6 / シャルムジカのふたりの男

 その前日の晩のこと。シャルムジカの誘いを断った金髪と黒髪の二人組は、寄り道をすることもなく粛々と、テントの群れがなす通路を余さず踏破した。

 風の民が作り上げたこの空間は、紫の夜空の下、橙の明かりが目の高さで焚かれ、朱や臙脂えんじのテントが闇に浮かび上がる中人々がざわめく。そこでふたりは確かにどこにも寄りはしなかったが、だからと言ってその場所に用がなかったわけでは当然、ない。彼らの目的はこの場所を歩き、見て回り、情報を得ることそのものだ。


 女王に命を受けたのは彼女の夫だった。そして彼は幼なじみを引き込み、その結果の二人編成になっている。シャルムジカ曰く「頭固そうだった」金髪のほうがジェノバ・シュバイカー、ルーシェの父。そして「嫁にぶっ飛ばされる」と断った黒髪のほうがコンベルサティオ卿。つい最近ルーシェに王宮に呼び出された(そしてその数日前に、風の民が媒介するという噂の症状についてユーレでえある初の発症者となった)フォルセティの父だ。

 ジェノバはあくまで女王の夫でしかなく王位と直接の関係はないが、それでも王配という立場は彼を一介の王宮警護官のままにはさせてくれなかった。コンベルサティオ卿の方も退役済みとはいえ、かつては年齢にしては異例の上級幹部職まで務めた経歴を持つし、それ以上にナイトの称号は一般に返納を許すものでもない。

 要するにふたりはいずれも見る人が見れば素性がすぐにわかってしまう人間なので、自らの足で現地調査をすることなど普通はない。ジェノバはそれを利用した。遊びにきていると思ってもらえれば都合が良かったからだ。彼らはフォルセティが自分の体で実証してみせた例の症状につき、発生原因の調査中である。


 女王と議会とは、この件に関しての全権をジェノバに委任した。そして彼はその委任に基づき原因と目された風の民の保存食を没収し、ひととおりの調査をしてこの一件を済ませたつもりでいたのだが、今回発症したのはそれとは別のものからであるという。

 女王は風の民との友好関係を維持したがっていたし、必要があれば彼らと他国との仲を取り持つ役を買って出るとすら言った。そうした日頃からの関係が、小国ユーレにとっては外交上の盾となり得るからだ。だがそのためにはまず、国内で風の民と国民との間に問題を起こさせないことが大前提となる。

 それでジェノバは、発症者の報告を(心底嫌そうな顔で)しにきたコンベルサティオ卿とともに、現状把握とあわよくば原因究明のためにここにやってきたのだった。


 発症の原因たりうる「保存食」はすべて処分させたはずだ。しかし、原因となるものが残っているのなら捨て置くわけにはいかない。

 ところが食べ物や飲み物を目にする機会は全くと言っていいほどなかった。あったのは休憩中の風の民が自ら飲み食いしている分だけで、歩けば歩くほど客待ちの娼婦に声をかけられた。しかもそのほとんどがほぼ例外なく隣のコンベルサティオ卿のほうに行くので、ジェノバはなんとも言えず複雑な気分になった。碧眼の彼の顔立ちは少なくとも同僚軍人の中では目を引くくらい整っていて、彼は普段はそのことを密かにコンプレックスに感じてさえいたので。

「おまえ、ああいうのを引き寄せる臭いでも出てんのか」

 四人目を断った連れに、ジェノバは皮肉たっぷりの口調で言った。それにコンベルサティオ卿——ヴィダはいかにも心外という顔で返事をした。

「なわけないでしょうが。おまえこそ、そういう言い方するから面倒臭そうって避けられるんでしょ? ああいうのは断るのが下手そうなやつとか、懐が深くて情に厚そうなやつのほうが狙われるんだって。あと酔っ払い」

「懐が深い? 温かいの間違いでは」

「だったら俺が狙われるの余計おかしいでしょ? 軍にいた頃の半分以下だぞ。なのに独身のときより出費多いし、ていうか死ぬほど食うやついるし、もうな。無理かも、うち」

 内容の割に能天気に笑ったヴィダは不意に警戒するように周囲を見回し、少し腰をかがめてジェノバの耳元でささやいた。彼のほうがジェノバより頭半分近く背が高い。

「来年からでいいから職員の給料上げてってお宅の奥さんに頼んでくんない?」

「慰留を振り切って退役したのはおまえだろ。場は設けてやるから直接交渉しろよ」

  目を合わせもせずに言い放ったジェノバに肩を落とし、勘弁してくれと呟いたヴィダは、広場の端が近いところで後ろを振り向いた。


 ここまでほとんどの道を満遍なく歩いたが、食事が振る舞われている様子はない。それならば何が原因であろうと——よほど(どこかの誰かのように)好奇心旺盛で向こう見ずで無闇に実行力のある人間が風の民の食べ残しを口にしたりしなければ——発症者が出て大騒ぎになるようなこともないだろう。その意味では安心しておいていい。

 しかし、原因が特定できないままではやはりすっきりしない。少なくとも保存食として没収したものは確かに彼の妻が(厳密にはその連れが)有毒性を指摘している。もしかすると原因は彼らの飲食物すべてに通ずる、もっと根本的なところにあるのではないか。その中で成分が凝縮するなどした一部のものだけが、少量摂取でも発症の閾値いきちを超えるというだけで。

