4 / 神の歌、王の風

 クレタはその場に立ち尽くし、シルカの行ってしまったほうを無言で睨みつけた。それを傍目にルーシェは仰向けのフォルセティに走り寄り、その傷口を探したが見つからなかった。正確には傷を負った様子はしっかりあるのに、傷自体はどうやら塞がっている。

「シルカに受けた傷は、これよね?」

「そうだよ」

 フォルセティはまだ乾ききらない血の滴る左腕を振ってみせた。衣装の色のせいで出血の広がり方はあまりわからない。ただ、脇腹のその傷の確認のために布に触れたルーシェの指先にもぬるりとしたものが移ったので、その傷は決して浅くはないはずだ。


 メーヴェでオトを拾ったときに彼が見せた、あの植物がするすると育つ術は竜の力を借りるものだから、ルーシェの国ではサプレマか彼しか使えない。そしてルーシェは彼がだいぶ頑丈だということも彼の母サプレマから聞いている(サプレマは続けて「なので多少雑に扱っても大丈夫ですよ」とも言っていた)。だからルーシェも一応、理解はしているつもりだった。

 しかしこうして彼の傷があっという間に治癒してしまうのを目の当たりにしたのは初めてで、それはルーシェをかなり動揺させた。その様子を見たフォルセティは脚を上げ、勢いをつけて背を起こした。傷そのものは塞がっているものの失血は変わらない。彼は目眩で少し頭をぐらつかせたが、そのまま大きく息を吐くと、あぐらをかいてルーシェの顔を見、にんまりと笑った。

二十歳はたち過ぎたらこんなにすぐには治らなくなるってさ。だからそれまで我慢してくれたまえよ。気持ち悪い俺を」

「違う。別に、気持ち悪いなんて思ってなくて……驚いたのよ。それだけ」

「そうかい。ところでほかに聞きたいことは?」

 傷のあったところを掻きながら肩をすくめてみせたフォルセティを見、ルーシェは両膝をついたままため息をつくと、後ろのクレタを振り返った。


 クレタは観念したように肩を落とし、ルーシェの隣まで歩いてきて、そこに両膝をつきながらフォルセティに問うた。

「もう話していい?」

「この期に及んで隠してもね……」

 そうね、と呟いたクレタは横のルーシェのほうに体を向け、頭を下げた。

「ごめんね。私、嘘ついてた」

「嘘って……」

まじない師のシルカなんか、いないのよ」

 ルーシェは眉を顰めた。

「いないってどういうこと? じゃあさっきのシルカは」

「さっきのが本当のシルカ、今は母と一緒にガイエルにいる。風の民として巡業に出ているシルカは、私」

 クレタは瞼を閉じ、右目を隠していた眼帯を取って裏返すと今度は左目を隠した。そうして彼女が開いた右目は緑色に金の縁——先視の目だった。クレタとフォルセティとを交互に見つめて目を白黒させているルーシェに、クレタは眼帯を取って両目を見せた。左は青、右は先視。

「みんなのところに戻ってくるとき片目を失ったというのは嘘よ。ただこうして居場所を作っていればシルカが帰ってきやすいんじゃないかと思って」

 ルーシェが眉を寄せたまま首を傾げると、クレタはいつもの「クレタ」に眼帯を戻しながら続けた。

「ファランはまだユーレにいた頃、国王だった夫から、ガイエルが風の民を利用して勢力を伸ばそうとしていることを聞いて知ってた。だからその国から今後シルカが戻ってきても、皆シルカをガイエルの手先と疑って、簡単には受け入れないかもしれないってなって。それで私はファランと相談してシルカを演じることにしたの。シルカの居場所を準備して、いつ戻ってきても入れ替われるように。皆をだますことにはなるけど……」

「でも、お母さまは?」

「あの人は今はガイエル王の側室。負けず嫌いのプライドの高い人で、風の民の中で先視として生きることを毛嫌いしてた。だから今はガイエルで、皆に一目置かれる存在であろうと躍起になっているはず。今更、捨てた古巣に戻ってきたりなんか絶対しない」

