5 / 地を這う翼の影

 タイガ・アスタッドはよわい六十を迎えようとする今、一層威厳を増したガイエルの主である。理知的な青い目は濁りなく、ごわついた頭髪も髭も白いものが混じってはいるものの、往年の丈夫ますらおぶりを偲ばせるには十分だ。外征と凱旋を繰り返した以前のように民に姿を見せることはないけれども、民はその円熟期の王の代わりに、この城を仰ぎ見る。


 彼が今の「国」にまとめ上げる前、ガイエルは単なる地域の名称でしかなかった。いろいろな部族の集落が散在し、国を自称するものもあったけれども、実質的な国としての統制機構を持つものはない。そして、そういった「国」どうしの同盟も、肥沃とは言いにくいその地で暮らしていくための「敵対しないというだけの約束」に過ぎなかった。タイガはそうした中でも特に小さな部族のおさの妾腹であった。

 彼はその出自のため、家督を継ぐなど望むべくもなかった。文武に秀で、なおかつ極めて「物わかりの良い」少年であった彼は、次期当主である義兄や父との関係も良好で、側仕えとして常にふたりに付き従った。そしてある晩ようやく牙を剥いた彼は当主たちを手に掛け、若くして長の地位を奪取すると、精力的に周辺の小部族を併合していった。あらゆる権限と謀略を駆使し、彼はまたたく間にガイエル地方の国や集落を統合して「ガイエル」という国を作り上げたのである。彼はその後も侵略の手を緩めることはなく、イェルファンをはじめとする隣接地域にまで版図はんとを広げていった。そうした地域のひとつがシオンである。

 岩がちな山の裾野にあるシオンは掘れば水も出る地であったが、そこに暮らすのは行き場をなくした棄民ばかりであった。タイガはその理由を知っていた。彼の母もその生まれであったから。彼はそこに暮らしていたわずかな人々に別の地を与えると、その地を禁足地に指定して、情報の継承を断った。


 王城の奥、イヴァレットに与えられた離れに続く渡り廊下を、タイガはゆったりと大股で歩いた。肩には分厚いが柔らかい毛皮の肩掛け。この廊下はイヴァレットの庭を通り抜ける。今晩も色とりどりの花が、月明かりの下でそよいでいた。しかし風は刺さるように冷たい。

 庭の主であるイヴァレットは、いつもそっけないドレスを着ている。何度も温かいケープを贈ったが、着ているところは見たことがなかった。彼女曰く必要ないのだという。この庭が寒さを感じていないのと同じように。

 彼の妻たちはほぼ全員が、ガイエル建国そして拡大の過程で政略的に娶った女だ。しかしイヴァレットは違う。彼女は自ら乗り込んできた。美しさと、そして人ならざるものの手を借りるための知識という、タイガにとって極めて魅力的な武器を携えて。

 しかしその武器は、領土拡大を一段落させた今のガイエルには、かつてほどに使い勝手の良いものではなくなった。国の維持のためのシステムは、特別に優秀なひとりではなく、多数の凡人が使えるものでなければならない。そうしてタイガがイヴァレットの手を借りることが減り、その有用性が相対的に薄れると、彼女は自分からは絶対にタイガに会いに来ないから、ふたりが顔を合わせる回数自体が減った。

 ただそれだけのことが、王宮の中では彼女の凋落を意味する。

 イヴァレットがそんなことを気にするかと言われれば否という気もしたが、それでも嫌味のひとつくらいは言ってよこすかもしれない。タイガは後ろを振り向いた。きらびやかな後宮は、渡り廊下をここまで進んでしまうと全く見えない。あの独特の粉っぽい匂いももうなかった。タイガは肩掛けの下で腕を組むと足を止め、左側に見える池の中に佇む四阿に目をやった。

 柱に支えられたドーム状の天井が見える。今は誰もいないが、周りの水面が月明かりを反射して柱に水紋を投げかけていた。そこに不意にひとつ、小石でも投げ込まれたように真新しい同心円ができた。なんの音もしないが——

