2 / 温かい、スープ

 まだ起きるには早い時間だったので、そのままもう一度床につき、ルーシェが再び目を覚ましたときにはもう、隣にクレタはいなかった。


 外からは朝食の準備の匂いが漂ってきている。日はとっくに出ている時間のはずだが、テントの隙間から差し込んでくる光は弱々しかった。

 膝をついて髪を整えてから枕元のオトをつついて起こし、彼が定位置に収まってから立ち上がる。テントを出て、もう準備が半分終わりかけているのに肩を落とし、ルーシェは足を踏み出した。空は案の定薄曇りだったが、空気は乾いていて雨の降りそうな様子もなく、それが余計にちくちくと肌寒い感じがした。

 夜、中央に焚いた火の周りに、朝には恒例の小さな火がいくつも焚かれて、そのそれぞれに鍋が湯気を立てていた。一緒に起こしてくれれば準備を手伝うこともできたのに——ルーシェは少し不満を感じた。彼女自身は風の民の生活にだいぶ慣れたと思っているし、仲間意識も芽生えてきたと感じている。けれども皆にとって彼女はまだお客様なのだ。

 しかしその扱いをやめてほしければ、彼女自身がもっと積極的に中に入っていくしかない——向こうで鍋の中をかき回しているフォルセティのように。他人を責めるのはお門違いだ。明日からもう少し早起きしよう、とルーシェは決めた。


 小さな火はそれぞれ五、六人のグループが囲み、おのおのの鍋を煮立てている。間を縫うように歩きながら覗き見た中身はさまざまだった。白いもの、澄んだもの。赤いものもある。

 フォルセティの周りにはほかに誰もいない。彼はルーシェ(と自分)のために風の民とは全く別の食事を準備するから当然と言えば当然なのだが、それでもいつもならクレタや、彼女と仲の良さそうな少年少女がいることもある。今日はひとりのようだ。

 ルーシェがおはようと声をかけると、その声は白い息に包まれて空に消えた。彼女は小さく身震いをした。それを見上げたフォルセティは、座っていた丸太の少し左に寄ったので、ルーシェはありがと、と呟いてそこに腰を下ろした。これまでフォルセティが座っていたところは少しだけ温かかった。


 見回してみたが、クレタはいない。いつもならシャルムジカか、お腹に子のいる女(確か名前はクラヴァと言う。歳はルーシェとそう変わりないように見えたが実際はわからない)、もしくはフォルセティの近くにいるのだが、今日はそのどこにも姿が見えなかった。

「クレタは?」

 ルーシェが尋ねるとフォルセティは、ああ、と呟きながら、鍋の中身を器に移し、ルーシェに差し出しながら答えた。

「シルカが朝方呼ばれてった。なんか、ここの長老さんと話があるんだそうだ」

 ルーシェは頷きながら器を受け取った。この器は底を厚く作ってあるから、煮立ったスープを注いですぐ膝に置いても熱くない。

 シルカが行っているということは、今クレタは「どこにもいない」ということ。それはルーシェたちにとっては暗黙の了解だ。ルーシェはスープから立つ湯気をほうと吹いて冷めるのを待ちながら、フォルセティが自分の分を器に盛るのを見守った。

 彼が器に口をつけるのを待ち、ルーシェも薄赤く澄んだスープにスプーンを差し入れた。

 こうしたカトラリーを使いたければ、風の民はどんな小さな子でも自分で携行する。多くのものはそんな道具は使わず、器から直接スープを飲み下すからだ(フォルセティがそれに倣っているのか、それとも彼がもともとこうなのかはわからない)。そしてそれは風の民の間では特別なことではないようだったが、ルーシェにはどうしてもできなかった。もしかしたら気取っているように見えるかもしれないが、そう躾けられてきたのだから仕方ない。風の民の食べ方を行儀が悪いと批判する気は全くないが、それと自分ができるかとは別なのだ。


「今日は森には入らないみたいだよ」

 フォルセティがふうふうと彼のスープを冷ましながら言った。ルーシェはてっきりすぐに出発するのだと思っていたので、思わず目を丸くした。

「え、そうなの?」

「ああ、立ち聞きしただけだけど。どうもその、シルカが呼ばれてった用、ちょっと時間かかるみたいで。中途半端に森の中で夜明かしする羽目になるとまずいから、明日の朝イチで出たほうが良さそうだっつって」

「シルカ、どういう用なの?」

「俺は知らないよ」

 フォルセティは頭を振った。それにルーシェは「そうよね」と返しながら、スープの中で柔らかくなっていた芋をスプーンで小さく割った。こんなに大きな具が入っているのに、フォルセティは一体どうやって飲み下しているのだろう。

