9 / 虚ろのことば
「外は酷い嵐だった。森の中にいるときは全然だったんだけどね」
その口調は懐かしむような、穏やかなものだった。口元はわずかだが笑ってさえいる。それはルーシェを、彼がフォルセティ=トロイエなのかノイシュトバルトなのか、一瞬混乱させた。
「あいつが上機嫌だったのがとにかく気色悪くってさあ、俺は自分が何に利用されたのかなんかそのときはわかんなかったから。それで俺は急いで帰ろってなったわけだけど、あいつの呪いは相手に認識させ、頭に刻み込ませさえすれば、あとは条件が揃って発動するのを待つだけ。そんなわけで俺はノイシュトバルトの呪いを受けた」
フォルセティは眉を顰めた。彼にはフォルセティ=トロイエのいう「条件」がわかっているのかもしれないが、ルーシェは違う。彼女は答えを待った。しかし彼女に投げられたのは質問だった。
「宮殿下は人間に、完全な『無音の闇』が訪れるのはいつ、どこでだと?」
「……よく、わからないわ」
「本当に?」
ルーシェは躊躇いながら頷いた。なんとなく頭に浮かんだことはある。あるが、それを言葉に出してはいけない気がした。そんなルーシェの逡巡を知ってか知らずか、フォルセティ=トロイエは肩をすくめると続けた。
「ノイシュトバルトはそこで俺を待ち構えていた。その結果俺が、今こうしてここに」
ルーシェは首を振った。——ああ。やっぱり、そうなのだ。
「あいつは俺が死ぬのを待っていたんだよ」
森がざわめいた。
風が舞い上がり、風の民が動き出す。裾が揺れる。踏み下ろされた足が枯葉を踏む音がした。ルーシェは周囲を見回した。フォルセティがこっちを見ている。
「どこにいったの?」
フォルセティ=トロイエは目の前から消えている。ルーシェの問いにフォルセティは答えなかった。その代わり彼は前を指差した。動き始めたはずの風の民は皆立ち止まっていた。瞬きをする。その視線の先に大きな翼が見えた。
竜がいた。ノイシュトバルトだ。今までと違い、皆に見えている。子どもたちが教えてもらった名を叫んだが、竜はそれに目を細めただけだった。
籠を降りたシルカがつかつかと前に出た。物怖じした様子も見せず、彼女はノイシュトバルトと相対した。フォルセティとルーシェは急いでそちらへ向かった。彼女の真後ろにつけ、ノイシュトバルトを睨む。
「ここを通してほしい。我々はおまえの名を知っている」
シルカがよく通る声で言った。ノイシュトバルトはしかし、後ろをさすように顎をしゃくっただけだった。そこにはルーシェたちがいる。
〈彼らには、まだ用がある〉
ノイシュトバルトの声がする。しかし竜は口を開いていない。今のルーシェにはわかる。「無音」の名を持つ彼は音を必要としない。シルカが振り向くと、フォルセティは前を向いたまま、呟くような声でルーシェに言った。
「残ろう」
ルーシェにも異存はなかった。ノイシュトバルトはさっきフォルセティ=トロイエがふたりに語ったことを知っているだろう。それを語られることが彼にとって望ましいことだったとは、ルーシェには思えなかった。
彼がこれからふたりをどうしようとしているかなど想像もつかない。しかしそれがどんなものであるにせよ、風の民を巻き込むことはできない。この問題はあくまで、ノイシュトバルトとユーレ、というか、フォルセティ=トロイエやルーシェたちとの間の確執でしかなく、風の民は無関係だ。
「いいわ」とルーシェは答え、一歩前に進み出た。シルカの横に並ぶ。オトが飛び立ち、後ろの木に止まった。
「私もあなたに聞きたいことがたくさんある。でも先に、皆を森の外に出してちょうだい。そっちのほうが私たちもゆっくり話せる。あなたも別に構わないでしょ」
睨みつけるように見上げたルーシェを前に、ノイシュトバルトは目を細めた。
森に入った頃のルーシェは、ノイシュトバルトを敵だとは思っていなかった。どういう立場なのかはわからないが、ただ自分に何か暇つぶし程度の意味で興味があるだけの存在だと考えていた。というより、そう考えていたかった。だが今は違う。
彼は、ルーシェの国のナイトを欺くような形で利用し、森に自分を縛り付けていた鎖を引きちぎろうとした。彼はそのナイトに最後の鎖の端を預け、その死を利用して別のもっと都合のいい器に繋いで、今ここにある。
人の死を、命の終わりを条件に、呪いを放った竜。フォルセティ=トロイエはそのことを悲劇として語らなかったが、それはきっと彼の、ルーシェやフォルセティに対する配慮でしかない。
ノイシュトバルトは風の民を一瞥し、行け、とでも言うように首を振った。シルカがふたりを見た。その顔にはシルカらしからぬ不安の色がにじんでいた。ルーシェは安心させるように頷いた。
「大丈夫よ、あとで追いつく。先に行ってて」
「だけど……」
「心配しないで、前と同じよ。考えもあるし」
ぎょっとして彼女を見たフォルセティにルーシェは目配せをしてから、シルカに向かっていたずらっぽく片目をつぶった。
シャルムジカがよくやる仕草だ。シルカは一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに力強く頷くと右手を挙げ、列に指示を出した。
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