気づいたのか、竜は長い尾をぐるりと前に回した。尾は根元から二股になっていて、魚の鰭に見えたのはその片方だけだった。

 彼は長い首をしならせ、フォルセティの顔を覗き込んだ。フォルセティは身じろぎもせず左手を後ろに回し、ルーシェに示してみせた。ルーシェはその指示に従い二歩下がったが、竜は気に留めた様子もなかった。

「タイガのせいでこの辺りは以前の豊かさを失ってしまった。だがフォルセティ。きみの協力があれば、元に戻すことはできるんだよ。きみは地竜を譲り受けただろう? 彼はきみのご母堂との絆が一番弱かったからね」

 わけを知ったような物言いだったが、フォルセティはやはり微動だにしない。彼の表情はルーシェのいるところからではわからなかった。竜は続ける。

「そしてルーシェ。完成させるにはきみの協力が必要だ。僕を封じるとともに『ただ無音の闇』、ノイシュトバルトと名を与えられてから、この森は色を失った。タイガはそれを利用した。この周辺や、この先の地、シオンは遠からず枯れ果てる。戻すためには新しい名が必要だ。新しい名を持った主を迎えることで、この地はその名の力を得る」

「新しい名」

 ルーシェは呟きながら眉を顰めた。フォルセティがようやく口を開いた。

「『シャルテッサ』だよ、ルーシェ」

 ルーシェの名は兄の「銀の海ウルヴェリオ」と対をなす「金の原」だ。旧律で名付けられ、幼い頃に占い師アルファンネルがその意味を言い当てたもの。

「主を迎える?」

 ルーシェは眉間に皺を寄せたまま聞いた。ノイシュトバルトが首を上げ、ふたりを見下ろした。竜は緩やかに口を開いた。静かな声だ。

「僕の要求を言おう」

「ルーシェ、聞くな!」

 フォルセティが叫び、ルーシェは思わず後ずさった。


 瞬きをする間に視界が暗転した。木々の間から差し込んでいた薄日も、梢が落とす影も、舞い上がる落ち葉も見えない。ルーシェは辺りを見回した。ノイシュトバルトが見えない。フォルセティも見えない。

「フォルセティ?」

 ルーシェは一歩踏み出した。足元に枯れ葉を踏みしだく感触がある。しかし音はしない。なんの音もない。風の音も、翼のこすれる音も。不安が彼女を襲った。音がない。光もない。ひとりだ。後ろを振り向いた。オトは? フォルセティが彼女にくれた竜の虫。さっき後ろの木に止まっていたはずだ。

「オト」

 彼女が呼ぶと、頬に風と、次いで羽根のあたる感触がした。肩に何か乗ったが、姿は見えない。

 見えないが、いる。見えないだけ。聞こえないだけだ。無音と闇に上書きされただけで、もとの世界が消えたわけではない。ルーシェは自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。

 恐れることはない。きっとそれはノイシュトバルトの思うつぼだ。ルーシェは意を決して暗闇に踏み出した。三歩目で何かにぶつかった。腰の高さのあたりを手探りする。目的のものを見つけた。彼女はそれを思い切り握った。その先の指が一度こわばり、彼女の手を握り返すのがわかった。ルーシェはつま先立ちで、少し前のめりになりながら大声を上げた。

「大丈夫。いるわ」


 霧が晴れるように闇が消えた。ルーシェはフォルセティの手を握っている。フォルセティは肩ごしに彼女を振り返り、心底ほっとした顔をした。

「良かった、離ればなれになったかと」

「ずっと後ろにいたわよ。数歩離れてただけ」

「いや、危なかったんだ」

 ルーシェには彼の感じたものがわからない。彼女は顔をしかめ、手を離して彼の横に立った。


 この間にノイシュトバルトは人の姿に変わっていた。彼は相変わらずふたりを値踏みするように見ている。フォルセティはノイシュトバルトにつっかかった。

「どういうつもりだよ」

「きみたちが僕の期待に応えられそうか試したくてね。それで一瞬、森に目を覚ましてもらった」

「森に……」

 ルーシェが怪訝な顔で聞くと、ノイシュトバルトは少し間を置いて答えた。

「正確には、かつてのこの森だ。迷宮のようになっていたんだよ。正しい道を選ばなければ、もといた場所から遠く離れた場所に出るようにできていた。中に封じたものが外に出られないように」

 ルーシェはフォルセティが怒った理由がわかった気がした。きっと、ルーシェと離ればなれになる危険があったからだ。彼女がたまたま前に進んだから——そしてたまたま、フォルセティに当たったから、彼女は迷わなかった。

「たまたま」? そんなことはない。ルーシェはノイシュトバルトを見上げて言った。

「私は前にフォルセティがいると知っていたから前に進んだだけよ。それで晴れる迷宮なら子どもだましにもならない。それがあなたにどう役に立つというの」

「捕らわれたのはフォルセティのほうだよ、ルーシェ」

 ノイシュトバルトは片肘に手を、顎に指を添えて口角を上げると口を開いた。

 フォルセティが声を上げた。「聞くな」——しかし、それは彼のその声よりずっと静かで穏やかなはずのノイシュトバルトの声に遮られた。


「僕はきみの名前の力を試した。きみの生が力を与えたその名が森の闇に負けないことを、きみは証明した。シャルテッサ。僕の要求を言おう。きみはその金の原の名をもってこの地を封じる王になりたまえ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る