 母の話をするクレタの口ぶりは突き放すようで、ルーシェはそれ以上深くを尋ねることができなかった。それでも彼女はクレタに何か言おうと思ったが、口を開きかけたところでフォルセティが立ち上がり遠くに目をやったので、ルーシェも彼の見ている方向を振り向いた。明かりを手にした数人の風の民の男が近づいてきていた。

 クレタのこの話は、彼らには当然秘密のはずだ。ルーシェは浮かない顔をしているクレタに頷くと、自分もまた立ち上がり、やってきた男たちに頭を下げた。


 何ごともなかったかのように歩き出したフォルセティと並び、ルーシェは頭の上にいつもの姿のオトを乗せて木立の中を戻った。クレタはふたりの前にいて、男たちに聞かれることに答えたり、自分から話をしたりしている。

 フォルセティの顔は心なしか白い。かなりの出血があったはずだから気のせいではないはずだ。ルーシェは彼を気遣う言葉を口にしかけたが、彼がばつの悪そうな表情で腰の後ろを触っているのに気づき、引っ込めた。目下の彼の関心は傷のことではなく、そこにしまってある得物のようだ。さっき手にしていたその棒は、今は彼の腰の幅に隠れてしまうくらいに縮められている。

「あんなの持ってたのね。そうやってしまっておけるの、便利ね」

「母さんのだよ、ふたつあるうちの片割れで一応祭具っていう扱いになってる。でもやっぱり俺にはまだ全然早いわ、本当はああいう使い方するもんじゃないんだ」

「使い方?」

「うん。あれは本当は……まあ、いいや」

 フォルセティが背伸びをするように両手を上げると、彼の左腕にひっかかっていた荷物の硬い部分が彼の頭に当たった。去りしな、シルカが投げてよこしたルーシェの鞄だ。フォルセティは右手で頭を押さえながらその場に座り込むと、左手にあるそれを地面に叩きつける準備のように振り上げた。

「ちくしょう……」

「ちょっと、ちょっと。取り戻してくれてありがとう、だけど、乱暴にしないで」

 ルーシェが手を伸ばして鞄を取り上げた。フォルセティはあっさりそれを手放して、立ち上がりながら聞いた。

「そもそもすべての元凶はそいつなんだよ。何が入ってンだよ」

「あの本よ」

 フォルセティは目を丸くした。

「あれ持ってきたのかよ」

「シルカはそれを狙ったんだと思う」

「なんだそれ……『フォルセティの青い本』とか言うから」

 フォルセティはルーシェが抱えた鞄を見つめながら続けた。

「でさ。意味わかんないから、俺のなんだってって聞いたらあの野郎、じゃねえな、シルカの奴いきなり襲いかかってきやがってさ。全然話聞かねえの、あいつ。獣か?」

「それたぶんあなたじゃなくて、あなたに名前を受け継がれたフォルセティ=トロイエのことよ。書き込みをした人が誰か、これではっきりした」

 ルーシェは後ろを振り向いた。そこにあるのは、星の光が変わらず照らす地面だけだった。


 クレタと一緒にテントに戻ってシャルムジカの相変わらずな歓迎を受けると、フォルセティはテントの真ん中を通ってそそくさと隅に向かい、そこで丸くなると即座に寝息を立て始めた。シャルムジカはそれに肩をすくめ、ルーシェたちのほうを向き直るとクレタに聞いた。

「どうだったの? 捕まえられた?」

「ううん、取り逃がしたわ」

「なあに。あの子あんまり当てにならないのね」

 シャルムジカがテントの隅に目をやるが、フォルセティは微動だにしない。ルーシェはシャルムジカに言った。

「でも荷物はちゃんと取り返してくれたんです。それに、たぶん、捕まえようと思えば、できたと思う」

「わざと逃したの?」

「何か考えがあるんだと思います。ね」

 ルーシェが横を向くと、クレタは一瞬眉を上げ、ゆっくり頷いた。

 シャルムジカはしばらく後ろを見ていたが、ふうん、と呟くと前を向き、気を取り直すようにルーシェとクレタの頬をさすってからふたりの肩を叩いた。

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