3 / 暗き淵より

 ドルジが戻ってくるまでは待つしかない。だから無駄な体力消費を嫌うものはテントの中で横になったりしていたが、中には火を囲んで談笑するものも、普段使いの道具の修繕をするものもいる。予想外に空いた時間ではあるが、皆それぞれに有効活用しているようだ。ルーシェはいつものテントの前で自分の荷物を前に抱え、周囲のそんな様子を見回した。

 最初に思いつく暇つぶしと言ったら読書だ。そして今ルーシェの手元にある本は一冊だけだった——あの、書き込みのある本。しかしそれがシルカに狙われていたことも考えればこの場で不用意に開くことは気が引けた。ルーシェは周りを探してみたが、どのテントにも人がいたし、火の周りは尚更で、このキャンプの中には適した場所は見つからなかった。ため息をついてフォルセティを探してみたが、それも姿は見えなかった。

 護衛のはずなのに、彼はよくルーシェのそばを離れる。危険がないからという判断なのか、ただ考えが甘いだけなのかはわからないが、ルーシェはそれでは良くないだろうとは思いつつ、それに感謝することも何度かあった。共通の話題があるときならいい。けれども、いつも横にいたのでは近過ぎるのだ。嫌なわけではないが、落ち着かなかった。険悪だとか、いたたまれないとか、肩身が狭いとかとも違うが、なんとなくむずむずする。何か話したほうがいい気がするのに、変に話題を作ろうとすると鬱陶しがられるのではないかとも思う。葛藤して沈黙しているうちに愛想を尽かされてしまうのではないかと心配になる。

 要するに何をしてもしなくても駄目な気がする。それが続くと、さすがに気が休まらない。


 ルーシェは再び大きなため息をつくと、頭のオトを前に抱いた荷物の上に移動させてから足を踏み出した。風の民のキャンプを離れ、集落の中心部に向かう。

 小さいとは言え、一応は商店街らしいエリアもあるようだ。人の行き来もそれなりなので、休憩したい人向けにゆっくりできるところもきっとあるだろう。この本を不用意に見られるのは確かに気が引けるけれども、それでも全く見ず知らずの人々の中でなら、読んでいたって特に注目されるとも思えなかった。なにしろ書き込みを除けばただの古い小説だ。

 ルーシェはこの辺りの通貨をよく知らない。それ以前に、貨幣と呼べるものをほとんど持っていない。ただ周りの様子を見れば、物々交換を申し出れば応じてもらえる確率はそう低くはないようだったから、店に入る前に店主に確認をとれば大丈夫だろう。幸いルーシェが身に付けているものには価値のあるものが多かった。髪飾りの左右にひとつずつ光っている雫形の石も、値段をつければひとつで一月ひとつき暮らせる——と言ったのは、誰だったか。


 陰鬱な曇り空の下ではあるものの、踏み固められた道に敷かれた砂は乾いており、両脇にはそれなりの数の商店がそれなりの数の品を並べていた。くすんだ色のものが多いように思えたが、きっと天気のせいだろう。呼び込みの声も聞こえ、雰囲気は決して暗くはない。

 人通りは思った以上に多かった。集落の規模にしては相当の賑わいだ。考えていたほど寂れた場所ではなかったらしい。見慣れない格好のものもちらほらいた。ここを経由するのは、森を通り抜けるものだけではないのかもしれない。

 ルーシェの歩く少し先に、薄いグレーと白の縞模様のオーニングを軒先に張り出し、その下に丸いテーブルと椅子とをいくつか並べた店があった。そこの店主と話してみると、彼はルーシェの荷物の中にあった銀のフォークで話をつけるという。それではこちらの払う対価のほうがずいぶん高くなってしまうことはルーシェにもわかった。ただ彼女が嫌だったのは払いすぎることではない。そういう取引をすることで世間知らずと認識されてしまいそうで、それが嫌だったのだ。実際世間知らずだという自覚はあった。だからこそ回避できることは回避したかった。

「この取引は失礼ながら、フェアだとは思えないのですが」

 軒先よりも暗い店の奥で、少し高く作られたカウンターを挟み、ルーシェは努めて静かに返事をした。店主はルーシェがこういう店に持っていたイメージよりもかなりいかつい感じの男だった。彼は一瞬口ごもったが、改めてルーシェを見下ろすと肩をすくめて外を指差した。この場の主導権は彼にある。交渉は難しい。はぁ、とため息をつき、ルーシェは荷物を抱き直して店主に背を向けた。

 暗い色の木材で内装を統一した店内にも、外と同じテーブルが十ほどある。埋まっているのはその半分くらいだ。各テーブルには三、四脚ずつ椅子があるが、ひとりの客が多いので、テーブルが半分埋まっていても客はまばらに感じられた。

 店主の態度が悪いから流行らないのだ——ルーシェは内心毒づきながら、完全に日陰の店内よりは少し明るい軒先、雲と布とを隔てた日差しが薄く当たる砂の上に足を踏み出した。


 一番外に置かれたテーブルの横を通り過ぎようとしたとき、不意にそこにいた男が「俺もそう思う」と言い、ルーシェは思わず振り向いた。

 三十代に手を掛けたばかりくらいの、くすんだ金髪の男。暗い色のマントを羽織りフードを外して頬杖をついている。ルーシェは瞬きをした。

 彼は行儀の悪いことに、足で彼の向かいの椅子をルーシェのほうへ押し出してきた。椅子の背が荷物を抱いたルーシェの肘に当たった。人懐こい笑顔で彼はルーシェを見、言った。

