5 / 死せる騎士
ルーシェはしばらく渋い顔をしていたが、やがて大きなため息をつくとテーブルの上で手を組んだ。
「よくわからないけど、私が話しやすそうなのは自分を『俺』と呼ぶ方のあなたなのだけはわかった」
「僕とは話しにくい?」
「揚げ足取られないように言葉を選ばないといけないわ。だから気楽に話せない」
「そう。でも、口に出す言葉には常に慎重であるべきだ。特にきみのような立場の人間はね」
相変わらずの笑顔だ。ルーシェは肩をすくめた。彼女は王族である。民は彼女を「王女」として見る。そんなことくらいわかっている。わかっているからこそ指摘されたくない。まだそれに気づかないふりをしていたかった。
手元にはあの本がある。ルーシェは所在なさそうにその表紙を開き、ページをめくった。書き込みが現れるのはしばらくしてからだ。
「フォルセティ=トロイエ」
顔を上げずにルーシェが呼ぶと、前の男は返事をした。
「
「答えを教えて」
「書き込みの意味?」
そうよ、とルーシェは視線を上げた。榛色のフォルセティ=トロイエ(またはノイシュトバルト)の瞳は彼女の手元に向けられている。
「今もこの書き込みは意味を持っているんでしょう。これを狙って王宮に侵入するものもあるくらいだから」
「ああ、そうなの。タイガかな」
「ガイエルの王ね。実際に来たのはシルカ」
「イヴァレットの娘か」
ふぅん、と言ったきりのフォルセティ=トロイエにルーシェは瞬きをした。こちらを見ていないということは、彼はそれ以上答えるつもりがないということ。言葉尻もこれまでのように自信に満ちたものではなかった。彼とて何もかもに通じているわけではないらしい。それでもイヴァレットというのは、クレタとシルカの母の名なのだろう。仲間を捨ててふたりを連れ出した先視の女性の名。ルーシェは続けた。
「あなたの知っていることを聞きたいわ」
「それは駄目」
あっさりと切り捨てたフォルセティ=トロイエに、ルーシェは思わず眉を情けなく寄せた。当然自分の頼みを聞いてくれると思っていたからだ。しかし彼は肩をすくめて言った。
「俺が忠誠を誓ったのは陛下、というか厳密には
「それはわかってる。だけどあなたはもう……」
「死んでるんだし?」
まあね、と彼は苦笑いしながら両手を頭の後ろで組んだ。
「だからと言ってもう免責ってことにはならないの。むしろ死を選んででも、そして死してなお陛下への忠誠を尽くすのがナイト。少なくとも俺はそうありたい」
「厳格ね」
ルーシェはため息をついた。この本の書き込みの真相がわかれば、何か解決の糸口が見つかるだろうと期待していたからだ。けれども何が解決するのかと問われればよくわからなかった。実のところ、何が問題かすらも彼女には把握しきれていないのである。
風の民。病を運ぶという。彼らに国を与えると言ったガイエルの王タイガ。その側室であるクレタたちの母。そして本を狙うシルカ。
もう一度大きなため息をつくと、ルーシェは開いたままになっていた本を閉じた。
唐突に目の前の男が立ち上がった。ルーシェはそれを見上げて瞬きをした。彼の視線の先には人影が捉えられている。フォルセティだ——ルーシェが国から連れてきたほうの。
ひとつだけ、とフォルセティ=トロイエは振り返り、ルーシェの鼻先に人差し指を差し出した。
「別れ際に宮殿下の知りたいことを、ひとつだけ教えて差し上げよう。さっきの以外でね。何を聞きたい?」
不意を突かれたルーシェは思わず周りを見回した。フォルセティ=トロイエが急かしてくる。もうひとりのフォルセティに会いたくないのかもしれない、とルーシェは思った。
「ないならもう行く」
「待って。あるわ」
「なに?」
「また会える?」
彼は呆気にとられたように瞬きをしたが、目を細め答えた——ノイシュトバルトの、あの妖艶な笑みで。
