9 / クレタとサプレマ

 ジェノバとシャルムジカが話してから一週間後——フォルセティがジェノバに尋問されている頃、「甘いものでも」と言ったとおり、クレタはシャルムジカを連れてグライトの市街地に出ていた。

 今日のクレタはいつもの踊り子の格好ではない。あれではあまりに目立つし、いかにもな舞台衣装で出歩くことを快く思わないものも多いからだ。当然シャルムジカも比較的露出の少ない(それでも同年代のユーレの民に比べれば見えるところは多いのだが、興行中の風の民にしてはごく控えめな)格好に着替え、ふたりは陽光の降り注ぐ川沿いで活気のある商店を眺めながら歩いていた。

「行く当てがあるの?」

 シャルムジカは晴天の下、店先に並べられた色とりどりの野菜や果物の鮮やかさに少し浮きたつような気持ちになりながら、隣を歩くクレタに尋ねた。

「あるわ、いくつか聞いたのよ。でもまだひとつも行けてないの。この国にいるのも、もうあまり長くないから……全部は無理そうね」

「あら、お友だちでもできた?」

「ええ、ふたり。ひとりはなんとお姫様よ」

「本当?」

 冗談と思ったのか真に受けたのかも定かではない苦笑を浮かべたシャルムジカにクレタは、教えてもらったという店名をいくつか並べた。その中のひとつはもう行ったことがある、とシャルムジカが首を振ったので、ふたりは時間も時間だからと、残りの候補の中からしっかり食事もできそうな店を選ぶことにした。


 黄色いレンガ積みの住宅街の中。選んだ店は中庭と屋内とを、歪んで皺の寄ったガラスをはめた木枠の折り戸で仕切っていたが、足元は中も外も赤い素焼きのタイルで連続していた。折り戸を開ければ一続きになるのだろうが、今日は閉じられている。

 庭には色とりどりの花で溢れた大小の鉢植えが並べられている。それが折り戸越しに歪んで見える明るく静かな店内に案内されたふたりは、その歪んだガラスのすぐ横の席についた。

 テーブルに落ちる光はガラスの歪みを映して水紋のような模様を描いている。その下で開いたメニューは、ふたりにとってはどれもよく知らないものだ。シャルムジカもクレタも決して口数の少ないほうではないので、これはどういうものだろうかとか美味しいだろうかとか、決めるまでの間も食事の間も賑やかなものだった。

 シャルムジカは向かいで生魚の薄切りと何かの野菜を甘酸っぱい果汁であえたものを味わっているクレタを眺めながら、ちょうど良い温度に冷えたスープをすすった。あまり味はしないが、この国の料理ははどうやら全体的に薄味のようなので、この店やこのスープが特別というわけではないのだろう。素材が新しく、当然美味しいという自信がなければこういう味付けはできない。内陸の国ではそもそも魚を生でなど論外だ。ユーレはその意味では、あるいは「その意味でも」、とても贅沢な国だ。


 当初の目的どおりデザートまでしっかりたいらげたふたりは、満ち足りた心と腹とを抱えて外に出た。

 川辺の高さから少し上がったこの辺りから先には住宅が密集している。平屋は全くない。目線を上げるとそこにも玄関めいた扉があって、それはときに階段に、ときにふたりがいるのとは違う通路に面している。ひとつの建物の違う層で、違う家族が生活しているということだ。多層構造の、非常に複雑な町並み。

 両手を広げて立てば人ひとりと半分でぎりぎりだろうという、幅のあまり広くはない道は坂道と階段が多く、住宅の間を這い上がるつたのように広がっている。背の高い住宅のおかげで道はほとんどが涼しい日陰だ。時折風が上から吹き下ろしてきて、家と家との間に張られた紐に吊られた洗濯物や、窓辺に飾られた植物を揺らした。

「いいところね。水も緑も多くて、生活も慎ましいけど豊かだわ」

 シャルムジカは髪を耳にかけながら、呟くように続けた。

「私たちのところとはずいぶん違うわね」

「そうね……ねぇ」

「ん?」

 クレタは歩きながら、息を吐くとシャルムジカに問うた。

「シーマはあの場所に腰を落ち着けるのは賛成?」

「シオン? ……私がどう思うかは措いても、事実、もうそこに住んでる人がいる以上引き上げろとは言いにくいでしょ。それに、確かに荒れ地みたいなところだし、こんなしっかりした町もまだないけど、水は引いてきたり汲み上げたりすれば手に入るし、作物だって穫れる」