 だがそれならなぜ、風の民自身には発症者が出ないのだろう。歩きながら気にしていたのは表だけではない。それでも彼らが前もって毒消しを服用しているような様子は見られなかった。大体、仮にそうだったとしても、そんなことをする手間を考えるなら初めから無害なものを口にすればいいのだ。


 ジェノバとヴィダとは広場をあとにし、運河沿いを王宮に向かって歩いていった。

 この運河は首都グライトを貫き、中流、上流と遡るにつれて幅を狭く、流れを急にする。ずっと上っていった水源地近くは、当代サプレマが山を下りた二十年ほど前から無人になっているが、建国以来のサプレマが代々連綿と引き継いできた水竜の加護は今も続いている。そんなわけでこの運河はユーレの民にとって、極めて重要な生活基盤であると同時に畏敬と感謝の対象であった。生まれた子はこの川の水で清められるし、死者が葬られ、弔われるのもまたこの川である。

 緩やかに流れる水面には、この辺ではもうあまり光が映っていない。運河沿いにあるのは主に日中商売をしている店舗で、歩く人もほとんどいないこの時間では既に閉まっているところが多いからだ。明かりの入っている民家や、夜が書き入れどきの一部の店は、運河沿いの商店の間から伸びる路地を上がっていったところにまとまっている。

 ただ暗い流れもときどき、部分的に青緑に光ることがある。河口がだいぶ近いこの辺には、海から発光性の微小な生物が群れをなして上がってくることがあるのだ。それをぼんやり眺めながらもヴィダは相変わらずの歩調を保っていたが、ふと立ち止まると川縁のぎりぎりまで歩いていった。


「何か気になるものが?」

 そう言いながら横に並んだジェノバに肩をすくめると、ヴィダは鼻の下を掻いてからその指で水面を指差した。川縁で水を被った草が淡く光っている。

「この辺までんのね」

「それがどうかしたのか」

「あの光るのは海のやつでしょ」

「この辺ならまだ潮も混じるから。今は満潮だし」

 海水を生きる場とする生物にとって淡水は毒になる。ある集団にとって無害なものが、ほかの集団にとっても無害なものとは限らない。ヴィダは水面を見たまま目を細め、それから頭を掻くと川縁にしゃがみ、膝で支えた二の腕の先を流れの上に投げ出して海の方に目をやった。橙色の熱気のこもったテントの間とは違い、この時間の川沿いは涼しく静かだ。透明な風に乗り、虫の鳴く澄んだ音が切れ切れに聞こえていた。

 水が潤す大地。動物も、植物も、土さえもそれに依存している。そして——彼は少し先に見える運河の中州に建てられた王宮を、その基礎部分から数えるように見上げていった。

 王宮の一番高い塔の、さらにその最上階にはガラスで囲まれた温室がある。地面の高さから吸い上げた水を供給するため、あの塔の中心には一本の水道管が通っているが、その水を含めた王宮の生活用水は残念ながら王宮の堀(となっている運河)から直接採ることはできないという。温室に関して言えば、塩分が濃過ぎて植物が枯れてしまうのだそうだ。

 仮に何らかの原因でその水に塩が混ざってしまったとしても、植物は拒否することはできない。だがそのことに人間が気づくのは梢が茶色に枯れ始めて、その原因を探り始めて、その段階でだ。大抵は手遅れ。


 ヴィダが目を落とした川縁は石組で水面の少し下まで整備され、その石の隙間から草がところどころ顔を覗かせていた。海からの風に揺られたそれらに柔らかな水音が被さり、葉の上に取り残された発光生物が明滅している。

 この草がこうして潮をかぶっても枯れることがないのは、塩に強い植物だからだ。長い年月の間に海の近くに追いやられ、そこで生きていくためにそういう進化をした植物。

 少しずつ慣らされさえすれば、それを毒と認識せず受け流せるようになる。そして彼らはその水が塩分を含んでいることなど知りもしないかもしれない。場合によってはそのことを把握の上で、自らにとっては毒ではないことを利用し、周囲の脆弱なものたちに戦いをしかけたりもするのしれないが——事実、見回してみればこの草は、潮風の当たる商店の脇で、しおれかけた別の雑草を駆逐する勢いで元気に勢力を拡大していた。

 風の民が当たり前に口にするものには何かしらの問題を引き起こす成分が含まれている。そしてそれに耐性を持っているのは風の民だけで、耐性のないものが摂取すれば問題が顕在化する。そう考えればすっきりするように、少なくともヴィダには思えた。

 しかしその成分が含まれるに至った経緯として考えられるのは何か、それを考え出すとまた可能性が絞りきれなくなった。人為的なもの、自然的なもの、あるいは自然的なものを人為的に利用したもの——今の風の民の対応と、先の没収措置への反応とを考える。回りくどいが仕方がない。今手の中にあるどの事実とも矛盾しない選択肢が真実なのだ。

「土か水か、どっちかかなあ……」

「なんだって?」

 聞き取り損ねたジェノバが眉を顰めるのを見上げ、ヴィダは頭を掻きながら言葉を繰り返すと再び水面に目を戻した。

「うーん、でもわかんない。推測」

「知ってる」

「いずれにせよ、俺たちじゃこれが限界でしょ」

「そうだな。これ以上は協力者がいる」

 ヴィダは頷きながら立ち上がり、もと来たほうに目をやった。橙に染まったテントの群れから立ち上り夜空の星を潤ませる熱気は、燃え上がる炎のようだった。

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