「座ったら? どうせ頼んでも飲まないんでしょ」

 はしばみ色の瞳。


 店内に目をやると、店主はこちらを見ていなかった。ルーシェはどうしていいかわからず、押し出された椅子の座面の木目を目でなぞっていたが、店内から床板の軋む音が聞こえたので、慌ててその椅子を引いて腰掛け、膝の上に荷物とオトを置いた。

「あの、ありがとうございます」

「別に礼を言われるようなことはしていない。店主に冷たくあしらわれたきみが、他に席は空いているにもかかわらず僕と相席をした。それだけ」

「それは、そうですが……」

 ルーシェは口ごもった。男は澄ました顔をしている。見れば腹が立つほど整った顔だ。

 彼は自分に座れと態度で示したのではなかったか。しかし彼の口ぶりはまるで迷惑だと言いたげでさえある。ならば注文ができるわけでもないルーシェは、すぐにでもこの場を去るべきだ。彼女は腹立たしい気持ちが急速に膨らむのを隠そうともせず、椅子から立ち上がりかけたが、止めざるを得なかった。

「いい子だね」

 向かいの男はそう言いながら、手の甲の上でオトを遊ばせていた。ルーシェは慌てて膝の上の荷物を覗き込んだ。そこにいたはずなのに、オトはいつ向こうに行ったのだろう。いつも他人に愛想がなく、目を閉じて丸くなっているだけのオトが、今彼の手の上で口を精一杯に開けて何か訴えかけているようにさえ見える。ルーシェが険しい顔をしているのに気づき、彼は空いた方の手で彼女に座るように示しながら、奥の店主に声をかけた。

 やってきた店主はルーシェを訝しげに見ている。彼女が居心地悪そうにしていると、目の前の男は「同じものを」と店主に言った。瞬きをしたルーシェに、店主は悪戯っぽく片目をつぶってみせると奥に戻っていった。男はそれを見送り、ルーシェのほうへ向き直った。

「本当は気のいい奴なんだよ、ちょっと慎重過ぎるだけで。愛想笑いくらいできたら売り上げも伸びるのにね。場所柄いろんな人間が来るから、仕方ないんだろうが」

「あの」

 ルーシェが先を続けるのを彼は許さなかった。おごるよ、と彼はいい、オトをテーブルの真ん中に置いた。

 間もなく店主が持ってきたカップを前に、ルーシェは目の前の男とその水面とを見比べるように交互に眺めた。こうして飲むものが前に出てくれば、彼女がこの店に居座る理由はできる。フォルセティの準備したものや確認を経たもの以外を口にするわけにはいかない手前、飲めないのはもったいないが、それは仕方のないことだ。今問題なのはそこではない。


 向かいで椅子をテーブルから少し離し、ルーシェと何か話すでもなく、組んだ長い脚の膝にカップとソーサーを置くようにして通りを眺めているこの男は、なぜルーシェが「頼んでも飲まない」と知っていたのか。なぜオトは彼に必死に何か伝えようとしていたのか。なぜ彼は「そう思う」と——店主の態度のせいで売り上げが伸びないのだと思ったルーシェに同意できたのか。彼女はそれを声に出さなかったにも拘わらず。

 何より。

 ルーシェは彼の頭から、テーブルに隠れて見えないつま先までをまじまじと見た。後ろ姿を呼び止めようとし、音のない嵐の中をどこかへ向かい馬を駆っていた男。今朝のはただの夢のはずだ。しかし彼はあまりによく似ている。

 今は彼女の膝の上にいるオトが、彼女を見上げていた。いつもは周りに全く遠慮もせずに眠っているくせに、今日はしきりに羽を繕ったり周囲を見回したりして落ち着かない。

 初めて会ったのにいきなり失礼だとも思ったが、あまりに気になるところが多過ぎて黙っていられなかった。ルーシェは意を決し、彼に身元を尋ねようと口を開きかけた。けれども。


「初めて?」

 ルーシェが言葉を発するのを待たず、男は組んだ脚を戻し、カップをソーサーごとテーブルに置くと椅子を引いた。

「昨晩は挨拶はなかったけど。二度目でしょ? 俺は名乗る必要がある?」

「あなたは」

 ルーシェは唾を呑み込んだ。彼は知っているのだ。ルーシェが昨日見た夢を。そして彼は言っているのだ。その名を呼ばれて振り向いた男は自分だと。

 だが彼は死んだはずだ。母が十歳か、そこらの歳の頃に。先王没後のクーデターで。妃——アルファンネルがユーレを離れた、あのときに。

 彼は死んだはずだ。ルーシェが生まれる前に。

 死んだはずだ。


「……私は、あなたの名前を知っている?」

 はは、と男は短く声を上げて笑った。少しかすれた声。

「質問したのは俺だよ」

「そうだったわ。ごめんなさい。……フォルセティ=トロイエ」

 男を見つめるルーシェの表情は固かった。それをあっさりとかわしてしまうような柔らかな笑顔で、男は椅子に掛け直した。伸ばした背筋とは不釣り合いに、緩められた口許と細められた目。

「母君によく似ていらっしゃる」

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