8 / 薄い毛布

 鳶色の長い髪をひとつに結って左肩から前に流し、「庭の主」イヴァレットは渡り廊下をまっすぐ歩いていった。

 年齢を感じさせないしなやかな体に沿う白いドレスは極めてシンプルな作り。装飾品は身につけておらず、その様子は飾ることなど必要ないとでも言いたげですらある。

 薄くさらりとした手触りの生地の、広がった裾を大きく翻しながら歩く彼女の右側には、先日の中庭が昼の光に微睡まどろんでいた。咲き乱れる花を風が撫で、通路と庭とを隔てる腰高の壁を蔦が這い上ろうとしている。しかし今日もそこには優雅に舞う蝶も、競うように蜜を集める蜂も、捜しものをする蟻も、それらを狙う鳥もいない。聞こえるのは葉と葉が触れ合う音だけだ。それは目を閉じれば、波の打ち寄せる浜辺を思わせるような。

 大きな建物に入る。その先もこれまでと同じ、白い石で造られた廊下が続いている。うっすらと独特の甘い香りが漂ってくるが、明かり用の燭台以外はなんの飾り気もない、ぴんと張り詰めた緊張感のある空間だ。垂れた蝋が見苦しくないようこまめに手入れされた燭台には、この時間はまだ火が入っていない。

 その廊下をさらに進めば、緻密な柄の織物で飾られた扉が並ぶ、きらびやかで人の気配のする場所に出た。あの匂いが強くなり、イヴァレットは顔をしかめた。賑やかな声の聞こえる部屋の前を通り過ぎようとしたとき不意に扉が開いて、数人の侍女を引き連れた女性が出てきた。

 五十代半ばくらいに見える女性であった。艶やかな白金の髪を結い上げ、それによく合うベージュ地に白い糸で刺繍が施された美しいドレスと繊細なレースのショールで身を飾っている。侍女もみな手の込んだ出で立ちで、飾り気のない白いドレスに長い髪を緩くまとめて垂らしただけのイヴァレットとはあたかも「住む世界が違う」とでも言わんばかりだった。

 イヴァレットの姿を目に入れた女性はわずかに口元を歪めたが、すぐにそれを上品に扇で隠して目をにっこりと細めた。女性は口を開かない。彼女はここでの序列の最高位にある。イヴァレットはこの場のルールに則り、膝を曲げて深々と頭を下げた。

「スティリア様」

 女性は目を細め、扇を畳むと軽い会釈をした。

「ご機嫌麗しゅう。イヴァレット殿」

 スティリアは微笑を浮かべてはいるがイヴァレットを見下ろしたままだ。イヴァレットはそれでも頭を下げ続けた。スティリアは口元を再び扇で隠し、侍女に目配せをしてからその場を歩き去った。

 最後尾の侍女がまだ顔を上げないイヴァレットを振り返り、せせら笑うように尋ねた。

「スティリア様にはさすがの『御業みわざ』も効かないのでしょ? イヴァレット殿」

 イヴァレットは答えない。侍女が再び口を開こうとすると、その主が止めた。

「およしなさい」

 スティリアは振り向きもせず、立ち止まっている。たしなめられた侍女は主に優雅な詫びを述べ、皆と共にしずしずと廊下の先へ消えていった。


 頭を下げたままため息をつき、イヴァレットは背を起こした。

 膝を手で払い、再び足を踏み出そうとした彼女に羽音がいくつもまとわりついた。寄せては返す波のように大きく小さく、周りを飛び交う竜の虫たち。

「中には来るなと言ったはずだが」

 イヴァレットは何もない空間を先視の双眸で睨みつけたが、虫は変わらず彼女の顔の周りを飛び回っている。イヴァレットが目を細めて耳を澄ませていると、羽音はひとつずつ消え、やがて聞こえなくなった。

