8 / ふたつの翼

 日が沈み始めると、シオンの地に住まう風の民は巡業中と同じように、自分たちの住居で取り囲んだ中央広場に火を起こす。巡業をやめたものたちの間でもその習慣は未だ守られており、人々は床につくまでのしばらくの時間を炎を囲んで談笑したりして過ごし、そしてねぐらへ戻るのである。

 しかし今日、ファラン——アルファンネルはその場にはいなかった。彼女は自分の家(彼女自身はこの地に定住することをよしとしてはいなかったが、それでも一応この場にとどまっている以上、彼女の周囲の者は高齢の彼女に、テントよりは保温性のある「家」を用意した)の中、簡素なテーブルの上に水盤を置き、その真ん中に少し高さのある燭台の足元を沈めて、水面に映る炎を眺めていた。

 この部屋には今、それ以外には明かりがない。部屋の隅のほうはそんな光では照らしきれず、家財道具の輪郭もおぼつかなかった。

 カーテンの隙間から漏れてきていた外の明かりも、この時間になれば炎が小さくされて弱くなっている。もう夜の番以外は眠りについた頃だろう。蝋燭の火を揺らす羽音と、それに応えるように現れた水紋に目を落とし、アルファンネルはひとまとめに整えられた白髪がちの髪を撫でてから顔を上げた。

「来たね」

 テーブルを挟んだ彼女の向かいには、蝋燭の炎を見下ろすようにしてシルカが立っていた。


 アルファンネルがシルカに向かいの椅子を勧めると、シルカは遠慮もせずにそれを引いて腰掛けた。ただ彼女の引いた椅子の位置はテーブルについたというよりも、その前で気の進まぬ尋問を受けるかのように引き離されている。彼女はそこで脚を組み、膝の上に両手を重ねた。決して丁寧な仕草ではなく、横柄さを感じさせるぞんざいなやり方で。

 シルカは黒いフードを被ったままだ。彼女の白い顔が橙の蝋燭の火にゆらゆらと照らされた。その目は鋭かった。アルファンネルのような相手ならば今すぐにでも首を掻き切ることができそうだが、シルカはそうはせず静かに口を開いた。

「ごきげんよう。エルヴェンネル」

 アルファンネルは眉を顰めた。それはあまりに小さな変化だったので、普通なら見落としてしまうくらいのものだが、シルカは見逃さなかった。彼女は続けた。

「『青い本』のことで来た」

「あの本がどうかしたのかい」

「見殺しにしただろう? フォルセティ=トロイエを」

 アルファンネルはしばらく口を閉ざしていたが、やがて観念したようにため息をついた。

「あんたは超一級の先視になったね。未来だけでなく、過去もる」

「自分の役には立たないよ。使われるばかりで」

「あんたの力があれば、父親を知ることも容易たやすかろうが」

 ふん、と鼻を鳴らしてシルカはフードを外した。

「青い本のことを聞きに来た。それ以外の話をするつもりはない」

「そんなもの私には知る由もない」

「先頃『あの本』と言ったな? 動揺したか?」

 アルファンネルはため息をついた。


我らは汝を愛すアルファンネル」という彼女の名を、王妃としてユーレに残るという選択をしたあと、いくらかのものは嘲笑混じりにもじって呼んだ。ごきげんよう、「我らは汝を愛さぬエルヴェンネル」。

 それをきっかけに彼女は居場所に悩み、心の均衡を失い、夫イスタエフの許を離れることを考え始め、やがてクーデターの混乱に乗じて国を抜け出したのである——彼女とその娘の保護のため王宮内を駆け回ったナイト・フォルセティ=トロイエの背を一度は目にしながら、それでもそれに声をかけることもなく、結果的には見殺しにして。

 それよりずっとあとに産まれたシルカがそんなことを知るはずはないのだ。その母親のイヴァレットでさえまだ物心つくかつかぬか、くらいの子どもだったころである。それでもシルカは知っている。彼女は「知っている」のだ。アルファンネルがそれを一度たりとも口にしたことがなくても。

 シルカは「それ」を見ていた虫を見つけ、捕らえ、そしてる。しかしシルカとて表に現れることのなかった秘密を見抜くことはできない。だから彼女はこうして「本」の示す真実を聞き出しに来た。


「あの本には」

 アルファンネルは、そこで息を深く吐いた。シルカは向かいで目を細めている。

「あの本には……タイガの目論見が書いてあったそうだよ。風の民の翼を借り、自らの足では届かぬ王冠に手を伸ばす。そしてそれを我がものとした暁には、唯一己の上にある翼をも食ってしまおうという魂胆さ」

「それだけか」

「陛下は多くを語らなかったからね。数十年かけて実現するつもりのようだとも聞いた気がするから、そろそろ仕上げの時期だろうが。タイガの年齢的にもちょうど良い頃合いだし」

「あの男は風の民を片付けるつもりだとでも」

「私に答えられることではないよ、わかっているだろう。ただ使って汚れた道具を大事に残しておくような男かどうか。あんたの見立てはどうだい」


 シルカはため息をつき、立ち上がった。椅子をそのまま、フードを被る。

「おや。老いぼれはこのままで良いのかい」

「もう用がない、という保証がない」

「あんたにわからんはずがなかろうに」

 目を細め、口角を上げたアルファンネルを睨みつけると、シルカは右腕を挙げた。それに応えるように羽音が彼女にまとわりついた。彼女の使う虫が部屋の隅に隠れていたのだ。

 アルファンネルには目もくれず、シルカは顔の前に何か指で文字を書いて短い言葉を唱えた。きんと高い音がして羽音が止んだ。アルファンネルはそのままシルカが立ち去るのだろうと思ったが、シルカは口を開いた。アルファンネルは思わず、伏せていた目を見開いた。

 シルカの声は決して大きな声ではなかった。もしかすると独り言だったのかもしれないが——「風の民だけではない」と彼女は呟いた。

「どういうことだね」

 アルファンネルが尋ねると、シルカはアルファンネルにすいと目をやり、またすぐに前に戻した。

「あの男の使う鳥は渡り鳥だけではない」

 シルカは吐き捨てるようにそう言うと、瞬きの間に暗闇へ姿を消した。

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