6 / コード あるいは竜の歌

 その頃ユーレの王宮はちょっとした騒ぎになっていた。ルーシェがいなくなったからではないが、ルーシェ絡みのことではあった。例の本がなくなっていることに気づいた女王がレヴィオにことの次第を問い質したのである。そしてルーシェに比べれば押しに弱い彼は、一応は粘ったものの、最後には口を割ってしまったのだった。

 女王はそのこと自体は大した問題とはしなかったが、代わりに王宮内の「大掃除」のため、取り急ぎサプレマに使いを出した。そして彼女はのそのそやってきたサプレマ、フリッガ・コンベルサティオに依頼して、その結果がこれだ。いつもは静かな廊下を、トカゲのような動物を追いかけ侍女たちが黄色い声を上げて走り回っている。


 この少し前、王宮の玄関を入ってすぐ目に入る大きな階段の手前のホールに、フリッガは遠慮なくインクを含ませた筆を置いた。

 つややかな石の床を、まだ上り切っていない日が天窓から照らす。彼女は整った円を規則正しく描いていった。中心の一番大きな円は両手を広げたくらいの大きさがある。それを扇の形に十六等分。その円の周りに均等に配された小さな五つの円はそれぞれ八等分。計六つの円を切り分ける直線の上には、虫がのたくったようにも見える記号がいくつも描き込まれていった。円の中心から渦を描きながらつけられたそれらの印は、異国の文字に見えないわけでもない。

 フリッガの後ろには、彼女より背丈のあるすらりとした女性が立っていた。二十代半ばくらいに見えるが、目元はずっと落ち着いて涼やかだ。髪も瞳も曇りのない藍色で、毛先のほうだけ水を混ぜたように薄い色に変わる。その人間離れした容貌の示すとおり、彼女は人間ではない。翠嵐すいらんがフォルセティの竜なら、彼女はフリッガの竜なのだ。建国時からサプレマが継承している、川と海とを生活の軸にしたこの国では最も親しまれ、また敬われる竜。

 王宮の明るいホールに暗い赤で円を描き終え、その中身を謎の文字で順に埋めていっていたフリッガは、不意に顔を上げ後ろの竜を振り返った。

「そあら」

「何か?」

「第五従章の提示部の頭ってなんだっけ。『キノ』?」

「『オト』です、ふたつ続けて。『キノ』は展開部」

「あー、そっかそっか。思い出した」

 フリッガは、そうだそうだと呟くと、鼻唄まじりでテンポよく最後の円を埋めた。


 彼女が書き込んでいるのは「コード」である。そのそれぞれに特定の音が割り振られているので、ある程度の長さや複雑さを持つときには、文法という規則性が奏でる歌になる——もちろん、風の民の使う旧律も同じだ。

 円の中を埋め終えたフリッガは、かがめていた腰を伸ばして背伸びをすると周囲を見回した。階段には王宮の侍女や警備の軍人軍属、その他のものも、物珍しげな顔をして様子を見守っている。手すきのものに声をかけるように頼んだのだが、集まったのは二十人を超えていた。ジェノバの姿はなかったが、この人数の皆が「手すき」とは考えづらいから、おそらくは彼が呼んだのだろう。これも彼の任されている問題の処理の一環である。

 フリッガは衆目に肩をすくめると、ひとつ息をついてから中心の円の真ん中に立ち、階段を振り向いて声を上げた。張り上げるほどもない。天井の高いこの場所は音がよく響く。

「今おいでの方には、この辺にいる『竜の虫』を捕獲するのにご協力いただきます。見えないままだと捕まえにくいので、今からこの周囲の虫を可視化しますが、効果は日が落ちるまでなので手早く。王宮の敷地内で羽の生えたトカゲが見つかったら直ちに確保してこの中心の円の上へ。捕獲の際は革の手袋を。直接手を触れないでください、火傷したりすりむいたりするので」

 ご質問は、と見回しても特に何もないようだったので、彼女は一度足元を見下ろしてから胸の前で手を合わせ目を閉じた。

 フリッガは詠唱を始めた。床に書かれたコードはは楽譜のようなもの。文字が音に合わせ、それぞれの円の中心から渦を描くように光を帯びていった。コードの実行に不可欠なのは詠唱だけだが、文字は詠唱の効果を強め、また拡張する。文字のすべてに光が行き渡ると、深呼吸するようにその光が強くなって消えた。

 こうして虫たちは「見えない」という特権を剥奪されてしまった。フリッガは皆に散るよう指示をし、自らも捜索に加わった。


 床に描かれた円と文字とは、その効果切れが近づくのを体現するように少しずつ薄れていく。当初は円の中心を照らしていた天窓からの光も、今は完全に照らす場所をたがえていた。その場に待機していたフリッガの水竜は、頃合いを見計らい、中心の大きな円の中心に重ねるように人の肩幅ほどの円を描き、皆の戻りを待った。