「あれも虫か」

 彼がぼそぼそと呟くと、吐いた息が白く濁って空に消えていった。


 タイガは廊下の先に目を戻し、足を踏み出そうとした。その足元に細い光が伸びてきた。イヴァレットの部屋からのものだった。タイガが立ち止まったままでいると、出てきたシルカが彼に気づき、部屋の扉の脇に避けて膝をついた。

 タイガが顔を上げるように言ってもシルカは頭を下げ続けた。諦めたタイガが部屋に入って扉を閉めてしまうのを見届け、シルカはようやく立ち上がった。

 シルカは大股で廊下の先へ消えていった。その後ろを虫たちが、冷やかすように羽音を立てながらついていった。


 一方、クレタたちの一行は順調にシオンを目指していた。

 ルーシェはこのほどのことで、「まじない師」のシルカへの疑いも、その姉であるクレタへの不信もが一気に払拭されてしまい、晴れやかな気分だった。それと同じように晴れた空の下、彼女はいつもどおり一行の最後尾近くをフォルセティと並んで歩いていた。

 横から吹き付ける風は冷たいが、大抵フォルセティが風上のほうを歩いているので、ルーシェは風が直接当たるのを避けられている。もっともそれはルーシェが自分から移動をするからそうなっているだけだ。代わりに直撃を受けているフォルセティは「オトがいるんだから少しは和らぐはずだし、風上引き受けてよ」などと言うのだが、ルーシェは聞き入れたことがなかった。寒いものは寒いのである。

 ただ、晴れやかな気分には一点の曇りもないわけではない。シルカが狙ってきた本には、自分の知る以上の、あるいはそれとは全く違う情報が書き込まれているのではないか。そう考えたルーシェは人のいないところを選び、クレタやフォルセティと何度もその本の落書きを見直してみたのだが、毎回三人でフォルセティ=トロイエの画才(と、おそらくは多忙であっただろうにこれだけのものを描きこむ時間のひねり出し方)への感嘆くらいしか出てこない。それだけ細かく描き込まれており、見るたび新しい発見もあったが、それが意味のあるものなのかや書き手が意図した解釈なのかも、残念ながら三人にはわからなかった。

 それでも、今もなお狙われるということは、ここに書かれている内容はきっとレヴィオがあっさり分析してみせたような過去の出来事だけではないのだろう——ルーシェは鞄ごしに本を抱きしめた。


 あの晩のあとも、ルーシェは誰にもクレタ(とシルカ)の秘密のことを話していない。だから今、その秘密を知っているのは、ルーシェとフォルセティのほかには、母の下から逃げ戻ってきた幼いクレタを最初に保護したアルファンネルだけだ。ルーシェはそこでまた、祖母との共通点を見出した気がして、少し胸の内が温まる思いがした。

 とは言え、クレタは内心ではどうなのだろうと思う。ルーシェは、こうして一日中共に行動する仲間に十年以上もばれていないのはかなりすごいことだとクレタに感嘆してみせたが、彼女は大変さなどおくびにも出さず「皆はシルカのこと相当変わりものだと思ってるはず」と笑っただけだった。

 なのに、あの晩見たシルカは決して友好的ではなく、また感謝している様子もなく、むしろクレタを敵視あるいは見下しているように感じられた。ルーシェは、仲間をだましてでも妹の居場所を守り続けてきた姉に対してその態度はなんなのだと憤慨したくもなったが、フォルセティに言うと「それはシルカにしかわからない」と張り合いも何もないことを言うし、クレタに直接伝えても、彼女は「ありがとう」としか言わなかった。


 前方を進む風の民の面々は、いつもどおり賑やかだ。

 ルーシェはふと、もしかしたら皆気づいていて、それでも黙っているのかもしれない、と思った。ただ、それを口に出してはならないのだとも思い、言葉は呑み込んだ。言葉にしない限り、それが真実にはならないような気がした。


 今晩も、木立の開けた場所に泊まる。目指す地シオンまで、あと十数日。

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