5 / ふたりのシルカ

 路銀がもったいないとぼやくフォルセティを説得(半ば無視)して別々の部屋を取ったルーシェは、オトとともに準備された部屋に入った。

 そこは当然ながら、王宮の彼女の部屋とは似ても似つかない。しかしそれを彼女は不快には思わなかった。彼女には比べるべき「宿」の知識はなかったし、何より窓を開けて望む海に沈んでいく夕日は、とても美しかったから。

 頭の上に手をやりかけて少し考えたルーシェは肩からストールを外し、それを柔らかく丸めて窓辺に置くと、そこに改めてオトを下ろした。その茶色くて丸い塊は、彼女の山吹色のストールの中で相変わらず胸を小さく上下させて眠っていた。これでも自分よりずっと長生きしているのだろうと思うとルーシェは少し不思議だった。竜も虫もよほどのことがない限り不死だとフォルセティは言っていたけれども。

 夕飯はもう少しあとだと聞いた。隣の部屋にはフォルセティがいるはずだ。ルーシェはちらりと壁のほうを見、開けたままの窓に目を移すとベッドに腰掛けた。ひとつにまとめた長い髪を解き、彼女は息を吐きながら倒れるように横になって目を閉じた。


 ドアを叩く音に目を覚まされて起き上がる。少し横になるだけのつもりが、いつの間にか眠り込んでしまっていたようだ。冷えた風が窓から入ってくる暗い部屋を見回し、最後に枕元を見下ろすと、今まで顔のあった場所のすぐそばにオトが丸まっていた。扉の向こうではフォルセティが彼女を繰り返し呼んでいる。

「ルーシェ、めし」

「うん、すぐ行く。ちょっと待って」

 そう言いながら手早く髪をくくったルーシェはオトを両手ですくい上げ、一度見下ろしてから肩をすくめ、頭に乗せた。ここに置いていくのはなんとなく気が引けたものの、連れていくならそこ以外に良い場所も思いつかなかった。それから窓辺に丸めたままになっていたストールを広げて肩に掛け、窓を閉めて、ルーシェは部屋を出た。


 来たときには気に留めなかったが、廊下には古めかしいけれども立派なタペストリーがかかっている。夕食の提供されるところは小さな食堂で、そこにも似たようなものが飾られていた。

 素朴な味のする煮込み料理を行儀よく食べながら、がっつくフォルセティの頭の向こうに見えるそのタペストリーがなぜかとても気になり、ルーシェはその端から端までを、織り目を数えるように見ていった。

 もともとは鮮やかな青だったのだろう、大蛇に見える生き物が紺色の空を、いくつもの光の粒に囲まれながら飛んでいる。その下に広がる海の中ではやはり夜光虫のような光が色とりどりの魚と泳ぎ回っていた。夜の絵なのに光に溢れた画だ。

 自分の分を食べきってしまったフォルセティが顔を上げたので、ルーシェの視線は遮られ、彼の紫の目にまともにぶつかった。

「何見てんの?」

「え、あっちのタペストリーよ。珍しい絵だと思って」

「目、いいな」

「そこまで遠くじゃないわよ」

 いや、とフォルセティは手を振りながら、一度置いたフォークを再び手に取るとルーシェの器の方に伸ばしてきた。

「ちょっと。自分の食べたでしょ?」

「いや、ほら、毒見を忘れてた」

「今頃手遅れよ」

「いやいやいや……ところで廊下とか後ろとかの絵だけどね」

 フォルセティは煮込まれた芋にフォークを刺したが、それは腕を伸ばしていたせいか力の入りすぎで割れてしまった。それに彼は顔をしかめると、割れた小片を深追いし始めた。どんどん小さくなる。

「やめなさいよ」

「あの絵の中に描き込まれてる光は、全部竜の虫だよ。この辺は昔っから虫が多いんだわ。見えも聞こえもしない人でも話自体は知ってて、ああやって想像で描きこんじゃうくらいに有名な話」

「どうして? って、やめなさいってば」

「ユーレには代々のサプレマの竜が縄張りを幾重にも張ってて、悪意のある虫はちょっと頭使わないと入れないからな。だから『そういう目的』で放たれた虫が任務を果たせないまま、永らく国境近くのこの辺りをうろついてることが多いの。最近のことじゃなくて、母さんの前の、その前の代も。建国以来の話だ」

「『そういう目的』……ああもう、そんなにしなくても食べたいならあげるから」

 ルーシェはため息をついて器をフォルセティのほうに押しやった。フォルセティは器を持ち上げるとほとんど原形を留めていない芋を汁もろとも飲み干し、空の器を置いてから、ふう、と息をついた。

 ルーシェは続きを待っている。彼女の頭の上で、オトの逆立った毛がぴくぴく動いた。フォルセティは頭を掻いてから立ち上がった。

「あ、ちょっと。まだ話は途中でしょ」

「この先は部屋で話そ」


 ルーシェの部屋のほうが広かったので、彼女はフォルセティをそこに呼び入れた。フォルセティはそれでは部屋を別にした目的が達成しづらいのではと思いはしたものの、もとよりそんな不純な気持ちもなかったので、遠慮せず中に入った。