「私はあんまりあの場所好きじゃないのよ……」

 クレタはため息をついた。シャルムジカはその理由が、ただ土地柄だけを理由にするものでないことを知っている。彼女は目を伏せた。


 クレタとシルカの母親は、ふたりがまだ幼い頃、ふたりを連れてある男の庇護下に入った。しかし娘たちはそれを良しとせず、母の目を盗み夜闇にまぎれて逃げ帰ってきたのだという。

 戻ってきたふたりを保護し、親代わりを買って出たのがアルファンネルだ。彼女によれば、その行程は幼いふたりに深い傷を残した。ふたりは右と左の目にそれぞれ傷を負ったのだ。事実、シルカより先に体調を回復して表に出てきたクレタは、右目を眼帯で隠していた。

 クレタがなくしたのは、右だけに受け継いでいた母と同じ先視の目だ。だから彼女は部族の中で特別な存在ではなくなり、踊り子として育てられた。一方のシルカは両目とも先視だったから、片方を失っても、生まれたときに決められたとおり、まじないをするようになった。

 その後クレタは母に会っていない。部族のものもクレタの母を仲間だとは、もう、誰も言わなくなった。しかしそれと、彼女が寄る辺とした男の申し出を部族が受けるかどうかとは別の話だ。全員を連れて移動することに限界を感じていたものたちは、今や一国の王となっていたその男の提案に飛びついた。

 ただ当然、少なくともクレタにとっては、それは手放しで喜べることではなかった。誰も口には出さないし、姿を現すことはないにしろ、その男の後ろには母がいる。母は仲間を捨て、風の民であることとも決別した。そしてクレタは母の許を自ら去り、そのために大切なものを失った。


 シャルムジカには言葉が選べない。彼女はしばらく話題を探していたが、そのうちクレタが立ち止まったので、その視線の先に目をやった。

 そこにあったのはひとりの女性の姿だ。足元には黒い猫がいる。女性はシャルムジカより少し上の、クレタからすればそれこそ母親くらいの年齢だった。女性のまとっている衣装は、これまで見かけたどの市民よりもずっと上等な生地で仕立てられているようだった。着ている人がほとんどいないその深い赤の生地には、同じ赤の糸を惜しげもなく使って精緻な文様が刺繍されている。

 女性はしゃがんで、猫が覗き込んでいる鉢植えの葉を慈しむように撫でていたが、ふいと路地の奥へ目を移すとゆっくり立ち上がった。衣装のフリンジと、肩口でひとつにまとめられた薄茶の髪とがさらさらと揺れた。まるで風が吹いてくるのを知っていたかのようだ。

 クレタは、彼女に用があるから先に帰るようにシャルムジカに頼んだ。あれは誰かとシャルムジカが尋ねると、彼女は肩をすくめ、友だちのお母さんだ、と答えた。


 クレタはサプレマ、フリッガ・コンベルサティオと会うのは初めてだったが、それは相手も同じこと。だから最初彼女はフォルセティの知り合いだと自己紹介した。格好と目の色を見て家族ではないかと思い声をかけたのだ、と。

 フリッガはそれを疑う様子も見せず、彼女を家に招き入れた。フォルセティは今空けているが、もうすぐ解放されるだろうから待っていればいいという。クレタは彼女の申し出に甘えて家の中に入った。

 もっとも、クレタの目的はフォルセティではなかった。


「お話があります」

 ダイニングと思しい場所に招き入れられ、勧められるままにテーブルについたクレタは、足元をついてきた金目の黒い猫をひと撫でしてから顔を上げ、背を向けていたフリッガに声をかけた。あまりに無防備。そう思いながら彼女の背を見つめたクレタに、湯気を上げるポットを持ったままフリッガは振り向いた。

「私に?」

「サプレマに」

 フリッガは肩をすくめた。

 肩書きを呼ぶということは、この少女は宗教者としての彼女に用があるということだ。しかし残念ながら、フリッガは時々仕掛けられる、いわゆる宗教問答を大の苦手としている。素直に直感的に、何かに感謝したりすがったり、怒りをぶつけたりしたいと思ったときに初めて存在を認識されるもの、それが神なのだ——と彼女は思っているのだが、世の中にはもっと難しく考えたり理論的に説明したがる人が多い。

