4 / 吹虫

 ルーシェが「オト」と名付けたその小鳥は、姿がそうなってもなお「竜の虫」だ。竜の虫の存在を感知できる人間はごく限られているし、「聞こえる」人間でさえ捕まえることは滅多にできないという——見えないからだ。

 旧律やコードは、そういう竜の虫に干渉するためのほぼ唯一の方法である。コードの知識の深さとその他の条件によっては虫を喚び出し、ときには主となり、またはそのような特別の関係を結ばずとも一時的に可視化することもできるという。

 ところが、コードの知識を持つ各地のプライアがこのような術を使うことはほぼない。プライアはそもそも大半が紫の目を持ち、フォルセティのように竜と契約することができるので、竜を喚び出すコードさえ知っていれば、敢えて竜に従属するにすぎない虫を使う必要性がないからだ。知識は必要性がなければ伝えられることもない。契約の有無を問わずに範囲を指定して行う指示などに至っては、十分な知識を持つのは全プライアの頂点に立つサプレマを含めても数えるほどしかいないはずだ。

 だからその術が使えない場合、見えない虫の居場所を突き止めるには、羽音が聞こえたらすぐに水の上に誘い出し、彼らに仮の体を与えてしまうのが一番手っ取り早かった。その状態ならば彼らの羽音は空気や水を震わせるようになるので、居場所はその上と特定できる。

 なぜルーシェに虫が感知できるのか、はっきりした理由はわからないが——いずれにせよルーシェが竜の虫を連れていれば、万一フォルセティと彼女が離ればなれになっても連絡役が確保できるから護衛の上でも必ず役に立つ。

 フォルセティから大体こんな説明を受けたルーシェは、頭の上を気にしながら商店の並ぶ明るい通りを歩いていた。

 フォルセティは立場上当然なのかもしれないが、案外博識だ。彼の説明は淀みなかった。


 ルーシェが名付けた「オト」は、フォルセティの手によってルーシェも意識しないうちに彼女を主と決め、その主の頭の上に収まっている。フォルセティの話ではオトは風の竜にまつらう「吹虫ふきむし」であるらしいが、ルーシェには今ひとつピンと来なかった。

 しかも今オトはどうやら誰からも見えている。そのためフォルセティと並んでいる彼女の頭に乗った鳥には珍しそうに人々が振り返り、その都度彼女は恥ずかしい思いをした。好きで頭の上にこんな焦げ茶色の丸いものを乗せているわけではない。隣のフォルセティも道行く人々の視線には気づいたようで、彼は歩きながらぼりぼりと後ろ頭を掻いた。

「なんかみんな見えてるよな」

「どう考えても、そうね」

「俺なんか間違えたかな? 虫は竜よりも負担が小さいから普通の人間でも契約できるってどっかで見てさ。それでうろ覚えの知識でルーシェにそいつの主になってもらったんだけ……あっ」

 急に立ち止まるとひとりで納得し、満足そうに再び歩き出したフォルセティの後を小走りにルーシェは追いかけた。頭の上のオトがずり落ちそうになり、慌てて小さな翼を羽搏はばたかせた。

「どうしたのよ、『あっ』って」

「いや、誰からも見えるようになっていいんだよ、竜だってそうだった。俺ちゃんとうまくやったんじゃないの、ははは。成功」

「もしかして私で試したの?」

「試したなんて人聞きの悪い。オトはきっと役に立つぞ。見ろよ、この素晴らしい能力を秘めた瞳」

「見ろって言われても……」

 頭の上が見えるわけがないだろうと言いたげにルーシェは肩をすくめたが、フォルセティはひとつも聞いていない。

「黒光りするくちばし。美しいねえ。そして余裕の熟睡、能あるなんとかはどうのって言うでしょ。こんなのをお供にできるんだから、ルーシェは是非俺に感謝なさいよね」

 芝居がかったフォルセティの様子にまともに取り合う気がなくなったルーシェは、大きなため息をつき、前を向き直ると再び通りに沿って歩き始めた。


 フォルセティが挨拶をすると言った、彼の両親の知り合いの家は、目抜き通りの坂を上り切ってから路地をいくつか曲がった先にあった。そこもほかの家々と同じく、白い壁に青く塗られた扉がはめ込まれており、階段の手すりの黒い鋳鉄には蔦が絡ませてあった。きちんと手入れされているようで、玄関周りには塵ひとつない。

 ユーレの黄色い壁を見慣れたルーシェには建物の色遣いが少し寒々しすぎる気がしたが、ところどころに茂らせた緑が彼女の目に映る町の印象を和らげた。そうしているうちにもフォルセティは階段を上がり、扉を二、三度叩いただけで返事も待たずにドアノブを引いた。

