第5章
1 / お伽噺、夜の声
「まものは、その森を通り抜けようとする人々をいつも見ていました。
いつもいつも、見ているだけでした。
近寄れば怖がられるから、手助けもせず、ただずっと、少し遠くから。
けれども迷って戻った人々や、それを迎えた家族や恋人、友だちは
口々にまものの悪口を言い、彼を呪いました。
皆、まものが悪さをしているのだと思っているのです。
そして、その森の向こうに、たからものを隠していると思っているのです。
まものは暗い森の中からその様子を悲しそうな顔で見、やがて決めました。
まものは、じっと見ているだけにするのをやめました。
自分は悪いことはしないのだと知ってもらうことにしたのです。
だから今あなたは、まものの名前を呼んでみなさい。
まものはきっと、少しのおしゃべりと引き換えに道を指し示すでしょう」
「興味深いね」
少し乾いた、それでも決して聞き取りづらくはない声だ。大きくも、小さくもない、落ち着いた声。足元までを隠す濃い藍色のマントをまとい、フードを深く被っているため、表情を知ることはできない。
外はとうに夜の帳が降り、出歩くものもない。集落の外れには巡業の途中の風の民がとどまっている。
老婆と青年がいるのは蝋燭の灯が照らす薄暗い小屋の中だ。壁には分厚い織物が隙間なく張られている。長い年月で色褪せているが、小さな灯に照らされたそれらの多くは、もともとは深い赤だった。
老婆の座る椅子は大きなクッションや布で満たされ、小柄な主をその中に埋めるようにして守っている。相対する青年の腰掛けた椅子は素朴なスツールだ。老婆は頬をくいと上げ、青年を見ながら穏やかに言った。
「お伽噺は勝手に生まれるものさ。『まもの』にはいろいろ不本意なこともあろうがね」
「ああ、いや。興味深いのはそこじゃないんだ」
「ほう?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて首を傾げた老婆の前で、青年は目深に被っていたフードを外した。三十代に踏み込んで間もないくらいの、整った顔だった。
無造作に放り出していた長い脚を組むと、青年は老婆に合わせるように首を傾げて答えた。
「よくまあそんな昔からのことのように語れるものだと感心したんだよ」
「お伽噺とは、得てしてそんなものだろうに」
老婆が苦笑いしながら答えると、青年は肩をすくめて立ち上がった。
マントの裾が翻る。中に星座が光っている。織り模様でも刺繍でもない、本物の星が瞬いていた。老婆が瞬きをする間に青年の姿は消えていた。
老婆の耳は、音を失って久しい。
その集落の外れにいつものテントを準備してひとつの大きな火を囲み、片付けをしたら談笑し、誰からともなく床につき始める。そんな生活にもかなり慣れた。ルーシェは満天の星空を見上げた。
視界の端から端までを横切るように、数え切れないほどの小さな星々が集まって帯を作っている。あれを川に例えた国が過去いくつもあったそうだし、ルーシェもその気持ちはわかる気がする。けれども彼女の国ではそうは呼ばない。皆あれを「竜の飛跡」と言う。
「なら、ところどころの大きな光は、竜に振り落とされた『虫』かしら」
瞬きをしたルーシェの隣で、ん、と呟いてクレタも空を見上げた。
「ルーシェは、実際竜の飛んでいるところを見たことがあるの?」
「ないのよ、実は」
「そう。私も」
だからあんなふうに飛んだ跡が光るのかは、とクレタが肩をすくめると、ルーシェは少し残念そうな顔をしたので、クレタは続けた。
「見てみたいの、ずっと。小さいころから。あれよりもっときれいだと思うし」
「そうね」
ルーシェがそのまま視線を降ろしていくと、クレタが「魔物」がいると言った森が見えた。日のあるうちは枯れた木立ばかりが目に入り、ずいぶん貧相な森だと思ったものだが、暗くなってから見たそれはまるで何かを突き刺すための槍のようでも、敵の侵入を防ぐための壁のようでもあった。
「ねえ。クレタ」
火のそばでベンチ代わりの丸太に腰を降ろしていたルーシェは、隣で脚を伸ばして足首を交差させたまま上を見上げていたクレタに顔を向けて尋ねた。
「魔物ってなんなの」
「ああ、別にどうってことないのよ。ただあの森、結構奥まであるから。ここまで歩いてそこそこ疲れてるときに、あそこの中で夜明かしはしたくないからね、準備してから抜けようって。そんだけ」
「じゃあ魔物というのは何かの例え?」
「ううん。それはそれで実際、いるのよ」
要領を得ない会話にルーシェは肩を落とした。
「じゃあ何がいるの?」
「ええと……私も見たことはないからうまく説明できないんだけど。ただ、私たちは彼の名前を知っているし、彼と意思疎通できる先視もいるから、もし会っても大丈夫」
「彼? 人間なの?」
「違う。人の形をしていることもあるようだけど」
ルーシェは結局納得はできなかったが、その顔を見てもクレタは苦笑いするばかりでそれ以上答えようとはしなかった。彼女自身も詳しくはわからないのかもしれない。風の民として旅を続けてきた彼女には、本から知識を得るばかりだったルーシェにはないさまざまな見識があるが、それとて決して万能ではない。
だからルーシェは、肩を抱いて少し震わせると、冷たい風を追いやるように大きく息を吐き、先に休むね、と言い残してその場をあとにした。
その晩、ルーシェは夢を見た。泥の混じったような紫の空を稲妻が裂いていく下を、砂地に激しく雨が打ち付け容赦なく風が髪をなぶる中を、ひたすら馬を駆る青年の姿。
そちらに行ってはいけない、と思った。だから彼女は彼の後ろ姿を呼び止めようとしたが、その言葉は声にならなかった。そこにはなんの音もなかった。叩き付ける雨の音も、視界を白く奪う雷鳴も、暴れ狂う風の音も、力強く地を蹴る
いぶしたような色の金の髪だ。フォルセティと同じくらいの長さ。あの青年は誰だ。そっちへ行ってはいけないと思ったのはなぜだ。
どうして自分は彼の名前を知っている?
ルーシェは彼の名前を叫んだ。彼は振り返った。重たい風と激しい雨の中、酷く、ゆっくりと。彼の榛色の瞳と目が合った。
音を得た嵐が視野を闇にかき消した。
ルーシェは飛び起きた。背中が汗でじっとり濡れていた。周りを見回すと、いつものテントだ。いつの間にか隣ではクレタが寝息を立てていた。
誰も起こしてしまいはしなかったようだ。ルーシェは安堵の息をつき、膝の上に置いていた手で額を覆うと呟いた。
「フォルセティ=トロイエ」
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