4 / 同にして異なるもの
ルーシェは目を見開いて彼を見た。
生きていたと言うのか。そんなはずがない。彼は、ルーシェの母——女王デュートが幼少の頃に死んだはずだ。そしてそのときとっくに三十は過ぎていたはず。ならばもし今生きていたとしても、こんな姿をしているわけがない。
「あなたは誰なの」
ルーシェは眉を顰め、問うた。対して目の前の男は涼しい顔をしている。
「今、自分で答えを出したのでは?」
「でもその答えはあり得ない。だから正解じゃない」
「どうしてそう思う?」
「死んだ人は生き返らない。仮に死んでいなかったとしても、必ず歳を取る。だからあなたはあの人とは、別人でしかあり得ない」
彼はにんまり笑いながら首を傾げた。
「論理的な答えだね」
「というより、当たり前のことよ」
「そうかな。僕はそうは思わないが」
彼はそう言いながら席を立つとマントの裾を翻して店の奥に向かい、ほどなく戻ってきた。そして彼は再び同び腰掛けながら、手の中のものをふたりのちょうど真ん中に置いた。
「これが何か知っている?」
「煎って、挽いたものにお湯を注いで飲みものを……今、あなたが飲んでいるような。名前は知らないわ。何かの豆だと思う」
「そう。これをこうして」
彼はそれを目の高さまでつまみ上げた。ルーシェの目がそれを追う。
「今、僕が手を離すとどうなる?」
「落ちる」
「そうだね。『きみたちの秩序』ではそうなる」
彼は目を細め、妖しさすら感じる不敵な笑みを浮かべて続けた。
「しかし『僕らの秩序』では必ずしもそうではない」
彼は手を離した。
彼の指先を離れた豆は落ちることもなく、その場で動かない。ルーシェは眉を寄せた。触って確かめていいよ、と彼が言うので、ルーシェは遠慮がちにその豆をつついた。糸で吊っているような様子はない。少し力を込めて押すと、そのまま水平に奥へ向かって滑ってゆく。それが自分に当たるのを、目の前の男は手のひらで防いだ。豆はその手に触れ、思い出したように彼の膝に落ち、そこで一度跳ね返ると床に転がった。
「何をしたの? どういうこと」
ルーシェは寄せたままの眉を解きもせずに彼を見上げた。男はまた最初のような、人懐こい顔で首を傾げた。
「きみたちの秩序、いや、きみたちにとっては『常識』のほうがわかりやすいか。それが必ずしも普遍的なものではないということだよ。こういうことを、考えたことが?」
ルーシェは最近似たようなことを考えていた気がして、頷くと答えた。
「私たちはナイフとフォークを使って食事をするのがマナーだと思っているけど、風の民はそうじゃなくて、別に行儀の悪いことでもないとか、そういうこと」
「そうだね。きみは彼らを否定しようと思う?」
「思わないわ。彼らにとってそれは悪いことではないのだから、避ける理由がない以上はそれをすることも責められない。どうしても自分たちに合わせてほしいとしても、それは歩み寄りで解決するべきだと思う。私たちと彼らとは物差し自体が違うのだから、頭ごなしに否定したって意味がないし、私たちこそ正しいと説得することもできないし」
男は傾げたままだった首を満足げに振り、正面を見た。
「そう、歩み寄り。僕と『彼』ともそういうこと。きみの言うとおりフォルセティ=トロイエは死んだよ、何十年か前に。そして彼の秩序、たぶんそれはきみの秩序と同じだろうけれども、その中では死は不可逆的で、かつ、必ず訪れる。だが僕らの秩序に死は存在しない。消滅があるだけだ。それも必ず訪れるとは限らない」
「言っていることがよく理解できない」
男はわずかに眉を上げた。不快感を示すものだったのか、それとも単に意外だと思ってのことかはわからないが、彼はそれを明らかにすることなくそのまま続けた。
「きみたちは朝が来れば明るくなると思っている。支えを失ったものは落ちると思っている。手を叩けば音がすると思っている。水は手を濡らすものだと思っているし、風は形のないものだと思っている。そしてそれが普遍性を持つ秩序だと思っている。しかしいずれも僕からすれば偏狭な思い込みだ」
