8 / その身に包む
グライト市街地、路地を少し上がって川面を見下ろすようになった板敷きのテラスで、シャルムジカは向かいに座ったジェノバからは左側に長い脚を投げ出し、膝の上で手を組むとテーブルに目を落とした。
長くウェーブのかかった明るい色の髪はユーレの感覚では堅実な感じとは言えないが、それでもこうして普通の場所で向かい合えば誇り高い印象を与える出で立ちの女性だ。彼女の前にはカップが一客置かれている。それはたった今運ばれてきたもので、湯気の下の赤い水面に日の光を反射していたが、シャルムジカは手をつけようとしなかった。ジェノバは自分にも出された同じものに手を伸ばし、一口飲んでからカップをソーサーの上に戻した。いち押しと言われるほど美味しいものかどうかは彼にはわからなかったが、少なくとも不味くはなかった。しかしシャルムジカはやはり手をつけない。
「注文したのはそれで間違ってないだろ?」
「ええ、ありがと。でも私猫舌だから冷めるまで待ってからにするわ、だからどうぞお先にご遠慮なく」
「冷めたら旨くなくなるんじゃないのか」
「あなたいつもそんななの?」
眉を顰めたジェノバにシャルムジカは苦笑した。
「家でもそうなの、って聞いてるのよ。昼間っからあんなところほっつき歩いていたし、愛想も悪いし。今のところ、私に見える範囲じゃ良いとこは顔くらい。でも独身じゃないでしょ? 奥さんどんな人なの」
「妻は玉座の上だよ」
「なあに。どれだけ尻に敷かれてるのよ」
ジェノバを舐めきって言いたい放題のシャルムジカは心から楽しそうに笑った。玉座の妻というのは、この国ではジェノバに限っては比喩ではないのだが、彼は訂正もしなかった。湯気がほとんど見えなくなった頃にシャルムジカはようやく口をつけ、眉を少し上げてからカップを下ろした。
「ぬるくても結構おいしいわよ」
「それは良かった」
ジェノバは既に自分のカップを一口を残して空にし、不機嫌な顔で頬杖をついたまま、テーブルに置かれたキャンディポットの中から飴を取り出しがりごり音を立てていた。しかしシャルムジカも図太いもので、そうした様子を見ても一向に急ぐそぶりを見せない。彼女はじっくり時間をかけて最後の一口を飲み干し、ほうと息をついた。
これで話を聞く姿勢は整っただろう。ジェノバはそう考え、まずは彼女に内偵的な意味での協力者としてではなく、ただの調査対象として、風の民自身がどこまでを自覚しているのか聞いてみることにした。
「聞きたいことがある」
「なに? 私は引き止められてもこの国には残る気ないわよ。風の民は旅をする鳥のように何も残さずに去る、それが美しいからね」
「そういう話じゃない。きみたちが今回入国するときに言われたことがあっただろ」
なんだったかしら、とシャルムジカは斜め上に目を向け、それから思い出したように視線を戻したが、その表情はこれまでのように朗らかなものではなかった。彼女は眉を顰めている。仕方のないことだ。あれはユーレ国内に混乱を起こさないため、一般国民には伏せる約束なのだから。
「あなたがどうしてそんなことを聞きたがるのか知りたいわね。どこまで知っているの」
「知ってるも何も、命じたのは私だ」
「……あなた何者?」
「陛下から今回の一件について全権を委任されている。昨日の連れも関係者だ。昨晩もその件だった」
シャルムジカは眉を寄せたまましばらくジェノバを睨むようにしていたが、彼の表情が変わらないのに長いため息をつくと両手を広げた。
「つまり昨晩はおふたり揃ってお仕事中だったわけね」
「最初からそう言ってただろ」
「本当だと思わなかったのよ。じゃあ私は断られても仕方なかったわけね」
「だから、そういう話じゃない」
ジェノバは同じことを先ほども言った気がしながら頭を振り、それにシャルムジカは肩をすくめてテーブルの上で腕を組んだ。話に応じるつもりはあるようだ。
「この間出してもらったもの以外でも出たんだが」
ほかの客もいるのでジェノバは言葉を選んだが、シャルムジカも馬鹿ではない。
「何からだったの」
「酒だよ。舐める程度だったそうだ。どういう経路をたどってきたものなのか知りたい」
シャルムジカは小さく唸って腕を組み直した。
「私だってみんなのことを何もかも把握しているわけじゃないから、ここに来るまでに寄った場所でそれぞれが個人的に手に入れたもののことまではわからないわよ。ただ仮に最初から持っていたものだとしたら、自家製のものの可能性が高いとは思う」
「自家製?」
「ここ最近のことだけど、私たちは必ずしも前のように皆揃って移動するわけじゃなくなったのよ。土地を提供してもらって、そこに残って畑を作ったり動物を育てたりして、私たちの帰りを待つことにしたものもいる」
「つまり安住の地を持ったと?」
確認するように尋ねたジェノバに彼女は、まあそうかしらと呟いて続けた。
