3 / 偽りの姉妹

 ルーシェの前でクレタは一瞬逡巡したが、すぐ振り返るとテントのほうへ駆け出した。彼女の身につけている装飾品がしゃんしゃんと激しく音を立てた。ルーシェも慌ててそのあとを追った。

「待って、どうしたの」

 ルーシェは走りながら、横に並んだクレタに尋ねた。クレタにこうも簡単に追いつけるということは意外と自分は足が速いのだなとルーシェは自分で感心したが、たぶんそんなことを考えている場合ではない。

 クレタは何も答えなかった。ルーシェは横から彼女の顔色を窺ったが、その表情は険しいものである以外、何も読み取れなかった。ルーシェは前を向き直り、クレタに続いた。


 視界が開け、テントとその中央に焚かれている火が目に入った。火はさっきよりずっと大きく仕立て直されている。この時間にしては異常なことだ。その周囲の騒がしさも見れば、何かあったことはすぐにわかった。クレタとルーシェは自分たちのテントに向かった。

 出入り口付近でばつの悪そうな顔をしていたのは、今日の番を頼まれていた男だった。それに何も言わないクレタと、一応会釈をしたルーシェとが中に入ると、ふたりを待っていたかのようにシャルムジカが寄ってきた。

「良かった、いないから心配してたのよ。どこ行ってたの」

「ごめん、なんか眠れなくて。それでルーシェに付き合ってもらってちょっと外に……何があったの」

 クレタは、ルーシェが口を開きかけたのを手で制しながら周りを見回した。嵐が去ったあとのようだった。乱れた布団を整えている女の後ろから、その子が涙の跡も乾き切らない顔でルーシェを見上げてきた。ルーシェは膝をついて子どもの頬を撫でながら、横でクレタとシャルムジカが話すのを聞いた。

「侵入者よ。裏の暗いほうから、黒いマントを着ていたみたいで。火の番してた連中は見逃したのね」

「誰も怪我はない?」

「それは大丈夫。狙いは最初から定めてあったみたい、私たちも気づくのが遅れて抵抗する暇もなかった」

 その言葉にルーシェは立ち上がり、テントの中を見回した。フォルセティがいない。シャルムジカはそれを見て思い出したように目を見開き、ルーシェの肩を両腕で掴んだ。

「ああ、それで。そいつ、あなたの荷物を。それを追って坊やが出てっちゃったんだけど、途中で会わなかった?」

 ルーシェは瞬きをすると、返事もせずに踵を返しテントを飛び出た。


 その場で見回してもフォルセティの姿はない。彼女はさっきの木立に向かって走り出した。何かあるとすれば、暗いほうだ。

 風を切る彼女の横で、ぼうと光るものがある。背を青白く光らせた鳥が、彼女の胸くらいの高さで羽搏いていた。羽を広げた幅はルーシェの肩から先くらいある。

 後ろから走って追ってきたクレタが隣に並んだが、ルーシェは気にせずその鳥に頼んだ。いつもの姿とは違うけれども、頭の反り返った毛も、茶色の瞳もオトのものだ。

「フォルセティのところに行きたいの」

 鳥はルーシェを一瞥し、すいと前に出ると先導を始めた。

 クレタがその鳥は何かと尋ねたが、ルーシェは名前を答えただけだった。クレタはそれで、ルーシェが竜の虫の主であると気づいたが、今のルーシェにはそれを失敗したと思うほどの余裕がない。

 オトは木々の間を縫うように抜ける。それを追うふたりの先には少し開けたところが見えてきた。


 上には梢が張っていない。星の光が直接届き、周りよりは少し明るいその場に、ルーシェは向かい合うふたりの姿を見た。

 ほっそりしたシルエットは、ルーシェと同じくらいの女性だ。荷物を斜めがけにし、手にはぎらりと光るものを握っている。対峙するのは赤と黒の衣装に、黒っぽく見える棒を構えていた。両腕を広げたよりは少し短いくらい長さのものだ。その顎から一粒の脂汗が落ちた。

「フォルセティ!」

 ルーシェが声を上げると、その名の主ではないほうが振り向いた。クレタと同じ顔だが眼帯で片目を隠していない——王宮に侵入してきた「シルカ」だ。彼女はすいと目を細め、構えていた短刀を下ろした。向かいのフォルセティは肩で息をしている。足元はねっとりと暗い。

