6 / それぞれの庭で

 ユーレの水竜が放った浮虫がイヴァレットの四阿の水盤へ戻ってきたのは、そのすぐあとのことだった。

 昼の陽が真上まで昇り、ちょうど彼女が水盤の下を去ろうとしたとき、その虫は水盤の縁にたどり着き、わずかな振動が水紋を柱になげかけた。イヴァレットは眉を上げると頭上の水盤に目をやった。

 彼女とて可視化もしていない虫が見えるわけではない。それでもその浮虫が自分が放ったときとは様子の違うことはすぐに感じ取れた。彼女は舌打ちをした。握り潰してやりたい衝動にかられたが、手が届く位置でもない。

 しかしそれで諦めて引き下がるのも、彼女の腹の虫が収まらなかった。どうしてやろうかと考えた彼女は足元の鏡を蹴り、ひっくり返した。そこにはコードが刻まれている。彼女はその前で少し長めの歌を歌い、その歌に呼応するように輝きだした円は水盤の真下を照らした。水を通った光がドームの内側を照らす。

 その光は今回はかなりはっきりとした像を結んだ。イヴァレットは目を細めた。これほどまでに鮮明な映像になるのは相手が接触を許しているからこそ。それが意味するのは、この虫を彼女の手から奪い取り、再びその下に差し向けたものは、この機会を待っていたということだ。


 ドームに投影された映像では、椅子に浅めに腰掛けた女性が脚を組み、イヴァレットのほうを見下ろしていた。どうやら向こう側では水盤は床に置かれているらしい。こちらは見上げ、あちらは見下ろす。イヴァレットは不快感を覚え、指をぱちんと鳴らすと中庭に降りた。噴水の縁に腰掛けると、先ほど見上げた映像は今は滾々こんこんと湧き出し流れる水の幕に目の高さで映し出されていた。

 向こう側の女性もイヴァレットと同じくらいの年齢だ。組んだ膝の上に乗り出すように左肘を乗せて頬杖をつき、こちらを見ている。薄紫の瞳、薄い焦げ茶の髪。赤と黒の上質な布地と手の込んだ刺繍が施された衣装。宗教に一切関心のないイヴァレットにも、それがサプレマだということはすぐわかった。背後には建物に切り取られた空が少しと、花の美しく飾られた壁が見える。あちらがいるのも恐らく、どこかの中庭のような場所。イヴァレットは気づかれぬようゆっくり息を吸い込んで、口火を切った。

「私の使いが何か粗相を?」

 水を通して繋がった向こう側のサプレマ、フリッガ・コンベルサティオはやや垂れ目がちの顔立ちをしている。彼女はイヴァレットの声に口元を緩めて小首を傾げた。

「いいえ。私の庭で迷子になっていただけです。たくさんいたので、一番利口そうな子にお願いして親御さんを教えてもらおうと思って……失礼、名乗るのが遅れましたね」

「存じ上げております。大変なご無礼とお手数を」

「とんでもない。ところで、残りの子をお返ししたいのですが?」

 笑顔のままのフリッガに眉を上げたイヴァレットは、白いドレスの下で脚を組んだ。これは交渉だ。不用意な答えを返せばこちらが不利になる。イヴァレットは少し考えて答えた。

「そのまま放してくだされば結構。勝手に戻ってまいりますので」

「そうですか? こちらの気候が気に入ったと言って帰りたがらない子も多いようです。よろしければ遊びがてら、そちらから迎えにいらっしゃいませんか」

「私はこの地を離れられぬもので」

「そうですか? ですがガイエルはお寒いでしょう」


 相手はこちらの位置を把握している。イヴァレットは背筋が冷えるのを感じた。

 しかし彼女は、サプレマが普段政治には極力関わらないようにしていることも知っている。それはここ数十年の国際情勢をある程度把握していればわかることだ。そしてその方針を打ち出したのは当代サプレマ、今目の前でにこにこしている女のはずだった。ならばこの女は一体どういう理由で自分に接触してきたのか——イヴァレットは少し考え、すぐ結論に達した。先日クレタに握り潰された虫が直前に映した映像に残っていた少年は、この女の息子だったはずだ。

 とは言えである。目的がなんであるにせよ、今ユーレに騒がれるとすべてが台無しになりかねない。とりあえず釘を刺しておかねばとイヴァレットは思った。どのような言葉を、どのような態度と口調で繰り出すのが最も効果的か。