 奥から出てきた女性は老年にさしかかっていたが、あまりに遠慮のないフォルセティの振る舞いにおろおろしていたルーシェの予想に反し、彼女はうやうやしく辞儀をすると彼を中に招き入れた。フォルセティが手招きしたので、ルーシェも階段を上がって中に入った。


 通された部屋には丸い木製のテーブルがあり、勧められた椅子に座ったルーシェは、女性が奥に戻ってしまうのを確認してから隣のフォルセティを小突いた。オトはまた頭の上で寝ている——「まだ」と言うべきか。ルーシェは気にするのをやめた。

「前も来たことあるの?」

「ないよ。今日が初めてだ」

「じゃああの人はどうしてすぐにあなたを入れてくれたの?」

「格好でしょ。見習いとは言え、こんなの着てるのはサプレマか関係者くらいだし……この町の人は敬虔な信者が多いしね」

 そうなの、と呟いてルーシェは部屋を見回した。頭の上くらいの高さに作られた吊り戸棚は、扉を外して中にきれいに瓶や本が飾られている。さっきの女性がやっているのだろうか。新しくも広くもない部屋で、しかも薄暗かったが、それでも全く不潔な感じはしなかった。埃っぽさもない。

 女性が戻ってきた。男性を連れている。三十代前半といったところなので、女性の息子かもしれない。フォルセティとルーシェは立ち上がり、頭を下げた。オトは飛び立って部屋の隅の椅子の背に止まったまま、ふたりが再び腰掛けても戻ってこなかった。


 フォルセティはどこに隠し持っていたのか、白っぽい封筒を取り出すと、テーブルの上で男性に差し出した。男性はそれを受け取り封を切ると、中の便箋を開いた。外側とは違って薄い赤に見えるが、実際は白い紙に模様をつけたものだ。水に油性のインクをたらし、浮いたインクを所定の手順で切るように整えてから水面に紙を乗せ転写するという古来からの技法による。プライアが使うことが多いのは、その技法で現れる模様が呪術を連想させるからだという。

 ちらと見えた様子では、文字はユーレでよく使われる花紺青スマルトではなく、暖かみのある焦げ茶のインクで書かれているようだった。内容まではわからなかったが字も決して下手ではない。というか、かなり端正だ。ルーシェはサプレマ——フォルセティを毒見に使っていいと笑ったあの女性——のことを思い出し、失礼ながらちょっと意外だ、と思った。


 ルーシェはただ座っているだけだったが、男性とフォルセティの話を脇で聞いていたところによれば、この男性は二十年ほど前にフォルセティの両親に会っているという。最初の二度はふたり一緒に、それからサプレマだけが。そのときサプレマは帰国の途でここに寄り一晩過ごしたが、当時健在だった男性の祖父に乞われ、まだ少年だった男性に祝福を与えていったのだそうだ。

 当時はフォルセティの両親はまだ結婚していなかったが、ゆくゆくはそんなこともあるかもと祖父は笑っていて——と、男性もまた笑った。フォルセティは照れくさそうに首の後ろを掻いた。ルーシェにはあまり関係のない話題だが、そういう話を聞くのは楽しかった。


 ふたりは昼食をごちそうになってから、その家をあとにした。

 それからふたりはいくつかの商店を巡り、フォルセティが「安全な食べ物」を準備するのに必要なあれやこれやを入手して回った。主には食用になる植物の種で、種類ごとの入手数は多くない。それで足りるのかとルーシェは尋ねたが、一度手に入れてしまえばひとつの種からいくつも実がつき、そこからいくつもの種がとれるから大丈夫だという。なるほどと納得していると、頭の上で何かもぞもぞ動く気配があった。オトが欠伸をしたようだ。

 町の外れについた頃には日が傾き始めていた。風の民に追いつくには馬を使えばいい。ユーレと違って水路が発達していないアドラの辺境では、「この町で借りた馬を他所の町で返す」という昔ながらの移動システムが機能しており、それを知らなかったルーシェはフォルセティが「簡単に追いつける」と言った理由にようやく得心した。

 とは言え、この時間から出発すれば追いつく前に野宿になってしまいそうだ。さすがにふたりきりでそうした状態になるのは良くない気がして、ルーシェは宿を取ることを提案した。

 フォルセティはきょとんとした顔をした。ルーシェが一刻も早い合流を望んでいると思っていたからだ。しかし彼女が「途中で暗くなるし、困るでしょ」と肩をすくめると、彼は首を傾げた。

「暗いの怖いのか?」

「そういう意味じゃないわよ。ふたりで野宿は嫌なの」

「え、なんで? ……え?」

「……変な想像しないで」

 向こう脛を蹴られたフォルセティがうずくまった。仁王立ちになったルーシェの頭の上で、オトがまた欠伸をした。

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