2 / クレタとルーシェ

 まずは海沿いを行くのだと言う。ユーレを出たあとの進路だ。後ろをついてくるフォルセティを時々振り返りながら、ルーシェは一行の最後尾に近いところを、ずっとクレタと並んで歩いていた。

 ユーレは大陸から突き出た半島の、その先端のごく小さな面積だけを領有する国である。だからそこは風の民にとっては折り返し地点で、これから先は「帰途」になる。そして今回に限っては、帰りはどこにも寄る予定はないということだった。

 自分がいるせいだろうかとルーシェは申し訳なく思ったが、クレタに聞けばそれはあまり大した理由ではないらしい。急いで帰る理由は、ユーレを出てしまえば、風の民が病を運ぶとして疎まれるようになったこの空気から、こんな小さな部族を守る存在はいないから——そして何より帰る場所、そこで待つ人があるからだ。


「シルカは?」

 ルーシェは一行を見回して姿を見つけられず、隣のクレタに助けを求めるように尋ねた。もともとクレタのほうが背丈はあるのだが、少し踵のある靴を履いているせいもあり、クレタの目の高さはちょうどルーシェの頭くらいだった。クレタは前を指差した。

「シルカはちょっと特別だから、あそこよ」

 彼女の指の先には、馬の背に据えられた大きな籠がある。上から布をすっぽりと被せられ、中は全く見えない。

「特別」

 ルーシェが眉を寄せるとクレタは苦笑した。

「心配しないで。シルカは目がね、強い日差しがだめなだけ。先視だからね」

 そうなの、とルーシェは呟き、その籠の方に少し険しい視線を向けた。

 耳元をまた虫の羽音がかすめていった。風の民について回る虫なのかもしれない。ルーシェは疎ましそうにその音の去った方向を睨んだが、やはり虫の姿は見えなかった。

 振り返ると無表情のフォルセティと目が合った。彼は瞬きをし、ルーシェは肩をすくめて視線を前に戻した。彼女はあの顔があまり好きではない。何を考えているかわからないからだ。彼の父親も、即答できない質問をぶつけられたときなどは稀に似た顔をする——あれよりはまだ、相手に不安感を覚えさせないよう取り繕われてはいるが。対してルーシェ自身の父親はバカがつくほどわかりやすい。ルーシェは父のことも好きだ。腹が立つことも多いけれども。


 ユーレを出国してから国境地帯の荒れ地を抜け最初に見えてくるのは、隣国アドラの辺境の町だ。もともとはアドラの中で宗教的少数だったものたちが迫害を逃れて作った町だと聞いたが、アドラはさきの内乱の後に特定宗派を国教に指定することをやめたので、今は国の中心部との関係は悪くはなく、それなりの交流もあるようだった。

 海縁の坂の多い町という条件はグライトと同じだが、ここの道は黄色の砂ではなく白い石が敷かれ、壁も白い漆喰が塗られている。碁盤目状に整理された区画に白い建物が整然と並ぶ美しい町並みだ。今はもう暮れかかっているが、青い塗料で塗られた窓は昼間は海や空と共に、白い壁と鮮やかなコントラストをなすに違いない。この町の名前はメーヴェという。

 しかし何か不自然な感じがする。ルーシェは周囲を見回したが、クレタは何も気になるところはないようで、歩みを緩めることなく先に行ってしまった。ルーシェが立ち止まると、後ろから来たフォルセティがぶつかりそうになった。彼は、なんだよ、と眉を顰めた。

 ぶつかりそうになったということは彼も前を見ていなかったのだ。ルーシェは彼の横に並んで歩き始めた。

「ねえ。ここ、いつもこんな感じなのかしら。すごく静かね。静かすぎるくらい……」

「俺だって初めて来たからわかんないけどさ。窓も全然開いてないんだよな。こんな天気ならうちなんか喜んで夜通よどおし開けっ放しだけど」

 ルーシェはさすがにそれは不用心ではないかとは思ったが、フォルセティの言葉を聞いて改めて見てみれば、確かにどの家も雨戸までぴしゃりと閉めていた。だからこそ塗られた青が多く見えたのだろうが、見上げてみれば空には雲ひとつない。夕暮れが近いとは言っても、すべての家が戸締まりをしてしまうような時間ではない。

 軒先にはついさっきまで人がいたような形跡もあった。商品を並べて売る台は果物や野菜を山盛りにして、値札のさされた籠もあちこちにある。ということは人々は何かの理由でたった今、急いで中に閉じこもってしまったのだ。

