第2部、風と翼

第3章

1 / 先視の王

 その「部屋」は、部屋と呼ぶには外に開け過ぎている。

 美しく整えられた庭には白い石材が多く使われ、周囲を石敷きの通路が囲んでいる。曇り空の下でも咲き乱れる四季の花々は鮮やかだ。中央には豊かに水をたたえた池がある。「部屋」はその、白い蓮の咲く池の中にたたずんでいる四阿あずまやだ。

 丸い形のその場所は、十歩足らずで横切れてしまう程度の広さしかない。周りを、見上げる高さの柱が等間隔に囲んでいる。天井はドーム状で石がむき出しだが、縁にだけは帯のように夜空が描かれていた。

 柱と柱の間から差し込む光は、日のある間は必ず四阿の中央に届く。そこには丸い鏡があり、滑らかな肌触りの白い服を着た女性がほっそりとした腕を伸ばして鏡を動かすと、反射した光が上に向かった。しかしそれは直接天井を照らすことはない。女性が手を伸ばせばどうにか届くくらいの位置に浅い円形のガラスの水盤が吊られているので、光はそれを下から照らして天井に水紋を描くのだ。女性はこの庭の主である。

 鳥も虫もいない。だから今この庭で目に捉えることのできる動きは、風に揺れる草葉だけだ。それでも女性の耳には虫の羽音が聞こえる。彼女はその音の主を追うように目を滑らせ、最終的にそれは音と共に彼女の真上の水盤で止まった。水盤を吊る細い鎖が揺れ、水面がわずかに波打った。女性は鏡をもう一度傾けた。光がまっすぐ水盤の底を照らすように。

 天井で揺らめく水紋の色が変わる。黄色い大地の砂の色だ。しかしそれは鮮明な映像を結ぶことなく、すぐにもとの水紋に戻ってしまった。女性は形の良い眉を顰め、舌打ちをした。

「役立たずが」

 羽音が抗議するように響く。

「だから直接行かせたのだろう。もう良い、戻れ」

 姿見えぬものが消えた。女性は長くまっすぐな鳶色の髪と服の裾を翻すと、庭の端にある白い箱のような建物の中に消えた。

 

 

 その頃ユーレではフォルセティが王宮に呼び出されていた。呼び出したのは女王だ。彼はすっかり緊張してしまい、かなりぎこちない辞儀をした。後ろに控えているのはサプレマだ。こちらは慣れたもので、息子のその下手くそな振る舞いに肩をすくめている。女王もまた向かいで苦笑を漏らしていたが、その隣にいた夫のジェノバは相変わらずの仏頂面だった。

 ここは女王の私室ではない。並み居る群臣こそいないが、謁見の間だ。窓がなく天井の高い、細長い部屋。床には臙脂色の毛足の長い絨毯が敷かれ、玉座まで通じている。

 かと言って正式な場でもないのは誰の目にも明らかだった。女王デュートの態度だ。

「私のお願いは理解できましたか?」

 デュートは膝に頬杖をついて、対面のフォルセティの表情を窺った。

「理解はできましたが、陛下。理由が……」

「理由はふたつあります。あなたは今回の件で再調査をするに至ったきっかけという意味では当事者だし、もうひとつ。娘の希望」

「晴れの宮殿下の?」

「そう」


 その前日。いよいよ風の民がテントを片付け国を発つ準備を始めた頃、ルーシェは突然母の元を訪れ「彼らと一緒に行きたい」と言い出した。当然デュートもジェノバも反対したが、ルーシェの決意は固かった。彼女はあの晩侵入してきたシルカの言葉の真相を自分で突き止めたかったのだ——もちろんそのことには触れなかったが。

 幸運なことにルーシェの王位継承権は第二位で、第一位であるレヴィオほどには在国を要求されない。だからといって身の安全が保証できないところに送り出すことに両親が反対しないはずもなかったが、ルーシェは強硬だった。

 加えてデュートはルーシェが述べた「言い訳」に理解を示す理由があった。デュートとて母アルファンネルに会いたくないはずがない。しかし彼女は国王だ。軽々しく国を空けるわけにはいかない。それで彼女は「絶対に危ないことをしない」、更に「護衛をつける」という条件で、その外遊を許した。

