7 / 「お茶を一杯」

 さてどうしたものか。ジェノバはとうに歩き尽くしたテントとテントの間で腕を組み、渋い顔で手元を見下ろしてから息を吐いた。

 昨晩、ナイト・コンベルサティオ卿——ヴィダと彼とが出した結論はシンプルなものだ。有効な対策のためには原因を確定しなければならない。だからまず原因を究明するため、風の民に協力者を見つけ出し、そこから得た情報を分析して土か水かが汚染されているという推測が果たして正しいものなのかを確かめるのだ。可能ならばその理由も。

 それは字面の上では今反芻してみてもこの上なく単純な作業なのだが、いざ実行となると実際はなんとも難しかった。まず知り合いもない風の民の中から信用なるものを選定しなければならない上、見つけられたとしても、当の風の民に自覚がなければ協力者など無意味。

 一番簡単なのはジェノバが国内から信頼の置けるものを選んで潜入させることだ。しかし風の民はそんなことが簡単にできるほど結束力の弱い集団ではない。今ユーレにいるのはたかだか四、五十人の比較的小さな部族だから尚更である。

 いっそのこと全て話して頼み込み、調査させてもらうのが手っ取り早いのだが、そんなことをすれば一般国民にも遅かれ早かれ知れ渡る。そうして騒ぎになるのは避けたかったから、それならばもはやここはひとつ彼らが国を去るときを待ち、その旅程に誰かを同行させて原因を突き止めてから帰国させるほかないとジェノバは考えた。

 しかし今朝ジェノバに、欠伸連発で出勤してきたところを捕まえられてその相談を受けたヴィダは難色を示した。そこまでする必要があるのか、と言うのだ。

 彼はジェノバの幼なじみで発症者の身内でもあるが、普通そんな理由で国が一個人に調査の協力を仰いだりはしない。ヴィダが協力したのは彼のナイトという立場のためだった——とは言え、その称号を持つ人材の中でジェノバが敢えて彼を選んだ理由となると、言わずもがななのであるが。

 平和な世においては名誉職でしかないこの国のナイトは原則として武官が任ぜられ、「有事には己の判断で国を守る」という、抽象的であるがゆえに非常に広範な任務が課せられている。そういう立場からの協力だったから、ヴィダは国内さえ安泰ならば外交にわたることには口を出さない主義だったし、できる限り関わりたくもないようだった。

 しかし彼と、女王の命を受けたジェノバとは違う。風の民の一件については原因を最後まで究明しておくことが後々の外交で使える材料となる可能性があるというので、ジェノバには相当深追いすることが議会と女王とから要求されているのだ。

 そのような事情を措いても、とにかくそのヴィダは今日は士官養成所の教官という本職の関係で遅くまで手が離せないと言うので、ジェノバはひとりで再び出向いた広場の端で大きなため息をつき、まだ日のあるうちからその中へ足を踏み入れていたのだった。


 昨日は散々女たちに声をかけられた狭い通路も明るい間はさっぱりとしたもので、テントの中からは準備の音が聞こえる。時折すれ違う女もまだ営業用の顔ではないし、甘ったるい匂いもさせていない。

 その通りを抜けてしまうと、この時間でも客の出入りのある場所に出た。行き交うほとんどが女性なので、おそらく出し物は女性に好まれるものなのだろう。

 丁寧な刺繍の施された赤いテントがある。出入り口には紐がかかっていて、ここだけもう店じまいをしているようだ。気の早いところもあるものだ。前を通り過ぎようとした彼に、中から前触れもなく出てきた女がぶつかった。

 女はまだ化粧をしていなかったが、それでも大きな目に長い睫毛をしばたたかせると、あら、と呟きながらジェノバを見上げた。昨晩彼ではなく連れのヴィダに声をかけた、そして今シルカと(半ば追い出されるようにして)別れたシャルムジカだ。

 ジェノバはその緩くウェーブのかかった胡桃色の長い髪には見覚えがあったが、どこで会ったのかが思い出せなかった。そのため彼はしばらく眉を顰めていたものの、突然思い出したように眉間の皺を深くして後ずさった。

「あなた昨日の? まだ誰も出てないわよ」

 気が早いのねえと笑いながらジェノバの周りを値踏みするような目つきで一周したシャルムジカは、彼の正面で立ち止まると腰に手を置いて笑った。

「今日はお連れさんは?」

「彼は勤務中だ」

「あなたは違うの? てっきり同僚かと思ったんだけど」

「私も勤務中だ。……どいてくれないか」

 シャルムジカは肩をすくめ、胸元で腕を組むと、仕事中ねぇと呟いてジェノバの足下から頭の先までをなぞるように見つめた。

 ジェノバは今日も普段着だ。目立つ軍装でうろつくわけにはいかない任務なので。しかしシャルムジカは彼が何者かを知らない。彼女はからから笑い、ジェノバの肩をどんと押した。

