9 / 風と羽根

 シルカはいつもこうして、人目に付かない木立や茂みの奥で短い休憩を取るだけにしている。そして彼女はそれに不満を感じることもない。正確には、そう感じることをやめた。そのほうが楽だから。


 クレタが去ったときには、まだ母のことを愛していた。母はいろいろなことを教えてくれた。でもそれが母にとっては刃を研ぐ作業でしかなかったのだと知ったのは、母があの荒れ果てた庭を育て始めたころだ。コードの知識を頼みにされることが減り、イヴァレットは目に見えて機嫌が悪くなった。彼女は自分にしかできないことを手当たり次第に探し、シルカに様々な命令をした。シルカがそれを指示どおりに終わらせても、イヴァレットは形の上では褒めこそすれ、喜びはしなかった。当たり前のことを、当たり前にした。そのことは認めるというだけ。

 それに気がついたときにはシルカはもう、イヴァレットの道具でしかなかった。


 もともとはシルカも、クレタと手を携えガイエルを去るつもりだった。母と離れるのは嫌だったが、クレタと離れるのはもっと嫌だった。

 それが実現できなかったのは、追っ手がシルカを優先したからだ。その理由はこの呪わしい、母と同じ両目。青い片目を持つのがクレタではなく自分であれば、あのとき王城の衛兵が選んだのは自分ではなくクレタだったはずなのだ。

 そうして自由を手に入れたクレタは今も、自らの生き方を自分で決めている。それを妬ましく感じることが悔しくてならなかった。母のところに連れ戻されたとき、一瞬でもほっとしたことを今でも覚えているから。この妬ましさが、あのときの自分の愚かさを認めるようで、絶対に受け入れたくなかった。

 シルカは夜の闇が暗く染め抜いた森の木の根元で、眉を寄せ目を閉じたまま奥歯を噛んだ。


 彼女には現在も与えられた任務がある。イヴァレットは相変わらず彼女に、ルーシェの持つ本を奪えとの指示をしたままだ。その理由をイヴァレットは言わないし、シルカも聞かない。聞いたところで「知らなくていい」と言われるのが目に見えている。

 そんなふうな扱いを受ける以上、シルカもちょっとした抵抗はしてきた。たとえばあの本をていよく盗み出せたら、イヴァレットが一番避けたいのであろう解読を試みてやろうと思った。それでユーレのあの部屋で本を見つけたとき、すぐに去らずにほかの本まで参照していたのだが、それでルーシェと鉢合わせてしまったのだから、今となってはあれは失敗だったな、と思う。

 でも、そうして失敗しても、イヴァレットは何も言わない。淡々と次の指示をしてくる。シルカにはそれも嫌で嫌でならなかった。期待外れですらなかったと言われたかのようで。そして「期待してほしかった」と思っていたことに気づかされるから。

 かと言って、イヴァレットの許を去りガイエルを出てクレタたちのところへ行くかと聞かれれば、それも考える気にならなかった。クレタが自分のための「居場所」を準備しているのは知っていたが、安全な場所でそんなことをするだけで助けにも来ない彼女を、シルカはどうしても頼りにしようとは思えなかった。彼女の周りが見え透いた嘘を受け入れ、シルカを待っているような態度でいることにも腹が立った。偽善者の群れとしか思えなかった。


 タイガの正妻スティリアやほかの側室、また侍女たちも、イヴァレットの連れ子であるシルカを無視するか、そうでなければ陰惨な仕打ちをした。表向きには哀れみ。本質は侮蔑だ。タイガだけは話をしたそうな顔を見せたこともあるが、それも好奇心でしかないだろう。

 だからシルカは周りのことを、イヴァレットに伝えることはなかった。自分がそれで傷ついていると思われたら癪だったし、もとより頼りにするつもりもなかった。

 そうしてシルカは、ずっとひとりで耐えてきたのだ。

 ひとりで立つ。誰にも頼らずに。それがシルカの矜持であった。

 

 