ルーシェは黙って彼の言葉の先を見守った。
「朝が来ても明るくならない、そもそも朝や夜といった時間の観念がない。落としたものは下に向かって落ちない、それ以前に上や下、『落ちる』『浮かぶ』といった概念がない。手を叩いても音はしない、それどころか何をしても無音。雷が落ちようとも、風が吹き荒れようとも、雨が叩き付けようとも無音。それはそれでひとつの秩序だ」
ルーシェはあの夢を思い出した。激しい雨と風が、わずかな音さえ伴わなかったあの夢。ルーシェは振り切るように頭を振り、答えた。
「言葉の上ではそうだわ。でもあり得ない。普通それを『混沌』と呼ぶのよ」
男はおかしそうに笑った。
「きみは嘘をついたのかい。ついさっき、異なる秩序を否定はできないと自分で言ったはずだが」
「違うわ。否定してるわけじゃない、あり得ないと言っているの」
「きみは僕の言う秩序を、きみたちの常識を逸脱した、あり得ない、想像できない、受け入れられないものだと認識したんだろう? だからそれを混沌と名付けて否定した。仕方ないことで責められない、否定しないと言ったきみの言葉には嘘がある」
どうだい、と彼は肩をすくめてみせた。ルーシェはため息をついた。
「私が否定しないと言ったのは、私たちの……あなたの言う『きみたちの秩序』の前提の下であり得る、文化の違いによるものよ。前提自体が異なるものと同列に語ることはできないわ。嘘と言うけど、あなたの論理は飛躍している」
「きみは賢い。でもひとつ見て見ぬふりをしているものがある。きみはそれを整合的に説明できないはずだ」
男は満面の笑みを浮かべると、目の前にあったルーシェのカップを手に取った。彼女が飲むことができないので、当然カップは満たされたままだ。彼はそれを高く持ち上げるとおもむろに傾けた。ルーシェが声を上げる間もなかった。
カップからこぼれた黒い飲みものは、空中で球の形になってとどまった。ルーシェは目を白黒させ、そして我に返ったように周囲を見回した。ここは通りに面したテラス席なのだ。さっきの豆のような小さなものならともかく。
けれどもその心配は杞憂に終わった。誰もこちらを見ていなかった。それどころか動いてさえいない。踏み出した足は浮いたまま。なびく髪もそのままの形で。風に乗った葉は、その場に静止していた。無音。
目の前で男は、ゆらめきながら浮かぶ球の下に空のカップを据えた。長い指で持ち手をつまんでいるその仕草は気品すら感じさせる余裕に満ちたものだ。彼がふ、と息を吹きかけると球はまっすぐすとんとカップに落ち込み、ルーシェの周囲は動きと音とを取り戻した。当たり前の、日常の、なんの変哲もない雑踏の音。彼はそのカップを口許に引き寄せた。静かに一口。これもまた優雅な仕草。
「冷めてしまったね」
男は残念そうにそう言うと、口をつけたカップをソーサーの上に置いた。
ルーシェは混乱した。自分は何もされていない。薬を盛られるような機会もなかった。ならばこの男はきっと人間ではない。何か、そう何か——たとえば「魔物」だ。
試されている、と感じた。ルーシェは深呼吸をし、聞いた。
「私が見て見ぬふりをしている、って何かしら」
「きみの護衛の少年のことだよ」
「彼がどうかしたの」
「彼の怪我の治りはきみからしたら異常だろう? しかも地竜の加護を受けている。そんな人間はきみの知る限りでは彼か、そのご母堂くらいのはずだ。でもきみはそれを『彼は特別だ』という理由だけで受け入れている、きみの秩序の中に。にも拘わらずきみは僕の呈示した秩序を『混沌』と切り捨てた。そこに一貫性はある? 論理的と言えるかな」
ルーシェは言葉を詰まらせた。彼の言うことにも穴はあるかもしれない。けれども彼女に即座にそれを見つけることはできなかった。
「……ないわ。確かに私に矛盾があった」
「結構」
男はテーブルの上にあったシュガーポットから砂糖をスプーンに山盛りにし、それを冷めたカップに落とした。粒の大きな茶色っぽい砂糖を、三回。彼はそれをかき混ぜながら脚を組み直すと、ソーサーごと膝の上に移し、さて、と手を止めてルーシェを見た。
