4 / 忠誠のナイト

 現女王デュートが幼少の頃「フィー」と呼んでいた男——フォルセティ=トロイエ・グリトニルは、もとはと言えばデュートが語ったとおり、まだ子をなしていなかった頃の前国王夫妻が慈しみ育てていた子どもだった。その名は夫妻、イスタエフとアルファンネルとが、大陸にほそぼそと伝わるいにしえの神話からとったものだ。

 彼は士官養成所に放り込まれる歳になるまでふたりの下で育てられた。そのため夫妻が万一子をなせなかった場合には彼を養子にとり、ゆくゆくは立太子させるつもりなのだという噂もまことしやかにささやかれていた。しかし王妃の懐妊が遅れ、その話が現実味を帯びてきても、彼は自らの肩書きたる士官の職務を黙々とこなし、議会の一派が持ちかける度重なる工作も毎回相手にしなかったというのが王宮の記憶である。

 その後デュートが生まれると、彼の養子縁組と立太子の話はすっかりなくなった。間もなく彼は国王イスタエフからナイトの称号を賜り、単なる軍人以上に国王と絆の深い立場となる。彼はもともと国王にとってはほとんど我が子のような存在だったので、その信頼関係は彼よりずっと古参のナイトの追随も許さないほどに強かった。

 だからこそ彼は、本来国内にとどまり国の砦としてその生を終えるべきナイトの称号を得ていながら、ユーレ中枢の一部のものと隣国アドラとの、繋がりと企みとをあばきそして粛清するため、国王直々の命を受けて各地へ飛び諜報活動をする、異端の存在となった。

 そのことを知っているものは今はほとんどいない。少年期の数年を彼と過ごし、彼の死後十数年経ってから我が子にその名を継がせたコンベルサティオ卿でさえ、故フォルセティ=トロイエの実際の職務がいかなるものであったかは確信にまでは至っていない。現国王たるデュートが把握しているかもまた定かではないが、ルーシェが知らないのは当然で、名を継いだほうのフォルセティ・コンベルサティオに至ってはかつてそのような役割を担うものがいたことすら知らないはずだ。

 しかしなんの因果か今そのフォルセティはルーシェに、故フォルセティ=トロイエが前王イスタエフに宛てて落書きのような書き込みをした本をつきつけられているのだった。


「あなた一体何をしたの?」

 ルーシェは鋭い目でフォルセティを睨み、それにフォルセティは肩をすくめてみせた。

 ふたりがいるのはルーシェの部屋だ。レヴィオはおらず、ふたりだけ。歪みのない窓ガラスを通して差し込む光が照らすテーブルを挟んでふたりは座っている。天板の上にはそれぞれのカップのほかに本が閉じて置かれていた。足元は風の民のテントの色にも似た、深い赤の絨毯だ。目の詰んだ艶のあるもので、目利きでなくても値が張ることは簡単にわかる。

 窓の外には一番高いところを過ぎた太陽が輝いていた。その下では相変わらずテントが地面を鮮やかに彩っているのだが、この時間にはまだあまり目立った動きはない。日が落ちてからが彼らの時間なのだ。ルーシェのカップには半分ほどの紅茶が日の光を映してゆらめいていた。フォルセティは早々に飲み切ってしまっている。

「知らないよ。俺一体何をしたの?」

 カップを手にとったものの、軽さに空であることを思い出したのかそれを下ろしたフォルセティは両手を広げてみせた。その様子は芝居がかっているようにすら見え、顔をしかめたルーシェはふたりの間にあるテーブルの天板の裏を膝で小突いた。その音は向かいに座っていたフォルセティの肩をびくりと震わせた。ルーシェのカップに半分以上残っていた紅茶も揺れた。ルーシェは指揮者のように腕を広げ、それから両手のひらを床に向けた。

「いい? 何をしたか聞いているのは私よ。お母さまとあなたに伝えろと言われたわ。余計な手出しをするな、って」

 それにフォルセティはむっとした顔をしたが、気を取り直すように一度目を閉じると口を尖らせて答えた。

「いや、だから身に覚えがないんだって。誰だよ、そんなこと言ったの」

「シルカよ」

 ルーシェは外に聞こえぬよう小さな声で答え、それにフォルセティは眉を顰めた。何か思い当たるものがあるのだとルーシェは直感したが、彼女が問いただす前にフォルセティは自白した。

「俺、昨日シルカのところに行ったんだよ。クレタが出そうとした水を引っ込めたのとか、誰も食べ物を売ってないのとか、なんか変だなと思ってさ。母さんには、こないだ国境のほうまで行ってきたのは風の民が病気を振りまいてるって噂があったからだって聞いてて」