 侍女たちと一緒に走り回っていたフリッガがあらかたの作業を終えて戻ってきた。協力してもらっていた侍女たちには既に解散を伝えてあるようで、連れはいなかった。水竜が尋ねると彼女は「もうすぐ来るよ」と答えながら円のそばに両膝をついた。水竜の描いた円を、ふたりで向かい合って挟むような形だ。

 その円から上に向かって垂直に伸びた光の柱のような檻の中には、フリッガが羽の生えたトカゲの姿で可視化した竜の虫が両手で数えるほどの数、浮いている。色はさまざまだ。赤が花虫、燭台にたまった蝋をかじっていたもの。緑色をした地竜の虫が蔦虫つたむし。温室や外の植え込みにいた。濃い青の浮虫うきむしは厨房の流しの隅に隠れていた水竜の虫。最後に雷竜の虫は黄色で痺虫しびむし。扉の蝶番と厨房の鍋とにくっついていたという。

 水竜が檻に腕を差し入れると虫はそれから逃げようとした。浮虫は隅のほうで特別怯えていたが、彼女は容赦なく一匹一匹を掴み上げて検証し、すべての確認を終えると最後の浮虫をつまんだまま言った。

「いずれも同じ主を戴いているようです。どこの誰かまではこれだけではわかりませんが」

 水竜の言葉にフリッガはしゃがんだまま、呆れた顔で檻の中を見上げながら答えた。痺虫が上に逃げようとしているが、出口はない。

「意外といたね……」

「おそらく入国時には別の姿だったのでしょう。主が虫に定めた姿によっては感知しづらくなります」

「まあそれはそうなんだけど。でも今までもそういうことはあったはず」

「あったでしょう。しかし入国後姿を変えるためには、その場で改めて主から改めてコードによる命令を受ける必要がありますし、それができなければ普通のいきものと大差ありませんからさほどの脅威にはなりません。今回は主なりその代理なりが合わせて入国していたと考えるのが自然です」

 水竜は顔色ひとつ変えずに答えながら手を放した。浮虫は大急ぎで檻の際まで這っていった。フリッガはため息をついて立ち上がった。そのとき階段の上にちょうどジェノバが戻ってきたので、彼女は降りてくる彼に頭を下げた。


 フリッガを訪ねてきたクレタの話したことや、ヴィダとジェノバとが実地で調査をした結果を総合すれば、今回の風の民の巡業には何か裏があるようだ——風の民自身はそれには気がついていなかったとしても。国内でその問題の総責任者を務めているジェノバは、問題の拡大が予想されるのに心からのため息をつき、目の前のフリッガに尋ねた。

「サプレマのご意見は?」

「あぁ……ええと。私は捕獲を頼まれただけで、国交とかのことは全然、口を出すつもりはないんですけど」

「つまり、国交レベルの問題だと?」

 フリッガは肩をすくめてから頭を振った。

「私は政治のことはさっぱりだから、あくまで素人の意見として参考程度に聞いて欲しいんですけどね。これだけの数が王宮の中で見つかるのは明らかに偶然ではない。そして先日の侵入者は探しものをしていたんでしょ。だったらこの虫たちはその関連で侵入者が置いていったものかも」

「しかしあの本は」

 言葉を続けかけたジェノバと涼しい顔のままの水竜の前で、フリッガは口元に人差し指を立てた。

「虫が聞いてます。控えて」

「失礼。ところで、この虫をどうするつもりで?」

 そうですねえ、とフリッガは足元を見下ろした。檻の縁に貼り付くように、青い浮虫がまだ震えていた。


 虫は本来、竜につくものだ。その関係は虫の性質自体によるから、竜が虫に命じる従属関係は人間がコードを用いて作った関係より常に優先する。つまり竜にとっては虫を人間から奪い取ることも、新たな命令を与えることも、息をするくらいに簡単。フリッガは水竜を上目で見やった。

 水竜にはジェノバに協力をする義務はない。彼女の主であるフリッガは聖職者であって国の統治機構の命令を直接受ける立場ではないし、もちろん水竜自身もそんな義務を負わない。

 とは言えフリッガには協力すべき理由がある。彼女は自分の息子を送り出しているのだ。その息子はいずれサプレマを継ぎ、水竜をも引き継ぐ。フリッガはゆっくり大きく息を吸い、水竜に問いかけた。

「そあら」

「はい」

「こんだけ侵入を許したのはさすがに迂闊うかつだったかな」

「そうですね。こうなったらこの虫の主を突き止めて、汚名を返上させていただきましょうか」

 水竜は檻の中に手を伸ばし、震えていた浮虫を掴み出すと外に放り投げた。解放された浮虫は開かれた天窓を通り、黄昏に染まり始めた空へ一目散に逃げていった。

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