「やっぱり『病を運ぶ』って思われてるのかしら」

「だから寄り道せずに帰りましょってことにしたんでしょ。今日は浜で夜明かしだってさ」

「浜?」

「病気を運ぶなんて言われてる連中が家の近くでテント張ったら、誰だって良い気分しないだろ。浜だけでも使わせてもらえれば上等だよ」

 そんなに、と眉を寄せ、ルーシェは再び周りを見回した。

 閉め切られた家の中で息を潜めている人々を、ルーシェはなんとなく嫌だな、と思った。風の民の通ったあとに病が出たとは言っても、それが本当に風の民のせいなのか、原因はまだわからないはずなのだ。ならばこれはあまりに極端な扱いではないか。

 しかし閉じこもっている人々の気持ちも理解できないわけでもない。何が真実かはっきりしない以上、病が移る可能性があるのなら、それから家族を守りたいと思うのもまた当たり前だからだ。ルーシェはやるせない気持ちになった。


 町を入ってすぐのところには、高台になった景色の良さそうな場所があったが、それには目もくれず一行は町の端に沿って歩き続けた。やがて膝の高さほどまで積み上げられた石の防塁が見えてくると、各々それを跨いで向こう側に足をつく。そうするとそこはもう石畳ではなく、砂浜の始まりだった。

 太陽は既に沈み始めて、下のほうは水平線に繋がり溶けだしている。その光があるうちと、風の民は手際よくテントを広げ始めた。

 砂浜に脚の長い影を落としている人物を認め、ルーシェはその行く先を追った。クレタはシルカの籠を負った馬を待たせ、ひとり用の小さなテントを慣れた手つきで張ってしまうと、その向こう側に馬を連れていった。しばらくテントの陰で見えなくなっていたので、そこでシルカを下ろしたのだろう。

 それから彼女は籠を馬から外し、その馬だけを連れて別の場所に移動すると、仲間が準備していた比較的大きなテントのそばで馬を預け、中に入っていった。


「シルカとクレタは、一緒にはいないのね」

 防塁に腰掛けて様子を見ていたルーシェが呟くと、隣で耳を掻いていたフォルセティが眉を上げた。

「そっちのほうが都合いいんじゃないの?」

「どういうことよ」

「いや、ルーシェがだよ。クレタはまだしも、シルカと同じところで寝るの嫌じゃね? こないだのこともあるし」

 ああ、と肩を落としてルーシェは膝に頬杖をつこうとしたが、彼女はフォルセティとは逆の方向にしかめっ面を向け、それから手を振り払うようにして、ようやく改めて肘をついた。フォルセティが一瞬目を細めたが、ルーシェはそれには気づかずそのまま返事をした。

「そういう話じゃないの。私、双子っていつも一緒にいるものだと思ってた」

「レヴィオとはいつも一緒にはいないじゃん」

「レヴィオは次の国王だから私とは違うわ。性別も違うし……そういうのがなければ一緒だったかもしれない。今回も一緒に来られたかも」

「そんなもんかね。俺ひとりっ子だからピンとこない」

 欠伸をしながら答えたフォルセティを頬杖をついたまま睨み、ルーシェは再び砂浜の方に目を向けると独り言のように漏らした。

「クレタは、シルカのことを知ってるのかしら」

 フォルセティは答えなかった。


 沈みかけている日を背に、クレタが手を振っている。テントの準備ができたのだろう。これから食事をとったら、明日は朝早く出発するのだそうだ。町になるべく長居しないようにするためだ。

 夜はいくつかのグループに分かれてテントで雑魚寝になる。昨晩、国境の荒れ地でテントを広げながらそれを聞いたフォルセティが大層嫌そうな顔をしたのをルーシェは見逃さなかった。彼は護衛だから優先すべきはルーシェの事情だ。そして彼は護衛だからわがままを言うわけにはいかない。

 そういうわけで彼は、女性と子どもばかりのテントの隅で肩身の狭い思いをすることに決められてしまった。そして朝の様子から察するに昨晩、彼は実際かなり落ち着かない夜を過ごしたようだ。慣れるにはまだ数日を要するだろう。

 出立の後、その日の野営地に至るまでの間にルーシェにその話をしたのはシャルムジカだった。彼女は後ろのフォルセティを振り返り、変な気を起こそうものなら袋だたきだと笑っていたが、百戦錬磨の彼女の視線をまともに受けたフォルセティは逆に、己の操の危機さえ感じたようだった。耳元で「あの子かわいいわね」とシャルムジカがささやいたのでルーシェが何ごとかと振り向いたとき、彼は血の気の引いた顔をしていた。

 それを思い出してか、フォルセティは今日も情けない声を漏らしてため息をついた。

 テントの設営は無理だが、食事の準備なら少しは手伝うことができる。ルーシェはフォルセティの襟に手を引っかけるようにして彼を引っ張ると、クレタがさっきよりも長い影を伸ばしているほうに歩いていった。

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