「そんな噂が……それ、本当なの?」

「もちろん事実じゃなかった。というか、だからこそ入国許可が出たんでしょ。ただとにかく俺はね、クレタが言ってた『ふたつに分かれた』とか、そういうのをこう、うまいこと繋げたら」

 そう言いながら彼は両手のひらを上に向け、それをぱちんと合わせてみせてから続けた。

「非常に、なんていうか、そうなるように仕向けた連中の陰謀的なものを感じて胸が高鳴ったわけ。だからシルカにはそういう話をしただけで別に……」

 ルーシェは、反応を待つように自分を見てくるフォルセティを前に、それはそれは長いため息をついた。

「どう考えてもそれでしょ。あなたは嗅ぎ回り過ぎたのよ。そしてそれが不都合だったということは、きっとそれが真実に近かったんだわ。嘘みたいな話だけど」

 情けなく眉尻を下げて両腕をだらりと下ろしたフォルセティは、革のサンダルを履いたままの左足で器用に右のふくらはぎを掻きながら首を傾げた。

「いやでも……ううん……そうかもしれませんネ。で、なんでルーシェは、その侵入者がシルカだと思ったの」

「顔が見えた。両目ともあの珍しい色をしてた」

「両目?」

「そうよ。手を引かないと、国民もただでは済まないと言われた」

 両目ねえ、と呟いたフォルセティはテーブルに頬杖をつくと、その中指で鼻の頭を触りながら窓の外に目を向けた。

 彼の目はどこにも焦点を結んでいない。ルーシェはフォルセティが何か考えごとをしているのだろうと思い、次の言葉を待った。案の定しばらくして彼はその目のまま口を開いたが、残念ながらそれは全く結論めいたものではなかった。

「それってどういうことなのかねえ……」

「言葉どおりでしょう。王宮に忍び込んで何を調べていたのかはわからないけど、この本の書き込みは過去のものとは言え、国王にわざわざ暗号みたいにしてまで知らされるに値する重要情報だったわけでしょう? こんな類いのものを探していたのだとしたら目的は推して知るべしよ。私たちは彼らを受け入れているのに、国民に危害を加えるなんて」

 ルーシェは、そんな話ではないのだとでも言いたげなフォルセティには目も向けず、心底がっかりした顔で本に手を置くと表紙を人差し指でとんとんと叩いた。それにちらりと目をやり、フォルセティは長く息を吐くと両手を膝に下ろした。それから彼はにわかにテーブルに両肘をつき身を乗り出すようにしたので、どきりとしたルーシェは思わず身を引いてしまい、絨毯の上で椅子の脚が浮き上がった。

「風の民にそんなことする必要があると思うわけ? ルーシェは。仮に彼らの腹に一物いちもつあったとしても、既に腰を落ち着ける場所の提案は受けてる上、いくつかの部族に分かれて旅をしているだけのあの人らは組織立った軍事力なんかも持つ余地ないでしょうが。そういう人らが国の転覆だとか、それに類する次元のことを謀るのは無意味だし、無謀」

「そう言われれば、そうだけど」

 じゃあどういうことかしら、と眉を顰めて腕を組んだルーシェはしばらくテーブルの上の本を眺めていたが、おもむろにそれを手に取り後ろから開いた。それはただ場を保たせるための行動だったのだが、ぱらぱらとめくったところにはまだ見覚えのない絵があった。

 小さな絵なので目をこらさなければわからないが、よく見ると犬の口から鳥の脚が飛び出ている。四重の円が描かれたページから少し進んだところだ。なぜこれだけが離れた場所に描かれているのかは不明だが、とにかく鳥は食べられてしまったようだ——つくづく悪趣味な筋書きだと内心嘆息し、ルーシェは瞬きをしてから本を閉じると膝に置き、顔を上げた。


 フォルセティはまたも頬杖をついていたが、それでも伏せた表情は険しかった。それに促されるようにルーシェも改めて考えてみる。フォルセティの突飛な考えが多少なりとも真実を捉えていたとしたら、どうだ。

 風の民に国を与えると言った国。それがどこかはルーシェは知らないが、国という体裁を整えた組織ならそれなりのまとまった武力を持っていたとしても、そして不安分子を脅しまたは排除しておこうとすることにもなんの不思議もない。

 しかしそうだとするとシルカは風の民として動いたのでなく、その国の手先ということになる。提供された土地に残り説得を続けているというアルファンネルのことを思ったルーシェは眉間の皺をますます深くし、向かいのフォルセティと彼女との間に重たい沈黙が落ちた。


 侍女が扉を叩いた。ルーシェは顔を上げ、席を立つと廊下に顔を出した。

 昨晩のことで王宮警護官が彼女に聞きたいことがあるのだという。彼女はため息をつくと部屋の中に目を戻し、書き込みのある本をぺらぺらとめくっていたフォルセティに、今日はもう終わりだと示して彼を帰らせたのだった。

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