第4章

1 / いわず、しらせぬ

 ルーシェはその晩、さすがにクレタと背中合わせで寝る気になれず、クレタが眠ってしまったあとも、彼女との間を少し空けたまま布団にくるまっていた。

 振り切れてしまった気もする。そうでない気もする。いずれにしても考えても無駄な気がする。だから考えること自体やめるべきな気がする。それが一番ましな選択肢のような気もする。

 こうなってみるまで彼女には、自分がフォルセティにどうしてほしいとかどうあってほしいとかと期待している自覚が全くなかったのだ。ルーシェは天井を見上げ、ため息をついた。

 ほかに年の近い、それなりの親しさの知り合いがいなかったから? でもきっとそれだけではない。彼は、色々言いながらもいつも、最後は彼女のために骨を折ってくれるのである。だからだろうな、とルーシェは口の中で呟いた。枕元でオトがもぞもぞと身じろぐのがわかった。

 彼がそういう態度をとる相手が自分だけではなさそうだということを知れば、王宮の中でもなんとなく心穏やかでなかった。そのくらいは自分でも気がついていた。けれどもそれはあくまで彼に「自分と同じ」扱いの相手がほかにもいるというだけで、自分よりも優先される相手がいるなどとは思ったこともなかった。そう。クレタのような相手が。

 ルーシェは寝返りを打った。このテントにはクレタも、フォルセティもいる。急に気が重くなって、彼女は静かに起き上がるとオトを連れてテントの外に出た。


 昨日と同じように、いくつかのテントが火の周りを囲むように設営されている。けれどもその火は夕飯のときに比べると、皆が寝静まった今、可哀想なくらい小さくされていた。

 その向こうに小声で談笑している男がふたりいた。男衆がこうして数時間交代で番をしてくれているから、女子どもは安心して寝ていられる。ルーシェはふたりに会釈をした。ふたりは手を振って応えてくれたが、それだけだった。おおかた用を足しに行くのだとでも思われたのだろう。別に恥ずかしいことではないとは思えども、途端に居心地が悪くなり、ルーシェはふたりから隠れるように別のテントの陰に入っていった。


 テントを出てきたのは、少し夜風に当たりたかっただけだ。しかしそうして外に出、火から遠ざかった彼女に見えたのは、大きな籠を隣に置いたひとり用のテントだった。ルーシェはしばらく眉を寄せて考え、親指を握り込むと足音を忍ばせそちらへ向かった。

 籠の横に膝をつき、中にいるはずの女の名前を呼んでみる。

「シルカ」

 テントの向こうになっていて見えないとは言え、男ふたりがすぐ近くにいる。それならシルカも、王宮に侵入してきたときのような手荒なことはしないだろう。そう思って呼び掛けてみたのだが、返事はなかった。物音もしないので、ルーシェはもう一度中に向かって呼び掛けた。

「シルカ」

 じっと待つが、やはり返事はない。ルーシェは意を決し、テントの切れ目に手をかけた。


 不意に頭上のオトが急に羽搏いたので、ルーシェは思わず手を離して空を見上げた。

 紫の夜空に黒い木の葉が音を立てて舞っている。頭上をまた風が吹き抜けたのだ——昨日のように。虫の羽音が遠ざかっていった。

 そういえば今朝フォルセティたちが出てきたのも、あの風が吹いていったほうではなかったか。ルーシェは険しい顔で立ち上がるとシルカのテントに背を向け、木立の奥のほうへ手探りで進んでいった。


 星明かりだけでは、木立の足元はほとんど暗闇だった。歩を進めると足元で、水気を含んだ枯れ葉を踏む音がした。

 心細さと不安が入り交じっている。でも、うやむやのままにしたくない気持ちがまさった。オトが肩に降りてきたのを見ると、背中が青白く光って逆毛だっていた。この先に何かある。ルーシェは立ち止まって深呼吸をし、再び一歩踏みだそうとした。

 そのとき突然右腕を掴まれ、ルーシェは飛び上がった。

 相手を見ると、それは暗闇の中ではほとんど見えなくなってしまう、暗い赤と黒との衣装をまとった——フォルセティだった。ルーシェは安堵の息をついてから言った。

「おどかさないでよ」

「俺こそ驚いたよ。ギャッてなんだよ、ギャッて」

「こんな暗いところでいきなり手掴まれたら驚きもするわよ」

 ああ、と漏らしたフォルセティはルーシェの腕を離した。

「それは悪かったよ。けど一体何してんのよ? ひとりで出歩くなって」

「出歩くって言っても。ちょっとだけじゃない」

「こんな時間にちょっとだけ、で奥のほうに進もうとする子がありますか。外出るときは俺を呼ぶんでしょ。何かあってからじゃ遅いんだから」

「でも寝てるの起こすのは悪いと思ったのよ」

「でももくそもあるか。そう思うなら大人しく寝てろって」

「寝てられたら寝てるわよ」

 ルーシェはむっとしながら言い返した。この男はきっと、ルーシェが眠れないのは自分のせいだなどとは毛ほども思っていないのだ。にわかに腹が立ってきて、ルーシェはその場にどすんと腰を落とした。頭の上のオトの重さが少し遅れてついてくるくらいの勢いで。