 そしてルーシェが希望した「護衛」が、フォルセティだったのだ。


 確かにフォルセティにはサプレマの血胤けついんが引き継ぐ竜の加護があるし、小さい頃から父親に挑み続けているおかげでそれなりの訓練を受けた程度の力もある。それでもフォルセティにしてみれば自分が護衛の役など務められるのか疑問でならなかったが、後ろにいる母親が異議を唱えているふうもなかったので話は通っているのだろう。となればおそらく父親もだ。

 既に準備を始めているのかルーシェはこの場にはいなかったが、女王の聞き方は既に「あとは本人の了解だけ」という段階まで進んでいることを示していた。

 フォルセティはここで断ったらどうなるだろうと考えかけたが、体の芯が凍り付くような気がしてやめた。ルーシェはシルカの話を、フォルセティ以外には誰にもしていないはずだ。あの本の話も。要するにフォルセティは「共犯者」なのだ。とは言っても恐ろしいのはそのことに対する制裁ではない。

 諦めがつくのは意外と早く——それでもゆっくり二十は楽に数えられるくらいの沈黙のあと、彼はようやく「承りました」と返事をしたのだった。


 デュートはその後、国を去る挨拶に来た風の民の代表者たちに娘の同行を頼んだ。はじめ互いに顔を見合わせて渋る様子を見せていた彼らは、女王がアルファンネルのことを伝えると少し話し合った上で承諾してくれた。

 過去アルファンネルがとった「子どもとともに夫の許に残る」という、風の民にとっては望ましくない行動が当初仲間の反感を買ったのは事実だが、今彼女は部族に戻っているし、何よりこの部族にはそのおかげで国を挙げての庇護者ができたのである。だからアルファンネルはこの部族の中でもある種の特別な存在で、その名と縁とは絶大な効果を発揮した。


 そしてルーシェは、何日になるかわからない旅のために荷物の準備をし、最低限の護身術を身につけて出立の日を待つことにした。

 父やサプレマに聞くところによれば、風の民がもともと持っていたもの以外であれば口にしても特には問題がないらしい。それでも心配ではあったものの、そこではフォルセティが役に立つはずだとサプレマは言った。

 最初の調査をした地竜、翠嵐と契約をしているのはフォルセティだ。つまり彼も翠嵐の能力を分け与えられているのだから毒見にでもなんでも使えばいいというのが母親サプレマの言だった。先日も実のところ、フォルセティは毒消しの準備などしなくても(一応人間なのでそこそこ苦しみはするだろうが)最終的に大事に至ることはなかっただろうと彼女は言うのである。

 たまには痛い思いをしたほうが薬にもなると笑うサプレマの顔は穏やかだが、なかなか思い切ったことを言う。ルーシェはこれまでなんとなく近寄りにくさを感じていたこの女性に、少しだけ親近感を覚えた。

 クレタのことも、別に嫌いではなかった。一度しか会ってはいないものの、さっぱりした彼女はむしろルーシェにとっては好ましいタイプだ。しかしシルカのことを疑っているのだから、その姉のことも全面的には信用できない。ところが同じ年代の女性というとシルカのほかには彼女くらいしか知らなかったので、ルーシェは仕方なくクレタを王宮に呼び、道中どのようなものが必要なのかをリストアップしてもらった。

 初めて王宮を訪ねたクレタは、ルーシェの部屋の中を物珍しげに見回し、青い瞳をしばたたかせると肩をすくめた。

「何か変なものがあった?」

 ルーシェが尋ねると、クレタは苦笑した。

「何かっていうか……そもそも石の壁で仕切られたところで暮らすなんてしたことないし、家具も重そうだし……移動が大変だろうなって」

 クレタが挙げたものは心配になるほど少なかったが、それで十分やっていけるからこそ自分たちは「風」の民なのだ、と彼女は笑った。風のように旅をする民。その体は羽根のように軽いと。


 それから一週間経たないうちに、風の民はテントを馬や自らの背に負わせ、グライトを去った。

 ルーシェの荷物も大半は馬車に乗せてもらった。その中にはあの本はない。ルーシェが手に持つ荷物の中に、しっかりと潜ませてある。

 彼女は国民に騒がれないよう国境を出るまではストールを頭からすっぽり被ることという言いつけを守り、その裾を風に翻しながら何度も後ろを振り返った。

 最初に王宮が見えなくなった。次にグライトの市境を越えた。

 そして彼女は母国ユーレを出た。隣にはずっと、フォルセティがいた。

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