 ルーシェはベッドに掛けて膝に頬杖をついた。その前に立ったフォルセティは、これは護衛を頼まれたときの女王と自分によく似ているなとぼんやり感じ、なんとなく落ち着かない気分になって椅子を引いてくると、それを前後逆にして背もたれを抱きながら腰を下ろした。

「それで? 悪意ってなに?」

 ルーシェが聞くと、フォルセティは少し考えてから答えた。

「ユーレはさ、沿岸の資源とか、いい港になる湾とか、そういうのに恵まれた場所にあるの。気候もいいし水も豊富だ。だから政略の上でも魅力的な地なわけ……ってこんなん宮殿下に俺が知ったかぶって話すようなことでもないけど」

「豊かな地だとは知ってるわ。でもほかの国からどう思われてるかなんか考えたことなかった。そんなふうに狙われるなんて」

「そうなの? まあでも大体そんなのたぶんどこの国でも似たり寄ったりだし、最近急にってことでもないから。今回も少なくとも『ユーレは』心配要らない。その手の話に関してはたぶんユーレは今、史上最強だ」

 フォルセティの言葉には含みがある。ルーシェは眉を顰めた。それに眉を上げてフォルセティは続けた。

「今回俺が護衛ってことで同行したのは、そこら辺の理由もあるんだよ」

「そこら辺ってどういうこと」

「母さんがクレタに話を聞いたらしくてさ、シルカが虫を連れてるって。でもその虫は別に嫌な感じはしなかったから俺も母さんも放っといたやつで、クレタも、シルカは日の強い日中は目を傷めるから外に出られない、それを補うために自分の目として虫を使ってるだけだって言うんだ。母さんはクレタに、あれがシルカには唯一の楽しみだから、すまないが虫を排除しないでくれって頼まれた」

「クレタはシルカのことを知ってて嘘をついてる? それとも本当にそう思ってるのかしら」

 それはわからないよ、とフォルセティは背板の前で組んだ手を外すと、グローブをはめた手の甲をぽりぽりと掻きながら聞いた。

「ルーシェはその、シルカっぽい女が侵入してきたときには羽音は聞かなかったんだろ?」

「よく覚えてないけど、たぶん聞いてないと思う」

「その辺がね、俺にはしっくり来ないんだよ。そういうときこそ虫に身の回りを警戒させればゆっくり家捜しできるのにさ。俺ならそうする」

「俺ならって……でもまあ、そう言われたらそうよね。だけど、近くにいないと聞こえないし。だから、いなかったとは断定できないと思う」

「ああ、そうか。そういう可能性もあるのか」

 思いつかなかったとばかりに目を見開いたフォルセティに肩をすくめ、ルーシェは頬杖を外して背筋を伸ばすと、ため息をついてから目を伏せた。

 あの日見たシルカと、クレタの言うシルカ。どちらもシルカだが、果たしてひとりの人間であり得るのか。鋭い目と刃を突きつけた、先視の双眸を持つ侵入者シルカ。一方、まじない師のシルカは、ひとつだけ残った先視の目を守るため日中は外出もままならないという。

 まるで「シルカ」がふたりいるようだ——ルーシェがそこまで考えたのを見透かしたように、フォルセティは身じろぎしてから先を続けた。

「母さんがクレタから聞いた話ではね。シルカは両目が先視、クレタは片目だけ先視だったらしい。でもふたりは、風の民の許を離れた母親から逃げて仲間のところに戻ってくる途中で片目ずつを失ったんだそうだ」

「シルカも片目を? 王宮に現れたシルカは両目とも開いてたから、それじゃ話が合わない」

「そうなんだよ。だからクレタの言うことを信じるなら、王宮に現れたのはシルカじゃないことになるんだ。でもシルカにそっくりだったのは事実なんだろ。なら逆にクレタが嘘をついていて、侵入者のほうこそシルカだったら?」

「まじない師のシルカは、本当は誰なの……?」

 ルーシェは眉を顰め、膝の上の握り拳を見つめた。


「とりあえずそんなこんなで、色々気持ち悪いものがあってさ。だから俺もこうなった以上はちゃんと考えないといけないと思って。で、ルーシェには早いうちにその辺の話をしときたくて連中とちょっと離れたんだ。二、三日中には楽勝で追いつけるけど、悪かったな」

「ううん、そんな理由があったんだったら。ごめん、文句言って」

「そんじゃま俺の話はこれで……ああいや、まだあとひとつあった」

 立ち上がりかけたフォルセティは再び腰を下ろした。その言葉と様子に思わずどきりと顔を上げたルーシェは、あくまで平静を装いながら促した。

「なに?」

「オトのことだよ。せっかく普通の鳥みたいな見てくれになったことだし、ルーシェが言い聞かせれば自分勝手に動くことはないはずだ。だから少なくともしばらくは、オトが虫だってことはクレタたちには伏せておこうぜ。俺でもよくよく気をつけないとわからないし、たぶんばれないよ」

「なんだ、そういう話」

「なんだってなんだよ……どういう話だと思ったの」

「なんでもない。もう行って」

 ルーシェは口を尖らすと部屋の扉を指差した。フォルセティは頭の上に疑問符が見えそうな顔で、首をひねりながら部屋を出ていった。

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