「『私』だなんて格好つけちゃって。こんな時間にそんな格好でこんな場所にいて仕事だとか、そんな下手な嘘ないわよ。私ももう少し暇つぶししないといけないんだけど、地元の人間からおすすめのお店とかないのかしら。実のところ私、移動も近いのに今回ここに来てからまだほとんど外に出てないのよ」

 ねえ? とシャルムジカは嘘くさいほどの笑顔で返事を促した。しかしそれは逆にジェノバに、彼女が比較的信用に足る人間であるような印象を抱かせた。客たるべき(と彼自身は思っている)相手に、無礼なほどに素直に思ったことを口にする彼女は、少なくとも裏表はなさそうだ、と。

 すぐに本題に入るつもりはなかったが、ジェノバは協力者の候補、もしくはそれを探すための端緒としてシャルムジカを選んだ。それで彼はグライトの民として一押し(と娘が誰かに聞いたと言っていたような気がする)の店で彼女にお茶をごちそうしてみることにしたのだった。


 一方その頃ヴィダは、できれば遠慮したい会議の席で欠伸をかみ殺しながら、手元の資料に目を通していた。

 昨晩帰宅したあと彼にまとわりついてきたのは、風の民のテントへの出入りを両親に禁じられた息子のほうだ。妻には事前に行き先と用件を伝えていたので、彼女はわけ知り顔でネコをじゃらしているだけだったが、息子は何をしていたのかどこに行っていたのかとなかなかしつこかった。それでも彼は、息子のこういうところは母親似だなと思いながら(ただしおそらく当の妻は否定する)何も答えないままなんとか無理矢理寝た。

 あとは落ちるだけの日が斜めに差し込む会議室の円形のテーブルには、彼と同じ指導者と、事務方の管理職とで総勢十二人がついている。まだ誰もが配られた資料を眺める段階で評議には入っていない。

 ヴィダが担当しているのは基本が実技指導で、普段書類仕事はそれほど多くなかった。しかしこの職について二十年近く、いつまでも現場組だ下っ端だと自称して逃げてもいられなくなったのも事実で、通常業務の終わったあとに付け足す形で開かれているこの席の議題は早い話が「人事」である。


 彼のように三十路に足を踏み入れるかどうかで退役し士官養成所に転職するものは滅多におらず、大抵は軍に数十年勤めてから出向してくる。軍から回されてきた希望者リストにはそうして再就職を希望するものの名がずらりと並んでいた。一見なんの決まりもないように見える並べ方だし、どこにも明記はないが、これが現在の俸給の順であることを知らないものはこの場にはいない。その順は一応、国が軍人としての彼らに与えた評価と一致している。

 名簿の名の頭には、彼らが大体何年の実務経験を持つかが一目でわかる印が記載されていた。実務経験が全くなければ印はないが、この名簿にそんなものは載っていない。印は円の層の数で期間を示す。ここにあるのは三重までの円と、塗りつぶされた円だ。塗りつぶしは印刷精度の問題で四重の円と同じ意味だから、三十年から四十年。この印の付け方は軍関係者には周知のもの。この印が多年を示しているにも拘わらず名前が下のほうにあれば昇給が非常に遅かった何かしらの理由の存在を推測でき、逆に円の層が薄いのに上のほうに並んでいるのは勢いよく昇給したもの。その理由が必ずしも実力だけではないことも、この場では誰もが知っている。

 そうして推察した人間像と支払うべき報酬を天秤にかけ、円卓の全員が納得して初めてその名が「希望者」から「候補者」に移る。そしてその候補者とは士官養成所の事務官が、現在の報酬の半分程度から交渉を始め、条件がまとまって初めて指導者として迎えるのが通例。交渉ごとの苦手な武官は多くが事務官の言いなりに比較的近い値で折れているが、それでも早いうちから指導者として勤めているよりずっと大きな金額でまとまっているのが現状だ。


 ヴィダは三重の円が付された人名を拾い上げ、思わず苦笑を漏らした。ほとんどが上のほうに並んでいる。彼らの実務経験はおよそ二十年から三十年。退役していなかったならヴィダにもこの印がついていたはずだ。それはつまり、彼が士官に採用された日からこれまでに三重丸分の月日が流れたということでもある。

 周りのものが思い思いに雑多な意見を交換している中、彼の苦笑いに気づいた同年輩の隣席の教官が小声でどうしたのか聞いてきたので、ヴィダは無造作に組んだ膝の上の紙から顔を上げずに肩をすくめて答えた。

「軍辞めてなかったら給料こんなにあったのかと思って」

「でも先生、慰留されたの振り切ってこっちに来たでしょ。後悔してます?」

「いやそれは。家族ができたら辞めよってのはもともと思ってたので……んん?」

 隣が何か続けようと口を開きかけたのに気づかないふりをしたヴィダは、下を向いたまま、名簿に見つけたかつての同僚の名前をぐるりと丸で囲み、「この人はいいよ」と言いながらテーブルに投げ出した。

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