 ともあれフリッガはひとまずは無言のまま、ガラスのカップにお茶を注いだ。ポットを置いて、窓際の鉢植えから赤い実をふたつ摘み取り湯気の中に落とす。そうして用意した一杯をテーブルに置くと、フリッガは腰掛け、クレタの方にカップの持ち手を向け変えた。

 クレタは会釈をして手を伸ばした。よく考えればフリッガが無防備なのは別におかしなことではない。むしろ自分のほうが神経質になり過ぎている——それを見透かされてはいないかとクレタは心配になり、向かいのフリッガの様子を上目がちに窺ったが、彼女がクレタに不信感を持っている様子は全くなかった。クレタは息を整えるようにしてから、カップに一口、口をつけた。

 味わって、飲み下す。少しの間を置いてから、フリッガが先に口を開いた。

「話というのは」

「『虫』のことです」

 クレタの言葉にフリッガは眉を顰めると居住まいを正した。クレタはそれを認め、自身も背筋を伸ばしてから先を続けた。

「広場に。ご存じではありませんか」

「ええ、まあ。元気な花虫がいるなとは思ってましたけど……あなたと関係が?」

「私の妹の使っているものです。ご心配をおかけしているんじゃないかと思って、それでご説明をしたくて」

 フリッガは瞬きをしてから、思い出そうとするように天井に目をやり、ああ、と呟いた。

「そういえば聞きました。シルカさんだっけ。その方のテントに行ったときに音を聞いたと」

「聞いた?」

「うちの子が羽音を。そんで慌てて帰ってきて。病み上がりだったから、私がいい加減帰ってこいと怒ってるのかと思った、って……でも私は虫は山奥で水源地を見張ってもらってるくらいしか使ってないから、グライトには連れてきてないんだよね。というか花虫は私は縁がなくて使ったこともないし。だからよっぽど後ろめたかったんだと思う」

 肩をすくめてみせたフリッガにクレタは苦笑を返した。少し緊張の解けたクレタは、今日こんな話をしにきた理由にも関わる自分の生い立ちを話した。もちろん「先視」のことも。


 金に縁取られた緑の目を持つものを、風の民はそう呼ぶ。そうして特別扱いされているのは単にその神秘的な見た目だけでなく、その多くが「竜の虫」を検知することができ、それを仲間のために使役するわざをも修めているからだ。竜の虫はごくまれに現れる例外を除けば、普通は音も姿も認識することはできない。彼らはその名のとおり竜の眷属であり、たとえば花虫は火竜のしもべ

 一方その主たる竜のほうは、先視にも使役はできない。竜と結ぶことができるのは紫の目を持つものだけだ。彼らは結んだ竜の恩恵を「神の御業」として民に分け与える。彼らの多くが聖職者プライアである所以である。そういう特質を持ち、当然に竜の眷属をも使役できる紫の目の人間は、この国ではプライアの頂点に立つフリッガと、見習いのフォルセティしかいない。

 ともあれクレタは、自分たちが連れてきた竜の虫のことを説明しておこうと思ったのだった。理由は簡単、竜の虫はかなりの割合で不穏当な目的に使われるから。今回自分たちがそういう目的を持っていると疑われたくない。なんせ相手はサプレマ、使う竜の数も質もそこらのプライアとは段違いの、当代一の竜の主である。目を付けられると、ことだ。

 ところがフリッガの返事はなんとも気の抜けるものだった。

「迷子がまぎれ込んでくることがあるんです。これまでにも何度も」

「え?」

「竜の虫」

 フリッガは両肘をテーブルにつき、組んだ手の上に顎を乗せた。

「そうでなくても渡り鳥にでも化けられたら、入国を阻むのは無理だしね。だから基本は放置してます。それに万一不穏な目的を持っていたとしても、それなりに対応はできる程度の備えはあるし、正直なところ危険性は人間の方が高いくらいなので、気を揉むならそっち。そしてそれは私の仕事ではない」

「ならば私たちの虫のことは気にもされていなかった……」

「まあね。でも、あなたの話はもう少し聞きたいかな。遠慮のない言い方して失礼にならないといいけど、たぶん本題、別にあるでしょ?」

 少なくとも見た目には裏のなさそうな笑顔を見せたフリッガに、クレタは思わず苦笑いを漏らした。これがサプレマ、そしてフォルセティの母親だ。

 クレタの前のカップからは相変わらず、花の蜜のような甘い匂いが立ち上っていた。

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