2 / 鳥は謳う

 暗い森の中に少女がいる。すらりとした手足に鳶色の髪と、金に縁取られた緑の双眸そうぼう。詠唱を終えると彼女はため息をつき、空を睨むように見上げた。ユーレの王宮に忍び込んだシルカだ。

 ひと気のない木立のわずかにひらけたところで、彼女は足元に肩幅ほどの円を描いた。数等分され小さな記号がいくつも書き込まれたそれは、今でこそ薄く消えかけているが、ついさっきまで光を灯していたもの。風の民が名付けに用いる旧律によく似た、そして多くの場合はプライアが操る「コード」を、彼女もある程度は修めている。竜の虫を操るためその母から教わったものだ。

 脚を伸ばし、シルカはその文字たちを乱暴にかき消した。それから小さくまとめた荷物をたすきがけにし、彼女は方向を見定めて走り出した。

 耳元で葉を揺らし、風を切る音がする。しかし駆け抜ける足音はほとんど聞こえない。いつしか彼女の周りには虫の羽音が追い縋るように集まってきたが、彼女はそれを意にも介さず走り続けた。


 その少し前。

 かつて誰も見向きもしなかった荒れ地を根城に、近隣の小部族の国々をまとめ上げた男タイガ・アスタッドを王に戴く国ガイエル——その城の端では、日の沈み始めた庭にイヴァレットの姿があった。

 彼女はタイガの側室である。ただし彼女はほかの女たちのような、ガイエルに取り込まれた国の出身ではない。それは後ろ盾がないという意味であり、また人質ではないという意味でもある。そのような独特の立場にあり、そして何より美しい彼女を、正室のスティリアは警戒し、後宮の奥のわびしい離れに追いやった。

 最初はそれでも構わなかったのだ。イヴァレットが持つコードや旧律の知識はタイガにとって極めて有用で、スティリアをあざ笑うかのように、彼女は重用された。しかしそれも長くは続かなかった。ガイエルは国土の拡大を止めた。それは周辺の併合があらかた終わったからというのが表面上の理由だが、誰もが知っている。タイガは衰えた。

 後宮の女たち、とくにタイガとの間に男子をなした女たちが静かに色めき立つ中、連れ子しかいなかったイヴァレットの地位は落ちるところまで落ちた。もとより後ろ盾を持たない彼女はタイガに縋るしかない。しかし弱々しくしなだれかかることを、彼女はよしとはしなかった。

 彼女はこの庭を作り上げた。うち捨てられた荒れ庭を、この国の誰も見たこともないような美しい庭に。それは彼女の知識、その力、その可能性を十分見せつけるものであった。

 タイガも時折、その庭を楽しみはしたけれども——かつての炎のような野心までは戻ってくることはなかった。国を興した王は、今は国を固めることに腐心するようになり、イヴァレットの知識も以前ほどに重宝はされなくなった。

 それはイヴァレットをひどく焦らせた。十年あまり前、風の民と訣別した彼女には、ここのほかに居場所はない。タイガの関心を失うことはすなわち居場所を失うことだ。ならばかつてとは違う、今のタイガにとっても価値のあるものを。だから彼女は「本」を取り返そうとした。

 辺境の小国が、その国を守る道具としてかき集めた情報の中に、タイガの目論見が含まれている。今より三十年以上前からタイガが進めてきた、そしていよいよ最終段階に至った、風の民を使った目論見が。傘下に置いたものの未だ不安定な地域の反発を招きかねないそれに、今再び光を当てさせるわけにはいかない。


 イヴァレットが本の存在を知ったのはアルファンネルからだ。当時のユーレ国王イスタエフが全幅の信頼を寄せていたナイトは、その情報を一見重要には見えないように偽装して国王に送った。イスタエフはそうして受け取ったものを、内容を把握したあとも処分せず彼の書斎に並べ続けたという——まるで我が子からの便りを保管するように。

 その「ナイト」というのが、フォルセティ=トロイエであった。


「趣味の悪い采配だこと」

 イヴァレットは夜を受け入れ始めた中庭の四阿で呟き、燭台を足元に置くと頭上の水盤に手を伸ばした。

 並んで歩くルーシェとフォルセティが映っている。視点がふたりのすぐ横を通過するとき、フォルセティがこちら側へ鋭い視線を送ってきたが、それもすぐに視界の外に消えてしまった。ルーシェのほうは気づいている様子もない。視点が風の民の列に沿って前へ進み、イヴァレットはとっさに形の良い唇をわずかに歪めて苦笑した。

 水盤の映像が濁って消えた。直前に映されていたのは、青い片目でイヴァレットを睨みつけながら手を伸ばしてきたクレタの姿だった。


 その現場。急に振り向き厳しい顔で手を伸ばすと何かを握り潰すような仕草をしたクレタを、ルーシェは呆気に取られて見つめ、それから隣のフォルセティを見上げた。彼も当然ルーシェと同じように、クレタが竜の虫を握り潰したのだとわかっている。クレタは浮虫の残骸で濡れた手の滴を払うと、ルーシェたちが自分を見ているのに気づき、苦笑いを返した。


 今日も間もなく暗くなる。ユーレを出、メーヴェの後再び合流してから数週間になるが、ほぼ毎日、暗くなるころちょうど行き着く場所には都合良くテントを張れるところがあった。でもそれはきっと偶然ではなくて、風の民が沿道の地理を知り尽くした上で路程を調整しているからだ。何十年もの間、同じ道を行き来してきた一族の、語り継がれてきた知識。