「体調や年齢の問題で、移動の負担が大きい人もいるからね、ありがたい面もあるのよ。声かけされたのは私たちの部族だけじゃないから、最近はそうやってできた集落がかなりまとまった広さを持つようになって、なんなら国として認めても良いとか支援してあげるとか、そんなことを言い出す連中もいるくらい。でもま、彼らにも何か魂胆があるんだろうし、国として認めてもらうことにもあまり価値を見出せないから、私は賛成はしてないけど」
少し話がずれてきているような気がしてジェノバは首をひねった。それに気づいたのかはわからないが、シャルムジカは筋を戻して先を続けた。
「そうして家族を残してきている人が、家族が自分の畑で育てた作物から作ったお酒くらい持ってても別におかしくないでしょ。日持ちするものだし、何より家族の手作りって旅先では嬉しいじゃない。そういう自家製。その意味ではあなたたちに差し出した保存食と同じ」
「自分の畑というのは」
「もちろんもらった土地を開墾したの、水も汲み上げてね。私もあっちに戻ったときはそうして作られたものばかり食べているけど問題なんか感じたことない。だから没収の話を聞いたときは正直驚いたのよね。あれが原因だと言われても私たち自身はなんともないんだから」
結束力の強い風の民の女が、仲間を窮地に陥れかねないような情報を簡単に漏らすとは思えない。とすればこれは彼女にとって「陥れかねない情報」ではないということだ。そして発症者フォルセティが舐めたのは渡されたものではなく、風の民が自分で消費していたものだという。その両親から話を聞いた限りでは、フォルセティが入手してから口にするまでの間に改めて毒物が混入する間もなかった。だとすれば「もとから入っていた」と考えるのが自然だろう。
なぜ風の民に発症者がいないのは気になるところだが、それは追々調べるとしても——風の民、少なくとも目の前にいるこの女は、かの土地で作られた作物が毒を溜め込んでいること、そしてその原因がおそらくは土か水かの汚染にあることを知っている様子はない。そしてその土地は第三者から提供された。
彼女ひとりの情報から判断するつもりもないが、この推測が覆されることでもなければ、この先は女王と議会が判断することのようだ。ジェノバはわずかに残っていた最後の一口を音を立てて飲み干し、日の沈んだほうを眺めていたシャルムジカの前でため息をついた。
シャルムジカが立ち上がった。テントの群れが活気づき始める時間になったのだ。ジェノバはその日彼女を広場のそばまで送り届け、そのまま我が家たる王宮に戻った。
その晩シャルムジカは結局、道には立たなかった。昼間ジェノバと別れたあと、なんとなく沈鬱な気分が抜けなかったからだ。彼女は橙の明かりに照らされた道を流れに逆行し、すれ違う人々の中に仕事仲間を見つけては、手を振りながら居住用のテントのある場所に向かった。その途中、後ろから肩を叩かれて彼女は振り向いた。
そこにいたのはクレタだった。金属や石の装飾品と肌見せの多い踊り子の衣装を身につけているから、おおかたこれから舞台に向かうのだろう。
「あら、おはよう」
シャルムジカはにっこりと笑った。決して「おはよう」の時間ではないのだが、しかしクレタもそれに笑顔を返した。夜に仕事をするものにはこの時間が始まりなのである。シャルムジカは道の向こうに見える中央のテントのほうに目をやり、それからクレタに戻した。
「これからよね?」
「そう。シーマは今日はお休み?」
「そのつもり」
「体調でも?」
クレタの青い左目は不安げだ。クレタはこうして豊かな表情を見せるが、シルカはそうではない。シルカは彼女をシャルムジカと呼ぶが、クレタは皆のようにシーマと呼ぶ。
とにかくこの双子は何から何まで対象的なのだ。髪の結い方に、眼帯に隠された目、服装の雰囲気も反対。とは言っても実際対比して「見てみた」ことはないのだが——
「体調は絶好調よ、ありがと。でもちょっと今日は憂鬱なのよね」
「そうなの? そういえばシルカが『追い出したみたいになって悪かった』って言ってたけど」
「あれは仕方がないわ、私も悪かったんだし……ねえクレタ、そろそろ行かなくて大丈夫?」
「うん、もう行く。背中がしょんぼりしてたから声かけただけ。まあ元気出してよ、今度一緒に甘いものでも食べに行こ」
それじゃねと笑顔を残したクレタは、すらりと伸びた脚を投げ出すように走り出した。シャルムジカはその背が人にまぎれて見えなくなるまで見送ると、再び大きなため息をついた。
ジェノバは後日改めて、数人の部下を情報収集にあたらせた。しかしそこから得られた報告には、彼が最初に受けた印象を変える力はなかった。
そこで彼は最後に、発症者本人を喚問することにした。
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