 ただ、と彼が言葉を継いだので、ルーシェはスプーンの上にその芋を乗せたまま彼を見た。

「もともと呼ばれたのはシルカじゃないんだ。ドルジさん……取りまとめの髭のおっさんが呼ばれたんだけど、相手のばあさんが耳が聞こえないってんで」

 ドルジというのは、クレタたちの一行で常に一番先頭にいる、四十代の赤毛の男だ。色黒で威圧感のある体格はこの集団の中では割合珍しく、直接話したのは二、三度にとどまるルーシェにも強い印象を残している。普段は見せ物ではなく裏方をやっている、少し短気だが贔屓をせず義理堅いので人望の厚い、気のいい男である。

「先視は、そういう人に声を届けることができるの?」

「先視だからかシルカだからなのかは知らない。ただ筆談するにも、どうもこの辺は文字がちょっと違うらしくてさ。だから、いると話が早いんだって」

「すごいのね、彼女」

「そうだな」

 なぁ、とフォルセティはルーシェの頭の上を見上げた。

 オトは人間と同じものは食べない。契約をしたあとの虫は、主の髪や爪といった体の一部を己の糧にするという。オトは片目を開けてフォルセティを一瞥したが、すぐにまた目を閉じてしまった。愛想のない小鳥だ。


 竜の虫と主がどういう方法でやりとりをしているのか、フォルセティにはわからない。ルーシェを見ていてもオトと会話をしている様子はないから、ほとんど動物相手みたいなものなのだろうなと思っている。それでも時々オトは、妙にルーシェの行動を先読みして頭の上に飛び上がることがあるので、多少は考えを共有しているのかもしれない。

 この点で、竜の虫と竜とは大きく異なる。

 フォルセティやほかの、竜と契るものたちが自ら竜と対話を図るとき、そこに誤解は生じる余地さえない。人間は伝えたい内容を「ことば」に直して表現し、それを受け取った人間が解釈するから、その過程ですれ違いが生じることは多いけれども、竜にとっては「ことば」は、少なくとも主との関係では単なる音でしかないという。

 フォルセティがルーシェにうんうん唸りながら説明したところによれば、契約関係にある竜と人とは、相手が「ことば」に落とし込む前の姿で、その考えを共有している。ただそれはあくまで、主たる人が竜に現界の足がかりとして自らのこころの一部を明け渡すという、特殊な結合があるからこそのことだ。そのような方法で「契約」をするから、主の中には自分自身と竜と、両方の思考が併存することになる。それは竜のほうでも同じなのだが、そんなふうになっているものだから、主と竜との間で隠しごとをするのは少し気を遣う。何も配慮をしなければ、両者の間では相手が何を考えているかはほぼ筒抜けなのだ。だから例えば今、母国ユーレの懐かしい我が家で朝食を食べているフォルセティの竜——翠嵐が何を見、どう感じているかも、フォルセティにはわかる。

「焦がしたな……」

 フォルセティは不意に呟いて眉を顰め、無意識に左上に目をやった。

「え?」

 ルーシェはスープの具をひっくり返したが、とくに焦げ目はない。怪訝な顔で見てきたルーシェにフォルセティは「ここじゃなくて」と言いながら、空になった自分の器に二杯目を盛った。

「うちの朝食の話」

 さらりと答えたフォルセティに瞬きをし、ルーシェはこれまで歩いてきた方角に遥々目をやった。当然だが、ユーレは見えない。彼女にはフォルセティがなぜ突然そんなことを言い出したか不思議でならなかった——が、それがきっとフォルセティには普通なのだ。彼の中では完全に筋が通っている。ほかの人間にはない、特別の力のおかげで。


 人間ではない魔物の「彼」とも、先視がいれば意思疎通ができるとクレタは言っていた。意思疎通ができれば「彼」はそれほど恐れる存在ではないという。だからそのための先視もまた、特別なのだ。

 こぼすように「特別」と呟いたルーシェを、フォルセティは一瞥した。ルーシェはそれに気づいたが、視線を返すようなことはしなかった。彼女はフォルセティも特別であることを知っている。ルーシェの隣にいながらユーレのことがわかるのもそうだし、以前森で対峙したシルカが彼につけた傷も、今ではもう跡形もなかった。

 ルーシェには何も特別な能力がない。フォルセティのように竜と結びそれを使うこともできなければ、クレタのように聾者に声を届ける力もなかった。虫の音を聞くことができるのも十分珍しいとは言われたが、だからと言ってルーシェにはそれがふたりに並ぶ「特別」だとは思えなかった。他人の役に立つ力ではないように思えて。

 ずるい、という言葉が先に浮かんだが、それは呑み込んだ。あまりに自己中心的で、情けなかった。次に出てきたのは悔しさだった。自分は守られるばかりだと感じて、やはり、情けなかった。

 器の中に目を落としたままのルーシェに、どうした、とフォルセティは尋ねたが、彼女は頭を振っただけだった。

 今朝方見たのは、ただの夢だ。

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