 その日も彼らはテントを輪の形に張り、中央に火をくべて夕食の準備をし、その日の労をねぎらってからそれぞれのテントに入っていった。

 女と子どもばかりのルーシェたちのテントは今日も賑やかだったが、子どもたちが寝付き始めるといつもどおり、誰からともなく小声になっていき、最終的には皆が口を閉じ、眠りに落ちていく。クレタは皆が寝静まったのを見計らい、ルーシェの肩をつつくと彼女を伴って外に出た。


 クレタが自分を連れ出すなど珍しいこと。ルーシェはなんの話をされるのだろうと内心どぎまぎしながらその後ろをついていったが、クレタのほうはお構いなしで、ユーレで入った店の感想などを話してきた。しかし木立に入り、夜番のものたちから見えないところまで来ると、クレタは不意に口を閉じてルーシェを振り返り、手招きしながら木の根元を選んで腰掛けた。

 ルーシェは指示されたとおり腰を下ろしながらクレタの顔色を窺った。フォルセティが、クレタの話してくれた秘密を「敢えて言わない」という選択をした以上、もしクレタがそれを今から話そうとしているのであれば、聞かないほうが良いと思ったからだ。しかしクレタもルーシェの懸念を理解していた。彼女は「それじゃないから安心して」と苦笑すると脚を投げ出した。金銀の小さなビーズを繋いで作ったアンクレットがしゃらしゃらと鳴った。

 クレタは息を吸ってから始めた。

「フォルセティのことなの」

「え?」

 ルーシェは思わず身じろいだ。クレタの口からならばむしろ、そちらのほうが避けたい話題である。けれども目を泳がせたルーシェにクレタが続けたのは、ルーシェが危惧した内容ではなかった。

「ファランに聞いたわ。今の女王陛下が生まれる前に、ファランとその旦那様、だからあなたのおじいさまね。そのふたりが育てていた『フォルセティ』」

「ああ、そっちの」

 安堵の息をついたルーシェにクレタは肩をすくめた。

「フォルセティは彼の名前を継いで……ううん、名前が一緒だとわかりにくいな。今のフォルセティがナイト・フォルセティ=トロイエの名前を継いだ」

「大丈夫よ。わかる」

「良かった。ファランは前回私たちがユーレに行ったとき、だから十年くらい前かな。そのときに今のフォルセティのお父さんに会っているの」

 コンベルサティオ卿、と呟いたルーシェに頷いてクレタは先を進めた。

「ファランはそのずっと前にも王妃だった頃に、卿と会ったことがあるんですって。卿は当時十歳くらいで、事故でご両親を亡くされて、一時的にフォルセティ=トロイエの預かりになっていたそう。でも国王が崩御して、王宮で騒ぎが起きて。ファランはそれに乗じて私たちのところに戻ってきた、フォルセティ=トロイエがファランを探していたのに」

「三十年前のクーデターね、お母さまに聞いたわ。そこで亡くなったのよね、その……」

「うん。で、前回ユーレに行ったときにファランはそのお墓参りをして卿に会ったのだそう。そこで自分の子どもにフォルセティ=トロイエの名をもらったって聞いて。それですごく救われた気がしたんだって」

 ルーシェは次第に複雑な気持ちになった。アルファンネルの話は、置いていった我が子デュートを忘れたかのようにフォルセティ=トロイエのことばかり。しかしクレタはそれには全く触れずに続けた。

「だからファランは今のフォルセティにもすごく会いたがっていて。それで実は私、ユーレにいる間にフォルセティのお母さんにお願いに行ったのね。ファランは今シオンを離れられないから、なんとか会わせられる方法がないかと」

「シオン?」

「ガイエル王が私たちにくれると言った地域よ。でもそこに根を下ろすかどうかは、みんな意見がいろいろで。それで今、中で話し合いをしてるところ」

 そうなの、とルーシェは目を落とした。

 ガイエルという国はよく知らないが、興味もなかった。そんなことよりクレタが自分にこんな話をする理由がわからなかった。フォルセティをルーシェの護衛にさせた立役者は自分だとでも言うのだろうか——しかしクレタにそんな様子は感じられない。ルーシェは逆に、そんなふうにあしざまに考えてしまう自分が嫌になってしまった。

「ね、ルーシェ」

「……うん」

「本当はね。あなたを連れ出すのにはもっと苦労するだろうと思ってたの」

「連れ出す? 私を」

「そう、お姫様だから誘拐するのは大変なのよね、どうしたものかと。だから自分から出てきてくれてすごく助かった。ファランは前回勇気が出ずじまいで会おうとさえしなかったあなたのお母さまのこと、すごく後悔していて」

 ルーシェはクレタを見つめて聞いた。

「じゃあ私はお母さまの代わりということ?」

「それもあるけど、私はファランを孫にも会わせたげたいとも思ってさ。とにかく私はファランが元気なうちに何か恩返しをしたくて。だからあなたが来てくれて本当にうれしかったんだ」

 クレタは深々と頭を下げた。


 彼女の「用」はこれだったのだ。ルーシェは垂れたままのクレタの頭をしばらく見つめていたが、急に顔を上げて尋ねた。

「もしかしてそれで? それであんなことしたの、シルカは」

「シルカ? シルカがどうしたの」

「王宮に侵入しておじいさまの部屋を引っ掻き回して、おまけに私にナイフを突きつけて。眼帯まで取って、あの色の目なら絶対に忘れない。私、あなたたちにまんまと誘い出されたってことね? 絶対に目的を突き止めてやるって思ったのよ」

 ルーシェは半ば前のめりになりながら言ったが、クレタは血の気の引いた顔をして立ち上がった。

「先王の部屋? シルカは何をしていたの」

 ルーシェはクレタを怪訝そうに見上げて聞いた。

「……クレタは知らないの?」

 ルーシェは何かうすら寒いものが、背中を撫でていったような気がした。

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