「なんでこんなところで座るんだよ」

 呆れた声で聞いたフォルセティを睨み、ルーシェは答えた。

「聞くこと聞くまで戻らないわ。あなたも座るのよ」

「聞くことってなんだよ」

 渋々腰を下ろしてあぐらをかいたフォルセティを前に、ルーシェは腕を組んだ。

「クレタとはどういう関係なの?」

「は?」

「どういう関係なのって聞いてるのよ」


 闇に目が慣れてきたので、今は十分にフォルセティの表情がわかる。彼の顔は困惑から驚きへ、そして苦笑へ、しまいには爆笑に変わってしまった。

「ええ? あ、そう、そうか。そうきたか。あはは、いいね」

「……何がいいのよ」

「ルーシェは俺がクレタとできてるって疑ってるんでしょ?」

 額に手を当て、下を向いてひいひいと笑っているフォルセティにルーシェは呆気に取られ、思わず尋ねた。

「違うの?」

「違うよ。クレタのことは好きだけどそういうんじゃないし、向こうもたぶんそんなつもり微塵もないよ」

「でも国にいたときにも……」

 はあ、とフォルセティは肩を落とした。

「ルーシェは自分で思ってるほど俺のこと理解できてないと思う」

「どういうこと」

「俺がね。もし本当にクレタと、まあその、ルーシェが疑ってるような関係になりたいと思ってたら、俺ルーシェにはクレタのことは黙ってるね。絶対言わない。隠す。なんか気まずいもん」

「じゃあ朝のはなんだったの」

「お近づきになりたかったのは嘘じゃないよ。仲良くできたらいいとは今も思うし」

 何を言っているのだという顔でルーシェはため息をついた。

「全くわからないわ」

「わからないで結構。でも昨晩のはそういう意味では本当に何もなかった、そこだけはくれぐれも誤解のないように。俺はいいんだけど、主にクレタの名誉のためにね、これは」

「もういいわよ。それより晩から朝まで一緒にいたわけ? 私の護衛はどうなってるの」

 フォルセティは口ごもった。どうやらそこから先が「今はまだ言えない」ことらしい。彼は急速に真顔になった。

「クレタはルーシェになら別に言っても構わないっつってた。秘密を守ってくれるんならってな、おまえを信用してるんだよ。ただ俺は知らせるべきじゃないと思った。これでも悩んでそう決めたんだ」

 ルーシェは眉を顰めた。刹那フォルセティがまずいという顔をした理由——自国の王女を「おまえ」呼ばわりしたこと——とは関係がない。クレタが話した「秘密」とは。フォルセティは気を取り直すように息を吐いて続けた。

「余計なことは知らないほうが安全なんだ。だから俺は守る立場の人間として、それをルーシェに伝えるべきではないと判断したんだよ」


 そのような言い方であれば安全なのかと言われれば怪しい気がしたし、何よりフォルセティの言う「それ」が一体なんなのか、ルーシェには皆目見当もつかなかった。

 しかし自分のために「知らせない」とフォルセティが決めたのだということ。そのために彼も悩んだのだということ。そしてそのせいで今日一日お互い(もしかしたら、ルーシェだけかもしれないが)気まずかったこと。それでもまだなお、知らせないほうがいいとフォルセティが考えているということだけは、ルーシェにもわかった。そして、そうならば彼のその判断を尊重するべきだと彼女は思った。その判断は彼がルーシェのために下したものなのだから。

「……わかった。気づくまで聞かないことにするわ」

 立ち上がりながらそう言ったルーシェは、フォルセティを見下ろした。

「そのほうが私のためになる、とあなたが考えたんだものね。でもこれからは、同じようなことがあったら一応『隠してる』ってことだけは教えて、でないと余計な心配する」

 ルーシェが肩をすくめてみせると、フォルセティは観念したとでも言うような大きなため息をついて頷いた。


 それじゃ戻りましょ、とルーシェは彼に背を向け、彼が立ち上がるのを待たず歩き出した。顔を見られたくなかった。場違いな顔をしている自覚があったから。

 彼女の頭の上で、オトがくちばしを目一杯に広げ、大きな欠伸をした。

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