「すぐに」
直後、砂埃を巻き上げた一陣の風に、ルーシェは思わず目を背けた。
顔を上げたとき残されていたのは、空のカップ二客だけだった。
卓上から羽ばたいたオトが頭の上に収まった。ルーシェは右手を伸ばしてオトを撫でると、フォルセティが来るのを待った。
彼はたどり着くなりテーブルの上のカップを指さして、ルーシェとそれとを交互に見つめた。ルーシェに向ける視線は彼女を咎めるかのようだ。
「私が飲んだんじゃないから」
「えっ」
じゃあ、と彼は周りを見回したが、誰も立ち止まっていない。店内の客も我関せずだ。
「もう、行っちゃった」
「誰だったんだよ」
「……よくわからない、少し話しただけだから。それよりよくここがわかったわね」
フォルセティは両手を腰に置くとため息をついた。
「なんかこっちでピリピリした感じがあったから、様子見に来てみただけだよ。そしたらルーシェがいて驚いた。てっきりキャンプにいるものと」
彼はルーシェがキャンプを抜け出したことにさえ気づいていなかったらしい。ルーシェは肩を落とし、ため息をついて聞いた。
「で、その『ピリピリした感じ』は?」
「ああ、うん。今消えた」
「……なんなの、それ」
「なんていうか、空気が破れるような、うまく言えないけど……」
フォルセティは言いよどみながらカップに目を落とした。溶けきれなかった砂糖が少し残っている。
「本当に誰だったんだよ」
彼は呟いて、そのカップをソーサーごと持ち上げた。その下だけテーブルの木目が乱れている。ルーシェは目を見張った。ノイシュトバルト——いや、そのときはフォルセティ=トロイエだったか、彼がそこにカップを置くまではそんなおかしなものはなかったはず。
ルーシェが「混沌」と呼ぶ、彼の秩序。ルーシェは唾を呑み込み、フォルセティを見た。
「虫にはこんなことはできないよ。もちろん、虫を使う人間にもだ」
フォルセティは険しい顔のまま、その木目を人差し指でなぞりながら言った。彼自身は死んだ木をどうこうする力を持たない。彼に力を与えるという地竜ならどうかは知らないが——ルーシェは瞬きをした。
あの男は何者だ? 周りの時間を止めて、その狭間でカップの中身を浮かせてみせた。声にする前の言葉を聞き取ってみせた。死んだはずのフォルセティ=トロイエと同であると同時に異であり、ルーシェとは違う秩序を生きるもの。あの男は。
「……またすぐ会えると言っていたわ」
聞き取りづらいほどの小さな声で答えたルーシェに、フォルセティは少し低い声で言った。
「そいつはあり得るとすれば竜だ。だけど誰とも契約してない野良。たぶん」
「そんなことがあるの?」
「もちろん。動物に野生のと飼われてるのがいるのと同じだよ。ただ普通、誰とも契約してない竜は体を持たないから、俺たちやその周りを勝手に観察こそできるけど、それだけで、物理的に干渉してくることはできない。だから——」
そこでフォルセティは、ノイシュトバルトのいた椅子に腰を下ろした。
「コードで召喚でもされない限り、俺たちと同じこんなふうに、ものに触れたり言葉を交わしたりすることはできないはずなんだ」
「でも、お店の人とも話してた。普通の人みたいに」
フォルセティはため息をついた。
「そいつは俺の知ってる竜とは違う。なあルーシェ」
顔を上げたルーシェには、彼の顔色は少し悪く見えた。
「たぶん何か俺の知識の及ばない、特別なやつだ。それがなんの用で出てきたのかわからない。でももし、もしも、そいつがルーシェに会うために出てきたんだとしたら、これで終わりと思えない。俺はそんなやつからもルーシェを守らなくちゃならない。もちろん全力は尽くす。尽くすけど、正直怖い」
ルーシェは息を呑んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます