3 / かもめ
翌日、予定どおり朝早く町を出るという風の民の面々を、フォルセティは何やら話をつけて見送った。
彼が護衛をしているルーシェも、もちろん彼と一緒だ。彼女は不服そうな顔をして、クレタたちの姿が見えなくなるのを見届けると、隣で欠伸をしているフォルセティの脇腹を小突いた。
「なんで別れるのよ」
「俺とルーシェだけなら身軽だから、すぐ追いつけるって。心配すんな」
「すぐって……それも怪しいけど、私が聞いてるのはそうじゃなくて、ここに残る目的よ」
ああ、と肩をすくめたフォルセティは右足を踏み出した。その隣をついて歩き始めたルーシェは、しばらくすると見えてきた目抜き通りの様子に目を見張った。
昨日は隙間なく閉じられていた窓が今はどこも開け放たれている。足元に影を落とすものは何かと見上げれば、青い空には白いかもめが舞っていた。石の敷かれた坂道に沿って商店が朝の支度を始めている。一見して聖職者とわかる格好のフォルセティに気づいて会釈をするものまであった。彼はそれに笑顔で挨拶を返しながら店の前を通り過ぎた。
まるで町が笑っているようだ。
「昨日とは全然違うわ」
「俺たちは風の民じゃないからね。これがここの日常だよ」
ルーシェは眉間に皺を寄せてフォルセティを一瞥した。彼の言葉が風の民を侮辱しているように聞こえたからだ。彼もそれはわかったようで、「そういうつもりじゃない」と面倒臭そうに手を振った。
それが実際侮辱であろうとなかろうと、風の民が病を運ぶと噂され、敬遠されていること自体はまぎれもない事実だ。フォルセティに怒っても仕方がない。ルーシェはため息をつき、それで、と後ろで手を組んだ。
「それで、ここに残った目的はなに?」
「うちの両親の知り合いがいるから、ちょっと挨拶頼まれてて。それと足りないものの調達」
足りないもの、と首を傾げたルーシェに、食べ物がなあと頭を掻いたフォルセティは、いくつか見て取れる野菜や果物を扱った商店を覗きながら答えた。
「俺が変な体質なのはルーシェも知ってるでしょ」
「変な体質っていうか……サプレマの血筋でしょ。他所の国のプライアも。竜と契ってその恩恵を得ることができるとか。詳しくはわからないけど、その程度なら」
「ちょっと正確じゃないけど、だいたいそんな感じ。とにかく俺は護衛に任ぜられた以上、特異な能力ですとか、無闇に治癒力の高い体ですとか、そういったものをフルに活用して命に代えても全力で、晴れの宮殿下をお守りする必要があるわけよ。そこでです」
果物を山盛りにした籠を並べた店の前で立ち止まり、腰をかがめて足元に手を伸ばしたフォルセティは、籠から転げ落ちたままの場所で日光浴していた果物を拾い上げた。目の前を虫の羽音が通り過ぎ、ルーシェが顔をしかめた。
「そこでまずこういったものを準備する」
「いくら私が世間知らずでも拾い食いなんてしないけど?」
「ああ……そう」
なぜか気の毒そうな顔でルーシェを見下ろしたフォルセティに手を伸ばし、ルーシェは彼の耳たぶをつねってから、その手にある「こういったもの」に目をやった。虫の羽音がその周りを囲んでいる。一匹が円を描きながら飛んでいるようだ。大きく、小さく、音が波打つ。彼女は深いため息をついた。
「虫のたかったものを食べちゃ駄目なことくらい……」
「どこに虫が?」
ルーシェは眉を寄せてその果物を見た。目を凝らしてみても、確かに虫はいない。しかし羽音がしたのだ。やっぱりねぇ、と頭を掻いたフォルセティはその果物を持ったまま、商店と商店の間の陰に並んでいた雨水を溜める桶の前まで歩いていった。
やっぱり、というのが何についてかはよくわからないが、グライトのテントの群れの中で虫の羽音を何度も聞いたこと、しかし毎回虫の姿を捉えることはできなかったことと何か関係があるのだろうか。ルーシェが少し伸びるようにして見つめる先でフォルセティは立ち止まった。彼は薄暗く散らかったそこで何か呟いているようだったが、やがて振り返って手招きをした。
彼のしようとしていることに皆目見当のつかないルーシェは、周りを見回してから渋々言うとおりに彼の隣に立った。通りからは陰になっているその場所を、誰も気に留めない。ルーシェはフォルセティの顔を見上げたが、彼は逆に下を見るように目で促した。
「水面を見てて」
「わかったけど……あ、やだちょっと」
フォルセティは桶の真ん中に、その果物のへたをつまんでぶら下げた。そんなものを水の中に落とせば水も傷んでしまう。止めようとするルーシェの頬を、フォルセティはもう片方の手で脇に避けるようにして止めた。見ていろ、と言うのだ。
彼は果物を落とすことはしなかった。しばらくすると、虫の羽音が再びルーシェの前を横切った。目の前から音がするが、虫の姿はない。彼女は羽音の主を探し、水面すれすれに吊るされた果物を見つめた。
風の吹いていく方向に緩く波打っていた水面に、果物の真下を中心に水紋が同心円状に広がった。まるでその上に何かいるようだ。
「これなに?」
「羽音は聞こえた?」
「今も聞こえてるわ。何も見えないけど……」
ルーシェはおそるおそる水紋の上に手を伸ばした。
ばち、と何かに手を叩かれたような気がしてルーシェは咄嗟に手を引っ込めた。横のフォルセティを見上げると、彼は気の抜けた顔で息を吐いた。
「ルーシェはな。なんていうか、聞こえる人なんだよ。『虫』の音が」
ルーシェはその言葉を繰り返し、さっぱりわからないといった顔で首を傾げた。虫がいるのなら羽音が聞こえるのは普通のことではないか。問題はその虫が「見えない」ことなのに——彼の言い草ではまるで、聞こえること自体が特別だとでも言いたげだ。しかしフォルセティはそれを気にかける様子もなく、果物を桶の上から離して手のひらに置き直し、その上で円を描くように指を滑らせた。果物の中からすくすくと黄色の双葉、それから緑色の本葉が伸びてくるのを待ち、苗となったそれを彼は地面に置いた。苗は土を得て根を伸ばし始め、やがて小さな木の形に育って実をつけた。彼はその実を摘み取った。
目の前で起きたことに目を白黒させているルーシェの手をとると、フォルセティはそこに収穫したばかりの果物を乗せてにんまりと笑った。
「どうぞ、宮殿下」
「え? えっと」
言葉を選ぼうと四苦八苦しているルーシェをそのままにして、フォルセティは今度は枯れ始めたその小さな木に手を伸ばすと、何かをそっとつまむような仕草をした。
そこからさっき水桶の上でしていた羽音がする。その音の主を見つけようと目を凝らしたルーシェに、「それ前に出して」とフォルセティは促した。
何が起きているのか、これから起きるのかもわからない。ルーシェはわけもわからないまま、彼の言うとおり、さっき渡された実を羽音の方へ差し出した。何かがその果物に取りついたような新しい重みがある。
食べてみ、とフォルセティが言うが、そんな得体のしれないものがくっついたなら食べる気にはなれなかった。ルーシェが渋っているとフォルセティは眉を寄せて急かしだしたので、ルーシェは仕方なく従った。意味はわからないままだったが、彼が自分に害あることを勧めるはずがない。
いつもはしない食べ方だが、彼女は思い切って果物にかじりついた。しゃりしゃりした果肉を呑み込むと、瞬きの向こうに今まで見えなかったものが見えた。薄暗がりの中で何かが
「フォルセティ。これなに?」
「ルーシェにはさ、名前がもうひとつあるでしょ」
「もうひとつっていうか。ちゃんとしたほうの名前はあるわ。でもそれとこれとになんの関係が?」
「ないわけじゃない。その名前の由来を?」