「僕はノイシュトバルト。きみたちの秩序……いや、この場合別の言葉のほうがわかりやすいかな。きみたちの世界では、それが僕の名前だ」
「あなたの世界では?」
「必要ないから存在しない。だから僕はここでは便宜上、きみたちが僕を特定するのに使った表現を名前としている」
「その言葉、旧律ね? 私のシャルテッサ、金の原。クレタのクレアリット、神の歌、みたいな。意味は……」
「『ただ無音の闇』。きみなら納得するのでは」
彼はおもむろにカップの中身をあおり、空になったそれを膝の上のソーサーに置いてからテーブルに移した。磁器のぶつかる音がした。王族であるルーシェから見てもいちいち優雅だったこれまでの彼にしては違和感のある仕草だ。入れ過ぎて溶け残った砂糖をじゃりじゃりと噛み飲み下した彼に、ルーシェは怪訝な顔をした。彼は背筋を伸ばして両手を膝に置き、射抜くような目でルーシェを見た。
「
彼の所作はさっきまでとはまるで別人だった。ひとつひとつの動きは無駄なく、まるで規律正しい軍人。それでいてその笑顔は少年のようだ。なのに鋭い眼光は断ることを許さない。思わず
どのくらい経っただろう。彼はしばらく書き込みを見ていたが、最後のページまでめくりきってしまうと本を閉じ、そして顔を上げた。
「宮殿下はこれを見てどういう解釈を?」
「よくわからないの。昔のことを書いているのかと思っていた。でも、それを狙っている人がいるから、今見ても何か意味があることなのだと……それならこれからのことが書いてあるのかとも思うし。だけど答えはわからないわ。書いた人に聞けないから」
「そうだな。少なくとも俺がこれを書いた頃は、インクは青だったね」
「え?」
「ここまで変色するもんなんだね。もうちょっと青みがかったところまでしか見たことなかった。見たらすぐ処分するようにとあれだけ申し上げたのに、陛下はそれでも捨てずに持っていらしたんだな……」
本を愛おしげにひと撫でし、はい、と彼は本をルーシェに返した。彼女はそれを受け取りながら彼の顔を見つめた。渡したときとはまた違う、砕けた物腰。けれどもその前の、優雅さを感じさせるものでもない。力が抜けた、という感じだ。
「あなたが、これを書いた……」
「そう。国王も認めたナイト・フォルセティ=トロイエの画才、いかがでした」
「待って……待って」
ルーシェは目の前のもやを払うように手を振った。この男は何を言っているのだ。さっき自分で言ったではないか。自分は「ただ無音の闇」ノイシュトバルトと。しかし男はまた、ルーシェの声を聞いたかのように返した。
「イシトでいいよ、長いから。それが覚えにくければ、なんならフォルセティでもいい。でも混乱するだろうからやめたほうがいいかな。あの野郎、俺の名前を息子に継がせるなんて洒落たことしたね」
ルーシェは整理しようとするのを諦め、肩をすくめると彼を見た。彼は両手をだらりと下ろし、身を投げ出すようにして背もたれに背を預けている。ルーシェは諦めたように言った。
「私、困ってるのよ。整理できないの。あなたの言ってることが」
「俺の? 難しいこと言ったかな」
「さっきまでのあなたと今のあなたは違うように見える。今のあなたはフォルセティ=トロイエ」
彼は呆れた顔で一呼吸置き、背もたれから離れると少し首を傾げてルーシェに言った。
「きみたちが人間を定義する主たる手段は、姿形と生き
彼は静かな調子でそう言い、両肘をテーブルにつくと指を組んだ。少し猫背気味だった。
「つまり、フォルセティ=トロイエの記憶と彼の姿形を持つ僕を、きみは彼自身であると定義した。でもそれも、きみたちの秩序の下という条件での判断に過ぎない。僕は彼の記憶を持ち、彼の姿をしているけれど、彼自身ではない。僕は彼を包摂する。僕を定義すれば彼を定義しきることはできる。だが彼を定義しても僕を定義したことにはならない。僕と彼は同であり、同時に異だ」
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