9 / 今はまだ

 風の民が移動を始めればルーシェもそれについていくしかない。そして護衛であるフォルセティも当然ルーシェのそばを歩くことになる。

 さっきから何度目とも知れないため息をつき、ルーシェは立ち止まった。どうしたの、と隣のクレタが心配そうに聞いてくるが、答えることはできなかった。当然だ。あまりにそれが何度も続くので、クレタの方も気を遣って少しルーシェと距離を置くことにしたようだった。彼女は少し先を行くシャルムジカたちのグループに混ざり、そこでユーレにいる間に妊娠がわかった仲間が乗る荷車を囲むようにして話に花を咲かせ始めた。

 ルーシェは歩きながら足元に目をやった。小石の混じる、踏み固められた砂の道。見上げれば高い空は青く、綿のように千切れた雲が流れている。けれども彼女の気持ちは軽くならない。

 この状態をどうにかしなければいけないと思う。振り向けばそこにいるだろうフォルセティの顔を見るのが気まずかった。しかしこのままで良いはずがない。彼のほうがどう思っているかはわからない、気にしているのはルーシェだけかもしれないが、それでもやはりこのままにしておくのは良くない。

 だからと言ってどうすれば——答えを渋ったフォルセティをそれでも問い質して、ことの真相を聞き出せば踏ん切りがつくだろうか。考えてみたが無理そうだった。それで本当に踏ん切りがつくのなら、既に振り切れているはずだ。

「オト」

 ルーシェは頭の上の虫に呼びかけた。オトはもぞもぞと動いたが、それだけだった。

「どうすればいいのかしらね」

 返事が返ってくるはずもないが、それでもルーシェはぼそぼそと呟いてみた。頭の中だけで悩んでいるよりは、いくらかましな気がした。


 出発は朝のうちだったが、もう昼を過ぎている。そろそろ何か食べたくなる頃合いだが、道の先を眺めてみても休めそうなところはなかった。こういうときは各自が持っているものを勝手に頬張りながら進むようになっている。そうして食べこぼしたものが「病」に繋がっているのかもしれないとルーシェの父親は言っていたが、そんなことはルーシェには今はどうでもいいことに思えた。

 前の女性グループもその例に漏れず、お互いの持っているものを交換したりしながら賑やかに食事をしつつ歩いていた。ルーシェはため息をついた。こういうときのことはすべてフォルセティに任せてあるが、今日はいつものように呼ぶこともできない。

 夜テントを張れば、その後には皆で夕食を食べるはずだ。それまで我慢するしかないかとルーシェが覚悟を決めかけたころ、後ろのフォルセティの足音が急に近づいてきた。歩きというよりは小走りに近い音だった。

 ルーシェが振り向こうとしたときには既に、彼はもう真横まで来ていた。

「どうしたの」

「振り向くなよ」

「なんですって?」

 ルーシェは思わず振り向きそうになったが、ぐっと我慢して声を潜めた。

「……なに? どうしたの」

「虫が追ってきてる。ルーシェが聞こえる人間だとわかるとあとが面倒だから、気づかないふりを」

「わかった」


 それから少しして、フォルセティの言ったとおり羽音が近づいてきた。ルーシェはそれが聞こえないふりを——極力注意も払わないようにして、フォルセティと並んで歩き続けた。

 少し前を行くグループの中に振り向いたものがいる。クレタだ。彼女の目の動きを見れば彼女もまた「聞こえる」人間だとわかった。それでもルーシェはそんなことなど知らないように、目の合ったクレタに笑顔を作って手を振ってみせた。クレタも手を振り返した。

 横を見上げれば、フォルセティの目はそのクレタを追っていた。彼は笑っていない。滅多に見せない眼差しだ。柔らかな赤紫の瞳が睫毛の下で蔭っていた。

 彼はルーシェを決してそんな目では見ない。ルーシェはそれでなんとなく、すとんと腑に落ちるものを感じてしまった。


 周りを飛び回る虫の羽音が聞こえるが、それに気づいていないとアピールでもするかのようにルーシェは口を開いた。彼女にとっては今一番大事な話だが、虫にとっては恐らくかなりどうでもいい話である。

「ねえ、フォルセティ」

「なに」

「今朝のことなんだけど」

「……ああ」

 いつもは無駄な言葉の多い彼の返事がこうも素っ気ないものだと、とても居心地が悪かった。ルーシェは彼のいつものしゃべり方を鬱陶しく思うことすらあるのに、今はそうであれば良いのにと切実に思った。

 続きを言うことができずルーシェも押し黙ってしまった。羽音がさっき以上に耳についた。

 やがて口を開いたのはフォルセティのほうだった。しかし彼の言葉はなんの答えをもたらすものでもなかった。

「悪い。今はまだ言えない」

 フォルセティが言ったのはそれだけだったが、ルーシェはそれで、ふたりの間にあったことは簡単なことではないのだと思った。それで十分だった。

「そう」

 ルーシェは呟くように答え、しばらく下を向いていたが、不意に立ち止まると思い切り両腕を上げて背伸びをした。


 ルーシェが人前でそんな格好をするのは珍しいことだ。フォルセティが目を見開いて見ているその前に、ルーシェは笑顔で手を差し出した。

「お腹空いたわ。何か持ってない?」

 フォルセティは一瞬呆気に取られた顔をしたが、すぐに後ろ頭を掻くと腰の後ろに手を回して綿の巾着を取り出し、中を探って小さな種をつまみ上げた。

 フォルセティはいつかと同じく、手品のように赤い果実を育て上げた。ルーシェがそれを受け取って、ふたり並んで頬張りながら歩き続けているうちに、虫の羽音は前のほうへ消えていった。前にはクレタはもちろん、シルカのいる籠を乗せた馬もいる。

 ルーシェたちの位置からでは、虫が今どのあたりにいるのかは見当もつかない。それがもしシルカの籠の隣で止まっていたらと思うとルーシェは確かめたい気持ちにかられたが、隣のフォルセティを見ると、彼は咀嚼を止め、やはりさっきの表情で前を見て——というよりも、睨みつけていたので、やめた。


 この辺りにはしばらく町がないのだろう。日が落ち始めた頃からすれ違う旅人は皆無だった。一行はあまり暗くならないうちに道の脇に逸れ、木立の中に適当な空き地を見つけると昨晩のようにテントを張り、夜を明かす準備をした。

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