 イヴァレットは大きく息を吸って寄せていた眉を解き、髪を一筋つまんでその先をるようにもてあそびながら、踵を返し庭のほうへ戻っていった。その一筋の髪は彼女の指先で、先のほうから焦げるように短くなっていった。主の髪は、虫にとっては何よりの褒美だ。


 

 ルーシェが目を覚ましたときにはクレタもほかの皆ももう起きたあとで、テントには彼女ひとりだった。

 枕元のオトの頭を人指し指で撫で、膝歩きで端まで進む。出入り口にかかっている布を少し上げると、外から光とともに朝食のいい匂いが入ってきた。ルーシェは一度中に引っ込むと欠伸と背伸びをして、オトがいつものように頭の上に収まるのを待ってから外に出た。

 少し向こう、昨日火が焚かれていたあたりで食事の準備が整っていた。しかしそこにはシャルムジカたちの姿はあったが、クレタとフォルセティはいなかった。さっと嫌な予感が過ぎった。クレタのことは嫌いではない——むしろ、好きだ。まっすぐな目。恵まれた容姿。嫌味もへつらいもない言葉。ほとんどの人が好感を持つだろう、彼とて例外ではなかった。だからこその「嫌な予感」だった。

 周囲をきょろきょろ見回していると、昨晩風が吹き抜けていった森の奥からふたりが姿を現した。フォルセティを前に数歩離れてこちらに向かっている。まだ少し遠いのではっきりとは見えなかったが、クレタはやや俯き気味で、フォルセティもばつの悪そうな顔だった。

 何があったのだろう。ルーシェは途端に気が重くなるのを感じながら、ふたりが皆の食事の場に合流するのを見届けると自分もそこへ向かった。


 ルーシェはフォルセティの前に腰を下ろした。

 クレタのほうは、シャルムジカたちのいるところでさっさと賑やかな朝食を始めている。そちらに目を向けたままのルーシェの前でフォルセティは、冷たい朝の空気に白い湯気を立てている粥をずずとすすり、それからルーシェに渡した。

「うん。食べていいよ」

「さっきどこ行ってたの?」

「さっき?」

「私が起きてすぐのときよ。どこか行ってたでしょ」

 あー、とフォルセティは頭を掻いた。

「別に……」

「クレタと何かあったんじゃない」

 歯切れの悪い返事を問いただしたルーシェの言葉に、フォルセティは目を見開いた。

「なんで知ってンだよ」

「なんででもいいでしょ。何があったの」

「なんだっていいだろ。俺にも色々事情があるんだよ」

「……あ、そう。わかった」

 ルーシェはこみ上げる苛立ちを奥歯で噛みしめ、立ち上がると器をフォルセティの膝の上にどんと置いた。

 フォルセティはそれを受け止め、脇に置くと立ち上がろうとした。ルーシェには彼が「何怒ってんだよ」と言うのも聞こえたが、そのまま振り向きもせずその場をすたすた離れると、一度立ち止まってからテントに駆け込んだ。


 クレタのことは決して嫌いではない。それは変わらない。社交的で明るく、誰にでも情け深くそして美しい彼女をうらやましくさえ思う。それでもそれは妬みとは違う。彼女のことは大事にしたい友人だ、と思っている。

 しかしルーシェはユーレにいるときから、フォルセティがクレタに関心を示していたことも知っている。そのことを考えると残るのは、自分でも持て余すようななんとも言えないもやもやした気持ちだけだった。

 そしてその怒りにも似た思いの矛先は、クレタではなくフォルセティばかりに向いた。そのいらだちを彼にぶつけるのは違う。そんなことはわかっている。それでは自分の都合でフォルセティを縛ることに変わりない。だからそれが理性的な行動でないことは、よくわかっている。本当に、ちゃんと、わかっているのだ。けれども。

 わけがわからない。うまく整理ができない。ここでフォルセティが来て、せめて真実を明かそうとしなかったことを謝ってくれたら、あるいははっきり言ってくれれば救いになるのにとルーシェは思った。

 でも彼は、結局、来なかった。

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