5 / 裏と表

 シルカのテントはその日は千客万来で、彼女は仕事を始めてからというものほとんどずっと、覗き込んだ水盤から顔を上げることができなかった。

 客が期待を込めて見守る暗闇の中、水面を光らすのは実は魔法でもなんでもない。水に溶かした蓄光性の薬品によるのだが、これほど立て続けでは補充することもできなかった。それに仮に補充ができたとしても、水に入れて一晩置かなければこの薬品はものの役に立たないのだ。それで水面の光が弱ってきた頃を見計らった彼女は「もう疲れた」と言い出し、残りの客を追い出してしまったのだった。

 数日前、こうして店を閉めようとしていたときに予期せぬ客が舞い込んできたのだったな——シルカはちらと出入り口に目をやったが、そこには外の光を細く中に投げかける、布の切れ目があるだけだった。

 彼はまた来るだろうか? あの柔らかな赤紫の瞳を好奇心で満たして。


 外に終了の印を掲げて戻ってきたシルカは椅子を引くと薬品の調合を始めた。これが済んだら行かなければならないところがある。時間もあまりない。客を帰らせたのはその意味でも賢明な判断だった。

 テーブルにいくつかの包み紙を並べる。それらは色分けされているが、開くと中身はどれも白い粉の固まったもので見分けがつかなかった。シルカは何も参照することなく慣れた手つきでそれらを順に薬さじにとり、乳鉢に入れていく。それからすべてをまとめてすりつぶし、混ぜ合わせ、そこに油を数滴垂らしてよく練ったものに、蝋燭から紙縒こよりに移した火を落とす。低い音で燃え上がった青い火は次の瞬きのときにはもう消えていて、残りをガラスの棒で混ぜれば、それはやがてぬるぬるした液体に変わった。

 不思議なこと、神秘的なこと、そして大袈裟なことを見せ物にしている場合、大抵その裏側は反比例的に単純だ。出来を確かめるためにシルカが蝋燭の炎を吹き消すと、暗くなったテントの中で今調合した液体が光を放った。それは彼女にとって満足いく結果だったが、何せ毎日のことだから今更感動もなかった。

 焦って冷やして固まらないよう、しばらく室温で冷ましてから水に沈めなければならない。そうすれば明日の朝には満遍なく溶けて、水全体が淡い光を放つようになる。シルカは乳鉢を脇に寄せるとさっき吹き消した蝋燭を点け直してから頬杖をつき、もうほとんど光を蓄える力を残していない水盤に目を落とした。

 自分の顔が映っている。あまりにクレタと似た顔の自分が。しかし似ていて当然だ。なぜなら自分たちは——


 そこに脳天気な挨拶を響かせて入ってきたのはフォルセティではなかった。シルカはびくりと体を震わせ、それから相手を見るとため息をついた。女性にしては背の高い、シルカよりひとまわり年上の仲間で、長い髪を胡桃くるみ色に染め、軽やかに波打たせている。

 彼女はこの時間はまだ暇なのだ。彼女の働くのは日が落ちてしまってから夜が明けるまで。風の民にはどこの部族にもいる女たちのひとりである。おおかた今起きて、ここでおしゃべりでもしながら遅い朝食をとろうと考えているのだろう。

「悪いんだけどシャルムジカ、私今忙しいのよ」

 シルカはそうは言いながら頬杖を外し、全く悪びれる様子のない顔で見上げた。

「そう? なんなら代わってあげるわよ。暗くなるまであと一時間近くあるし。明るいうちは出し惜しみ。売り方は売り物をごみにも宝にもするから」

 聞いてもいないことを滑らかに並べたシャルムジカはさらに、勧められもしないのに勝手に椅子を引いて腰掛け、にこにこと人好きのする笑顔を浮かべた。

 彼女はそれから膝の上の紙袋に手を入れ食べ物を取り出した。 穀物の粉を練って焼いたものに野菜と薄切りの肉とを挟んである。シャルムジカはそれを頬張ろうと髪を耳にかけたが、彼女はその姿だけで艶めかしかった。そうでなければシルカの倍近い年齢の彼女がその仕事の現役でい続けるのは難しいのかもしれないが、シルカにはわからない。いずれにせよその仕草さえもがシャルムジカが長年の経験で身につけた「自分の売り方」なのだ。