 シルカの下ろした刃先から滴り落ちるものがある。ルーシェは目を見開いた。フォルセティは負傷している。それも、それなりの流血を伴う形で。なんとかしなければならない。立ってはいられるようだから、逃げる隙さえ確保できれば。

 しかし彼女にはなすすべがない。奥歯を噛み締めるルーシェに気づき、シルカは微笑みにも見える表情で首を傾げた。

「護衛の人選が適切でなかったのでは? 宮殿下」

「そうね。でも……」

 先が続けられない。ルーシェは必死で言葉を探したが、シルカが口を開くほうが早かった。

「そして御身も、時間稼ぎが上手くない」

「そんなことはどうでもいいのよ。それより私を晴れの宮と知るなら名乗りなさい。先日のこと、私は忘れていないわ」

「それは無礼をしたな。私はシルキアーテ、王の風。そこの『神の歌』からとっくに紹介済みだと思っていた」

 シルカは顎をしゃくり、クレタを指した。ルーシェが振り返ると、クレタは頭を振ってから一歩前に踏み出した。

「久しぶりね」

 シルカは口角をわずかに上げるだけの返事をした。クレタはそれを見てため息をつくと問い重ねた。

「あの人、元気?」

「もちろん。ただ最近はタイガが以前ほどでもなくてな。後ろ盾もないあの女は次の手をあれこれ考えて。私にはいい迷惑だ」

 ふたりを交互に見つめながらルーシェは眉を顰めた。きっと「あの人」そして「あの女」とはふたりの母親のことだ。ルーシェには到底想像のできない、母子の複雑で、険悪な関係。ただ、それより今は——

 シルカはクレタに気をとられている。ルーシェはフォルセティに目配せをした。じりじりと後退していた彼はそれにわずかに頷き、手にしていた棒を翻すと両手を音を立てて合わせ、両肘の間に渡した。

 周囲の木々がざわとさざめく。シルカは言葉を止め、手元の短刀から血を払いながら目を細めて周囲を窺うと、フォルセティを指差した。

「サプレマの後継者だと聞いたから、本物の竜とやらを見られやしまいかと期待していたが。おまえには失望した」

「うっせえな、うちにはうちの家庭の事情があンだよ。だいたい不意打ちじゃなければおまえなぞ俺だけで十分です」

「その出血で笑わせる」

「そっちこそ油断してんじゃないよ。もともと俺は手の届く範囲でやりあうのは不得手なの。いい感じの配置になるのを待ってただけなの!」

 フォルセティはそう言い放つと、ごく短い言葉を口にし、肘の間に渡していた棒を跳ね上げ再び左手に握った。手の中でするりと滑らせて端を持ち、シルカに差し向ける。息を吸い、彼はシルカをひたと見据えた。

「この先俺が指示すれば、この辺一体に根をはる草木と土は……いや、あと鉱脈もあるな、深いところにだけど、とにかくそれもすべてがおまえを捕らえてほふる。ただしおまえが今示すほうに逃げるなら俺は追わない。もちろん手ぶらで行ってもらう条件だ」

 シルカは視線だけで周りを見回した。木の幹に巻き付いていた蔦が、じりじりと目に見える速さで伸び彼女に迫っている。足元の地面は脈打ち、フォルセティを挟んで反対側で木の根の端がどうと跳ねた。

「吊るし上げられて袋叩きか、生き延びるか」

「それが私に届く前におまえを殺す選択肢もあるな」

「それができる装備じゃないでしょうが。ありがたく受けとれよ、これは取引じゃない。温情だ」

 シルカは舌打ちをした。もう蔦は彼女の脚を這い上がろうとしている。彼女は短刀を腰の鞘に戻し、蔦を振り払うようにしながら一歩下がるとクレタを一瞥した。クレタはシルカから目を逸らさなかった。シルカはため息をつくと、フォルセティに茶色っぽい包みのようなものを投げつけた。フォルセティはそれを受け取った。

 シルカが右手を上げた。またあのざわめく風が来る。ルーシェとクレタは半身引き、腕で目を守るとそれをやり過ごした。


 ささやくような笑い声がいくつも混じった風は木の葉や梢をひと暴れさせ、シルカの姿をかき消した。風の収まったあとには、情けない声を上げて仰向けにひっくり返ったフォルセティがいるだけだった。

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