意味なら、と肩をすくめたルーシェは、その海月のような不思議な物体の向こうに透けて見えるフォルセティの手のひらを見つめた。
「ルーシェもレヴィオも『旧約レギト律』、略して『旧律』っていう、風の民の古い言葉で名前をもらってるんだよ。旧律はずっと昔の人たちが使っていたもので、クレアリットもシルキアーテも全部旧律、ちゃんと意味がある。そしてそれはさらに遡れば俺たちプライアが竜を喚び出したいときとかに使う『コード』っていう言語に合流する。現代での用法はどっちも呪文みたいなもんだわ」
「それと私の名前とどう関係があるのよ」
「ルーシェの名前はな、だから、文の一部としてコードの中に組み込んでも異物判定されず歌を壊すことがない……ああもう面倒くさいな、この辺はわかんなくていいよ」
さっぱりだという顔で眉を寄せているルーシェにフォルセティは、言葉どおり心底面倒臭そうな顔でため息をついた。
「先にそっちを片付けよう。ルーシェ、目の前に出てきたものが何に見える?」
「何にも見えない。固まりきれてないジュレみたいな、よくわからない感じ……」
「そうかい。じゃあそいつになんか適当に名前をつけてやって。形を想像しながら」
「いきなりそんなこと言われても難しいんだけど」
そうして商店と商店との隙間でふたりが問答しているうちにも、ふたりの間のその「ジュレ」はだんだんと光を弱めていた。それをルーシェがフォルセティに伝えると、彼はルーシェに少し強い口調で促した。
「なら飼いたい動物とか適当でいいからさあ。とにかく形と名前を決めてくれよ、最初からやり直しになる」
「え、え……じゃあ鳥。小さい頃飼っていた鳥、名前は『オト』。お母さまが選んだ名前」
ルーシェの言葉を聞き終えるか終えないかのうちに、目の前のものは輪郭の光を一瞬強め、その光を中心の一点に集約して消えた。薄暗がりに戻ってしまった周りを見回して光を探したルーシェの目の前で、フォルセティが安堵のため息をついた。
「今の、なんだったの?」
「竜の虫だよ。大抵の人には見えないし聞こえない。俺たちですらああいった細工なしでは音が聞こえるだけなんだけど。連中は誰かを主に定めて名前をもらうと、その名付け親の望む形で目に映るようになるんだわ」
「望む形……どこにいるの」
不意にフォルセティは身をかがめ、何かを両手で包むようにして立ち上がった。光が消えた真下だ。ルーシェの目の前で彼がそっと手を開くと、そこには手のひらに収まってしまう大きさの、クリーム色の腹をした焦げ茶の小鳥がうずくまっていた。鳥の頭には毛が反り返るように逆立っている。黒い目の下の頬だけまるく赤かった。
オトだわ、とルーシェは呟いて、膝に手をつき身を乗り出した。小鳥は——鳥がそんな仕草をするところを彼女は初めて見たが——短いくちばしを思い切り開けて欠伸をし、それから飛び立ってルーシェの頭に止まると目を閉じた。首が膨らんだ胸に少し埋まり、丸いシルエットの上に逆立った毛だけがちょろんと出ている。その鳥は早速その場に落ち着いてしまい、もう動くつもりは微塵もなさそうだった。
頭の上に手を伸ばそうとするルーシェの前で、フォルセティは腰に両手を置いて言った。
「『オト』っていうのはコードと旧律に共通する文字のひとつだよ。右上から左下に向けて、曲線を描いて払う小さい字だ。ちょうどそいつの頭の毛みたいな形のね……」
「お母さまはそれを知っててこの名前をつけたのかしら」
「かもね。とにかくこれが、ルーシェが定めた竜の虫の姿」
ふうん、と気の抜けた返事をしたルーシェは、頭の上に手をやりかけたが、やめた。
虫の羽音は、もうしなかった。
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