 シルカはシャルムジカが居座る気配しか見せないのに観念し、大きなため息をついて頬杖をつき直した。今調合した薬品が水に落とせる温度になるまでは相手をしてやることに決めたのだ。薄暗くこもったテントの中に香ばしい匂いと、新鮮な野菜の音をしゃくしゃくと響かせているシャルムジカにシルカは尋ねた。

「最近仕事は順調なの?」

「まあね。でもこないだは誘った男に断られちゃって少し落ち込んだわ。金髪と黒髪の二人組。金髪の方は頭固そうだったから別にいいんだけど、お連れさんがねえ。嫁にぶっ飛ばされるからなんて笑ってたけど、実際のところどうかしら。そろそろ引き際なのかも、狙った相手に断られたことなんかなかったのに」

「今まで断られなかったのが逆におかしいのよ。昨日の人っていうのが偶然、特別に愛妻家だったんでしょう。もしかしたら恐妻家かもしれないけれど」

 シャルムジカはただでさえ大きい目を一杯に見開いてから肩をすくめた。

「ばかね。女の脳は左右だけど、男の脳は上下に分かれているのよ。『愛妻』なんて上のほうが使う方便。私たちのお客さんは下のほう」

 そう言ってからからと笑ってみせたシャルムジカに、シルカは呆れた顔でため息をついた。

「まあそれはいいわ。私はそんな感じ、みんなも特に変わりなし。ただクラヴァがおめでたよ。だからあの子は今日から休業」

「産むのね」

「もちろんよ。風の民の子は私たちみんなの宝なんだから、みんなで立派に育て上げる。当然あんたも協力すんのよ」

 シルカは俯いてしまった。シャルムジカはそれを見ながらしばらくもぐもぐしていたが、なかなか切れない肉の筋を飲み込んでしまうと唇についた食べかすを舐めとり、ほう、と息をついてから苦笑した。

「そんなに大変なことじゃないわよ、ひとりでやるわけでもなし。それにあんたやクレタもそうして一人前になったんだから、今度はあんたたちがやる番。世代交代。そんだけでしょ」

「私たちは母に育ててもらったわ」

 シルカはシャルムジカを睨みつけた。それにシャルムジカは肩をすくめ、脚を組み直してから口を開いた。

「あんたのお母さんのことをあんまり悪く言いたくはないんだけどね。子どもは私たちみんなの財産よ。しかも自分と同じく先視さきみの子。私たちにとっても特別大切なのに、それを仲間から引き剥がして男のところに連れていくなんて。その上相手は……」

「やめて。わかってるから」

 シルカは立ち上がり、目の前の女を見下ろした。

 金に縁取られた瞳がシャルムジカを冷たく射抜いた。それこそが風の民の中で特別視され、畏れられている「先視の目」。この目を持つものは商売としては占いをしない。彼らがまだ見えぬものを見ようとするのは、部族全員に関わる重要な選択をするときだけだ。

 とにかくこれではさすがのシャルムジカもその場に残る気にはなれなかった。彼女は立ち上がると膝に落ちた食べかすを払い、それじゃね、とテントを出ていった。


 シャルムジカの背中が布の切れ目の向こうに消えるのを見送ったシルカはこめかみに痛みを覚え、力なく椅子に腰を落とすと額を覆った。

 シャルムジカのことは嫌いではない。しかし母のことを考えると憂鬱だった。両目を自分の右目と同じ色に彩られた母は、その先視の能力に期待をかけられていたにも拘わらず「シルカ」を連れて部族を離れた。今もその男の許にいる。

 もう十年ほど会っていない。しかし今となっては母のことはもう、どうでも良かった——というより諦めていた。一度出て行った彼女は、ファラン、いや、アルファンネルのようには戻ってはこないだろう。母は娘の自分が子どもながらに見ても美しかったが、それがゆえか気位の高い女だった。能力の高さを自負していたせいもあるのかもしれないが。

 とにかく今更母のことは考えたくなかった。シルカにはクレタが、そしてクレタにはシルカが。互いがいさえすれば十分だった。それはふたりが母の下で暮らしていたときと変わらない。

 だから彼女はこうして「待っている」のだ。


 外から差し込む光が赤に染まり始め、太鼓に乗せた音楽が聞こえてきた。クレタの出番が近いのだ。シルカはようやく冷えた薬品をガラスの棒を伝わせて静かに水盤の水に落としてしまってから、蝋燭を吹き消した。

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