 いよいよ冷たい風の吹く荒れ地が近づき、ルーシェは借りもののストールを巻き直した。

 彼女がこれまで羽織っていたのは、日差しの強く、気候の温暖な(むしろ暑い)ユーレで使っていたものだった。王家に納められたそれは、これまで通ってきた地域のどんな織物と比べても遜色ない上等なもので、日の光を受けて黄から緑に移り変わるさまもとても美しかったが、もともとがあくまで日差しを遮る目的のものだから防寒向きではない。対して彼女が今巻いているのは動物の毛で織られた厚いものだ。ややくすんだ芥子からし色をしており、見た目はずいぶん重そうだったが、巻いてみると意外に軽くて快適だった。

 これを貸して——おそらく返す機会はないだろうが——くれたのは、道中少しだけ一緒になった風の民の女だ。クレタたちとは別の部族で、衣装の雰囲気も少し違った。歳はルーシェとそう違いそうになかったが、娘のために準備したものだという。ただその娘は自らの足で立つことを覚える前に、流行病で世を去ってしまったのだそうだ。


 風の民はみちの半ばに生まれ、またその半ばで死んでいく。仲間と旅をするのは、過去から未来に連なる線の、ほんのわずかな間だけだ。「それは、空から舞い落ちてきた鳥の羽根が人に触れ、しばし肩に留まってから地に落ちるようなものだ」と、寝ずの番の男がいつだったか、フォルセティに話していた。横で聞いただけのルーシェにも、その言葉は強い印象を残している。

 羽根は地に落ちてもまた舞い上がり、再び誰かと時を共にすることもあるだろうとその男は笑っていた。風の民の命は、死と生で区切られはしない。永遠に続く旅の途中で繰り返す、連綿と続く命。

 生と死が——ルーシェとこのストールを貸してくれた女とのような——出会いと別れのありかたのひとつに過ぎないというその考え方は、ルーシェにとっては全く想像したこともないものだった。フォルセティもそのときはかなり神妙な表情で聞いていたから、彼も似たような思いだったのだろうと思う。何より彼は、あらゆる信徒の生と死に関わる聖職者プライアなのだから。


 隣ではクレタが、相変わらずすらりとした脚を投げ出すようにして歩いている。彼女の薄着は変わらない。ルーシェはこの寒さの(というより、花虫の恩恵を受けられない)元凶であるオトを睨むように上を見た。頭に乗っているから、目には入らないのだが。


 曇天の下、やがて小さな集落が見えてきた。クレタに聞くとあれはまだ目的地ではないらしい。空を覆う雲と同じ陰鬱な色の建物たちは、すぐ奥に枯れたような色の木立を臨むためか、まるで老いた門衛のように見えた。

「あそこはまだ違うのよね」

 ちらりとクレタに目をやり、ルーシェは道の先に視線を戻した。クレタが頷く。

「シオンは森を抜けて、もう少し先だよ」

「今日、森に入る?」

 空を仰ぐと、クレタは肩をすくめてみせた。

「まだ時間はあるけど……今日は手前で止まると思う」

「森の中には休むところがないの?」

「ううん……そういうわけでもないとは思うんだけど。なんていうか、まあ、迷いやすいの。上手くいけば数時間で抜けられるけど、下手すると数日は森の中をうろつくことになる。旅人を惑わす魔物が出るのよ。だからちょっと用意と覚悟の時間が必要で」

 そう言ってクレタは悪戯っぽく笑った。

 ルーシェにはクレタのいう魔物が何を意味するのかは(あるいは単なる冗談なのかも)わからなかったが、とりあえず相槌を打つと再びその森の方へ目を向けた。

 

 ユーレにいてはほとんど見ることのない色の木々だ。フォルセティがメーヴェで使ってみせた術の、萌える若葉とはあまりに対照的。

 触らずともかさかさと音を立てて崩れそうな乾いた色の樹皮に覆われた、それでもそれなりに背の高い幹が幾本も重なって奥への視界を遮っていた。枝打ちされているのか、それともあのような形の木なのかはわからなかったが、上のほうに行くまで梢はほとんど広がらず、ただまっすぐな幹が伸びている。まるで檻のようだとルーシェは思った。

 あの向こうが『シオン』、アルファンネルの待つところだ。


 不意に背中を冷たい風が撫でていき、ぞっとしたルーシェは振り返った。

 後ろを歩いていたフォルセティがその表情を見てか、驚いた顔で瞬きをした。

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