「そう。特にここ数日いつにも増して冷え込んでおります。ご子息のこと、さぞご心配でしょう」

 イヴァレットは目を細め、相手の出方を窺った。水の向こうでフリッガが眉を上げたのがわかった。まあ成功と考えていいだろう。彼女は畳み掛けることにした。

「ご同行の王女殿下も、薄汚い鳥どもの間でさぞかし惨めな思いをされているであろうと思い、先日使いに出した娘に、おふたりにお召し物をお持ちするよう言付けたのですが。あの子はこれから赤に染めると」

 相手が無表情になるのを目にし、イヴァレットは勝利の悦びが胸の奥を温めていくのを感じた。

「娘は言い出すと聞かないのです。王女殿下もご子息も、ゆめゆめお気をつけあれとお伝えください」

 イヴァレットは余裕の笑みを浮かべた。彼女は相手が口を開くのを待たずに立ち上がると、広がった袖口をなびかせて腕を払った。その薄布の向こうで、水に映っていた映像が消えた。


 映像の掻き消えた水盤の前で、フリッガは座ったままうなだれると深く長い息を吐いた。

「疲れた……」

 水盤を挟んで向こう側、彼女の向かいには、地面にしゃがみ、やはり膝の上で頬杖をついた格好の彼女の夫がいる。「コンベルサティオ卿」、ヴィダは欠伸をすると肘を外して立ち上がった。思い切った背伸びをすると、彼は妻を見下ろしながら肩をすくめた。もともと上背のある男である。

「なんか上滑りだったな」

「だからやってよって言ったんじゃん。昔っからこういうの苦手なの、知ってるでしょ」

「そりゃよく知ってるけどさあ。そんなん言ったって、子どもにケンカ教えてるだけの俺がやっても全然迫力ないでしょ。ハッタリに説得力が出るような肩書は今は俺じゃなくてアナタのほうがあるんだから。適材適所」

「それはぁ、そうなんですけどぉ……」

 フリッガはぼりぼりと首の後ろを掻き、水面に再び目を落とした。ベージュのタイルが敷き詰められ、鉢植えからこぼれる花に蝶や蜂が遊びにくる明るい中庭の真ん中に置かれた水盤は、もともとこんな用途のためのものではない。軽く一抱えはある浅い正方形の鉢に水を張り、水草を浮かせたそこには今は空だけが映っている。

 水面の下では小指ほどもない小さな魚が数匹ずつ、種類ごとに集まって泳いでいた。その魚は、聖地を兼ねる山奥の水源地の管理をフリッガと共に請け負っているフォルセティが、そこからの帰り道に掬ってきたものだ。この水盤の中でひとつの世界が出来上がっている。

「ガイエル、ね」

 フリッガは呟いた。その国からは聖地やサプレマの許に巡礼者が来たことは、少なくとも彼女の知る限りでは一度もない。だから彼女はその国のことはほとんど知らなかった。彼女の今いる中庭からでは、ガイエルのあるはずの方向に目をやっても、花の咲き乱れた壁が見えるだけだ。

「知ってる?」

 彼女は、いつの間にか魚に餌を与え始めていたヴィダを見下ろした。問いかけられたヴィダは顔を上げず、答えもしなかった。しかしフリッガでも名前を知っている国を彼が知らないはずはない。これでもかつて軍ではそれなりの立場にあった人間だし、今でも彼はナイトの称号を授けられたままだ。

 水面に彼の顔が映る。その表情は決して安心できるものではなかった。フリッガはため息をついた。


 赤に染める。その意味くらいわかる。さっきの女は以前訪ねてきた風の民の少女、クレタによく似ていた。そしてその双眸は、クレタが言った妹シルカと同じ。きっとふたりの母親だ。しかしその手元には「娘」がまだいるという。ガイエルの手勢であるところの娘が。

 これがユーレにとって重要なことなのかは、断片的な情報しか持たないフリッガにはわからない。しかし女王デュートには、国王としての立場だけでなく、ルーシェの母としての立場もある。ガイエルの不穏な動きに国として関わっていくのか、他国と連携を取るのか、あるいは国とは無関係に「母として」対応を選択するのか——決めるのはデュートの仕事だ。

 観念したフリッガは翌日、ジェノバのところへ知る限りの経緯を伝えに行った。

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